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「与え続ける」という意味での「愛」。それと「依存してしまっている状態」の違いが変わらないです。「心配ばかりして与えること」に依存してしまうというか。
「神仏」に与えられた者に「与え続ける」愛だと思うのですが、やもすると「共依存」のような気も。

ご意見お聞かせ下さい

●質問者: せそさん
●カテゴリ:人生相談 書籍・音楽・映画
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 3/3件

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1 ● しゅンしゅン
●34ポイント

与え続ける...

見守るとか、受け入れるとか、
そんな関係だと思います。

依存では、自分も相手も共倒れな関係ですね。


せそさんさんのコメント
共倒れがポイントですね

2 ● tak
●33ポイント

https://ci.nii.ac.jp/naid/110007042595/
与え続ける愛とは特定の誰かに対して、という意味ではないです。

教会に通っているせそさんならば以下のような文言は見聞きしたことがあるのではないかと思うのですが

太陽は善人にも悪人の上にも平等に光を注ぎ、月もまた同様に然りであった。
神は愛する被造物に対して対等に無限の愛を注いでいるのである。
神を崇める者にも、罵倒する者にもである。
したがって愛は、善のみに相対するのではなく、むしろ悪にこそ相対するのである。

キリストの愛は、まさに汝の敵さえ愛した無制限、無差別の愛に他ならなかった。
愛とは、相手と自分をつなぐ絆であり、生かし合う愛である。
これは「ペルソナ(人格)としての愛」とされている。
人間のいつまでも変わらない絶対的人格を対象とした愛なのである。


せそさんさんのコメント
確かに、最近フロムという方の本で、与える愛する、は対象というよりは「世界の捉え方」みたいなことだと書いてました。

3 ● MIHSA
●33ポイント

与え続けることができるのは神仏のみ。ただの人間に、そこまでの器量はないかと。
自分なりに真剣に考え、相手にとってよかれと思ってする言動がその人なりの「愛」。
それが相手にとって真に有用なものかどうかは、まさに「神のみぞ知る」。
始まりが「愛」の様でも病的ならば結果的に「共依存」にもなり得る。
(自分を適切に愛せない人は他人も適切に愛せないので、その点で病的かと)

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