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後陽成天皇の諡号は、陽成天皇の諡号を意識して決定されたのでしょうか。
大鏡を読み始めたところです。そこに陽成天皇の行状のようなことが述べられています。大鏡が成立した頃には、そういう面があるという一種の世間話が存在していたのだと思います。それにも関わらず、後陽成天皇の諡号は、どういう事情で後陽成となったのでしょうか。
「後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして実質的に廃位に追い込まれた陽成天皇の陽成の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称水尾の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。このような父子逆転の加後号は他に例がない」とのwikiの説明があるのですが、徳川が後陽成を嫌悪していたとかの事情もあるのでしょうか。朝廷側には幕府に抗した有能な天皇というように考えていた上級公家も多かったのではないかと思うのですが、私加後号であるにしても、後水尾の私怨を如実にしたようなのが、受け入れられ、継続的に使用され続けているのが不可思議に思えました。 このあたりのことで面白い説や解釈などあれば、お教えください。

●質問者: hathi
●カテゴリ:学習・教育 芸術・文化・歴史
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