私は信仰を持っています。
信仰というものは、思想なんですよ。
神仏という架空の存在を妄信する迷信の世界とは違うんです。
というか、そういう迷信的な信仰なら、それは私も否定します。
そうではなく、たとえばキリスト教なら、
イエスという方が約2000年前にたしかにいた。
その方は権力の迫害を受けて十字架にかけられて処刑された。
それはひとえに人々の救済のために尽くされた姿が
人々の強い共感を得るところとなり、
時の権力を脅かすものとなったからだ。
イエスという方は真に人々の救済に尽くして十字架にかけられた。
それは人々が救済されなければならない状態に置かれていた故であり、
十字架の迫害をも恐れずに人々の救済にあたられたその姿に
2000年の時を経て私たちは感動する。
どうしたらこの方の後に続いていくことが出来るだろうか。
そういう願いを持つ。それが祈りとなる。
これがキリスト教の信仰です。
だから、キリスト教徒は平和と人類の救済のために働くわけです。
カトリックのマザー・テレサしかり、
プロテスタントの救世軍しかりです。
信仰は命のために貢献する実効力のある思想体系であり、
信仰者の集団は、そのために具体的に貢献する
運動体でなければなりません。
それを、政治力ではなく、市井の庶民の働きとして行っていく。
そこに信仰の真価があります。
逆に言えば、実社会から目をそらし
有り得ない架空の世界に埋没する迷信的な信仰や、
ただ個人的な奇跡や利益ばかりを追求する信仰、
教えられたことを妄信する洗脳的な信仰、
権力と結びついて勢力の拡張ばかりにひた走る信仰なら、
そんなものは要らないわけです。
というよりも、真の信仰が目指すところの社会進歩への貢献を、
そうした信仰は阻害します。
なお、国家間、民族間の紛争の色分けとしてよく使われる
○○教○○派対△△教△△派といった図式は宗教的対立ではなく、
特定の人々の集団を言い表す必要から便宜上用いられる分類で、
実際には宗教思想的に対立しているわけではないことがほとんどです。
よく、宗教の違いが戦争につながるから宗教は要らない、
という意見もありますが、それは宗教思想とは無関係な
民族的利害の対立が紛争の原因であるという本質を無視した意見です。
昨今、「キリスト教社会」対「イスラム教社会」、
といった対立軸が世界の安定を脅かすものとなっていますが、
これも、たまたまキリスト教を基盤とした社会を持つ国家と、
イスラム教を基盤とした社会を持つ国家が
相互の利害で対立している、ということです。
べつに、宗教戦争をしているわけではありません。
しかし、信仰というものは、いつの世も権力に利用されます。
信仰の名を借りて人々を煽動する動きも、いつの世も存在します。
その点は、十分に警戒しなければならないでしょう。
実社会の発展と命の救済のために貢献する社会思想としての信仰と、
一部の利益のために利用されていく宗教とは、
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/anti/bannou.htm
むー、URLが必須というのはこの手の質問だとどうかなと思いますが…。たまたま近いものがあったので。
例えば親が無宗教、あるいは葬式仏教程度の、まあ、日本ではよくありがちな人たちで、その子供なりが急に宗教に目覚めるケースを考えて見ます。海外にあるみたいに先祖代々何とか教徒だ!という人たちはもう生まれたときからいろいろ刷り込まれていますから…。
現在の科学は万能ではない→科学以外のものが必要→それが信仰だ!という人は案外多いと思います。例は悪いけどオウムなんてのも疑似科学から入っていった人が多いんじゃないだろうか。
例えばよく言われるのは現在の科学では葉っぱが落ちる軌跡すら計算できない(これはまあ真実)ではないか、だからもっと高度な何かが存在するのだみたいな理屈ですね。
ところがこのロジックには破綻があって、じゃあ科学以外のその何かが「正しい」のかどうかは誰にもわからない。でも何となくそっちを信じた方が本人にとっていろいろ納得がいく。
その辺がきっかけなんじゃないでしょうかね?
例えば病気になったのはなぜだろう?偶然そうなった、原因不明 がほとんどの場合でしょうが、いや、これは昔悪いことをした報いだ、とか逆に病気になることで何かができなくなったために命が助かるのかもとか、そういう風に考えてしまう。で、そういうロジックを整頓したものが宗教だったりするわけです。
変なたとえかもしれませんが、方程式をax^2+bx+cの形で置いておくのが気持ち悪くてxの値を計算しちゃわないと機嫌が悪い人…わからないことはわからないで置いておけない人が宗教に走るのではないかなあ。
その先は、自分の力が及ばない力、運とか運命を司るものと考えていました。
だから、正月に初詣に行く程度の考えでした。
それが、自分と同じような行動をする神をたまたま、出雲大社に行った時に見つけました。
それがスサノオウです。
なぜ自分にこれまで似てるんだって思い、そこからスサノオウについて調べ始めました。
調べれば調べるほど、似ている・・・・・(゚_゚i)タラー・・・
そこで、日本の神について調べ始めました。
そうしましたら、訳が見え始めてきました。
何事にも訳があります。
訳がわかるからこそ信じる気持ちが生まれます。
まずは、御朱印でも集めてみてください。
私はおぼろながらに訳が理解出来始めましたので、御朱印帳を作りました。
そして、神教でもいまもありません。
佛教も大事にしています。
なぜなら
仏は先祖です。自分のルーツです。
自分のルーツを大切にできないで、なぜ自分を大切に出来るのでしょうか・・・・・?
身近な先祖が出来れば先祖に対する思いからでしょうね・・
わかったときに信じれば良いと思います。
信じた時に恩恵は自分に帰ってきますね
人も同じです、物も同じです。
日本の神は、全てのものに宿っていますと言うより、そう言う教えです。
まわりの人、食べもの、道具などなど大切に扱わないと自分にその我帰ってくると言う
教えと思います。