?アッシリア教会という名称だと、
古代アッシリア帝国の支配民族に繋がる人々が、
ネストリオス派を受容して、成立した教会なんでしょうか。
それとも、アッシリア人でない人も大量に含んでいるけど、
「アッシリア」という名前を使ったのでしょうか。
アッシリア帝国滅亡後、元支配民(アッシリア人)が
アッシリア人と称して、ローマ帝国に住んでいて、
その頃に受容したのだと、
なんとなく、
“アッシリア帝国遺民というと、それなり人数が多いと思うけど、
今のアッシリア教会の信徒数がずいぶん少ない”と思うのです。
迫害されて、殺されたり追放されたり、
他宗教に改宗したからなんでしょうか。
?カルデアの場合も同様です。
古代のカルデア帝国支配層の後裔の印象があります。
古代カルデア帝国は精強だった筈なので、
支配民族として、そこそこ人数いたんではないかと
思ったりします。
しかし、カルデア教会は、ちょっと人数も少なくて、
心細い感じがします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アッシリア人
アッシリア人(-じん)とは、アラム語の1つ現代アラム語を話しキリスト教を信仰する中東の少数民族。
ドイツなどではアラム人(Aramäer)と呼ばれる。なお、古代アッシリア人との遺伝的関係は明らかになっていない。
現在のアッシリア人は主にキリスト教を信仰しているが、アッシリア東方教会、カルデア教会、シリア正教会の3つに分けられる。前者2つは典礼に東シリア語を、後者は西シリア語を用いる。
当時ネストリウス派を異端視する東ローマと敵対していたササン朝の歴代皇帝は彼らを手厚く保護し、ペルシア領のいたるところにキリスト教徒の共同体が作られた。
モンゴル帝国崩壊後、14世紀後期のティムールのユーラシア征服活動によりネストリウス派の規模は縮小
上記を裏付ける記述として
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-70/
1255年、フラグ率いるモンゴル軍はイラン遠征に出発した。
一方、イランに住むネストリウス派や他のキリスト教徒たちは、フラグを宿敵イスラム教徒を討ち破った救世主として、歓呼で迎えた。キリスト教の聖職者たちは、次々とフラグを表敬訪問し、その保護を求めたのである。こうして、モンゴル帝国はキリスト教の庇護者、つまり、イスラム教の天敵という構図ができあがる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ティムール
1370年4月9日[64]/10日[61]にティムールは豪壮な式典を開き、ハンに即位する意図は無いこととイスラム教を国教とする意思を表明した[61]。
ティムールは非イスラム教徒を弾圧しながら北上し、1399年3月末にマー・ワラー・アンナフルに帰還した[151][152]。
非イスラム教徒に対しては虐殺そのものを楽しんでいた傾向もあった[141]。