遣隋使のとき、聖徳太子が対応外交を志向して、日本も天子の治める国だと宣言しました、と言われています。遣隋使から遣唐使まで、日本は、中国の天子(皇帝)へ、日本の天皇は、対等だということで交流した
んでしょうか。
日宋貿易のときは、どうだったのでしょう。民間同士の交易にて、そんなものは関係なかったのでしょうか。
黒田さんのblogが1つの見方を示してくれるでしょう。
黒田裕樹の歴史講座 聖徳太子と遣隋使 ?対等外交で見せた我が国の「気概」 その1
国書の内容を簡単に言えば、我が国と隋とをお互い「天子」と同じ立場で表現することによって、それまでの朝貢という上下関係から、天子同士の対等関係の外交を結びたいとする、聖徳太子の毅然(きぜん)とした意思表示(いしひょうじ)でした。
大陸の先進的な政治制度や文化を学ぶために多くの留学生が唐へ渡り、特に吉備真備(きびのまきび)や玄ボウ(げんぼう・※注)は、帰国後に我が国の政界で活躍しました。
平氏は荘園や知行国(ちぎょうこく)の他にも、日宋貿易(にっそうぼうえき)という大きな経済的基盤をもっていました。我が国と宋とはそれまで正式な外交を持っていませんでしたが、以前から民間の商船との交易は盛んに行われていました。清盛は摂津国(せっつのくに)の大輪田泊(おおわだのとまり、現在の神戸港の一部)を修築(しゅうちく)したり、音戸の瀬戸(おんどのせと、現在の広島県呉市付近)の海峡(かいきょう)を開いたりして、瀬戸内海の航路を整備して貿易の拡大に努めました。
貿易の主な輸出品は金や水銀、硫黄(いおう)などの鉱物(こうぶつ)や刀剣などの工芸品、あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭(そうせん)や陶磁器(とうじき)、香料や薬品、書籍などでした。特に宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大(ばくだい)な利益は、そのまま平氏の貴重な財源となりました。
この方の書いていることの全てが、現在の主流というわけではないので、自分で色々考えながら1つの考え方として読んでください。
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