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モンゴル帝国について
バトゥは、ヨーロッパに遠征して、ハンガリー、ポーランドあたりで、ヨーロッパの軍勢に圧倒的な力の差を見せつけて勝ちました。

その後、帝国の跡目争いのために遠征が中断になりますが、
モンゴルがそんなに強かったのであれば、跡目争いが一段落したあと、遠征を継続して、ヨーロッパを全部を征服してしまえばよかったと思うのですが、なんでしなかったんでしょうか。

すくなくとも、ポーランド、ハンガリーあたりの大平原は、遊牧民族が生活するという点だけでも、なかなか良い土地であったし、
西ヨーロッパだって、征服して税金をまきあげるだけでも、かなりの収入になったのに。

●質問者: 三条 佳子
●カテゴリ:政治・社会
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

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1 ● namihei0
●100ポイント ベストアンサー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%88%E3%82%A5
まず前提となる「跡目争いがひと段落した後」が存在しておりません。
二代オゴデイは初代チンギス・ハーンの指名があった実子であった為、モンゴル族も纏まりましたが、オゴデイの死後、当の征西を行っていたバトゥが後継者を決めるクリルタイでオゴデイの子グユクを推す一派と対立し、ハーンとなったグユク自らバトゥ討伐を行おうとするに至ります。
途上でグユクが病没した為事なきをを得ますが、次のクリルタイでトゥルイの子モンケ(ともに欧州遠征を行った)がハーンになるとこの後ろ盾となって自領の統治に戻ったものの、その後5年でバトゥは亡くなってしまいます。

その後バトゥの一族であるキプチャク汗国は後継者が次々と夭折したことと、モンケ・フビライの弟のフラグの中東遠征(アッバース朝を滅ぼした遠征)で決定的にモンゴル部族内で対立するようになり内乱に至ります。
更にキプチャク汗国内でも後継者争いが続くようになり、軍事力としては依然強力であっても欧州への再度の遠征ができない状態になっていたわけです。

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