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「五代友厚」についてテレビで紹介ありましたが、大阪に貢献した財界人ということです。画面に映った、お墓を見ると、正五位勲四等(?)だったかと思います。財界人としては、東の渋沢栄一氏が、『正二位勲一等子爵』になったのに、差が大きいと思いました。
五代友厚氏は、明治維新の中心の薩摩藩出身で、政府高官にも知己が多いですね。さらに、明治政府に仕えていた時期もあるので、その点でも、渋沢氏とも同じ。
五代氏が、栄典で少し冷遇されていたのではないのか、なにか理由があるのではないか、と邪推しました。明治政府に知己が多いので、逆にいろんなことがあったのでしょうか。どんな理由が考えれれるでしょう。事情通の方、よろしくお願いします。

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:政治・社会
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

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1 ● 匿名回答2号

五代の方が早死にしたこと、渋沢の方が官僚としての期間が長かったことも影響しているでしょうね。


匿名質問者さんのコメント
ありがとうございました。早死したこと、官僚としての期間が差の原因ということにおちつくのかもしれませんね。 爵位について申せば、華族の爵位制度が始まって以降は、薩摩と長州ですと、完全に長州の優位でしたから、井上馨の信任の厚かった渋沢氏は、財界人に爵位を与えるなら、当然、思い起こされる人材であり、有利だったのだろうと思います。五代は、薩摩と近かったようですが、長州系とは接点がなかったのでしょうか、そこが気になり、心残りです。
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