書評の掲載には一定の基準があるようですが、ゆるいのがAmazon、若干取捨選択をしているのがbk1、販促にならないと採用しないのが楽天(少し偏見ありか、神谷睦月さん、ゴメンナサイ)という感じです。
そんなわけで、新しい本が出るたびに真っ二つに評価が分かれる代表が、一時の中島義道氏でした。Amazonの書評サイトではかなり攻撃的な否定論者まで出現しました。
私は、彼は「哲学することを日常のレベルにひきもどした」という点で評価するのですが、皆さんはどうでしょう。
擁護、否定どちらの立場でも結構です。
中島義道氏の著作を一冊選んで、忌憚のない御意見を聞かせてもらえますか?
「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)
哲学者ってのは「霞を食べて生きている」ものだと思っていましたが「ただのうざいおっさん」だったのか!
(スミマセン、偏見です。)
中島氏に限らず、最近「うざいおっさんの説教臭い話」が新書で出されることが増えているようないないような。
現在は「うざいおっさんの説教臭い話」を読みたいような気分ですから(そして彼らの主張に共感出来る部分も多々ありますから)ISBNを入力した著書のようなものは歓迎したいのですが、そのうち飽きるのではないかと思います。
「なんだかもやもやと引っ掛かっていた言葉にならないことを言葉にしてくれた」(so-shiroさんの言う「哲学することを日常のレベルにひきもどした」に近いけれどちょっと違うかな?)のはありがたいけど、同時に「そんなのすぐ忘れてしまう」とも感じているのです。
自分にとっては中島氏は長く動向を追いたい著者ではなく一過性のブームで何冊か著書を読んだ著者の一人という位置付けです。
中島氏は哲学病にかかっており、大学教授という職を運良く得られなければ、私たちの周りに居る「説教話の長いうざいおっさん」になった可能性は濃厚です。でも、そういううざいおっさんが突然いなくなったりしたら、ちょっとさみしくありませんか?
「哲学することを日常のレベルにひきもどした」というのとはちょっと違いますが、「正義」だ「愛」だという言説がきわめて無批判に受け入れられている世の中で「善人こそ悪」と言い切る意味は大きいと思います。
それにしても中島さんはたくさん本を出していて、(こういう言い方が適切かはわかりませんが、上に挙げた二冊のような)一般向けの本は、何冊か読むと「また中島節だ」と少々飽きてくるところは否定できませんね。
ただ僕は、彼の専門のカント関係や、「時間」に関する本は未読(「哲学者のいない国」ISBN4896912756をちらっと読んだくらい。大森荘蔵氏との対談は面白かった)ですので、偉そうなことは言えませんが…。
ひそかに心に思っていることを明確に書いた、ということでは上記の2つの著書の意義は大きいと思います。日本人であることと個人主義を通そうとすると、一般的には「うつ」になってしまう傾向があり、作者はそれを怒っているのだと思うのですが、どうでしょう?
http://d.hatena.ne.jp/PreBuddha/searchdiary?word=%C3%E6%C5%E7%B5...
「中島義道」の検索結果 - 整腸亭日乗
『どうせ私は死んでしまう・・・』について、このような感想を書きました。ご参考になれば。
中島氏が「哲学病」であることは間違いなく、大学教授というポストを獲得しなければ、文句ばかり言っているウザいオッサンになった可能性は濃厚です。でも、そのオッサンが突然死んでしまったら、我々は「いい人だったのに〜〜」と回顧するような気がします。
PreBuddhaさんのはてなダイアリー興味深く読ませていただきました。長谷川宏氏はフッサールの『現象学の理念』の改訳しか読んでいませんが、哲学病の強い症状は出ていない感じがします。
推挙されている中島氏を含め、現在ほとんど同一線
上のスタンスで本を書かれていると私は考える三方
をセレクトしてみました。安定したポジションに居
つつ何かと戦うそぶりをみせたり啓蒙したりする方法
が私には好きになれません。一応三方ともそれぞれ
一冊づつ読んであとはパスしました。いわばみんな
冠詞にプチがつく方たちだと思うのですよね。
でも読み続けることによってなにかを得られる読者の
方がたくさんいるとしたらそれはそれで良いのでは、
とも思います。中島氏の著作を一冊という質問の主旨
にそぐわない回答ですのでポイントはいりません。
斉藤孝さんは『声に出して読みたい日本語』の大ヒットの後、本当に駄目になりましたね。
内田樹さんはノーマン・コーンの『ユダヤ人世界征服陰謀の神話』の訳者としてしか知らないけど、思想家だったのかな?
ま、売れ始めると堕落するという法則はあるようです。
中島義道氏の本はこれ1冊しか読んでいませんので偏った批評になってしまうかもしれませんが。
1.彼の哲学的テーマは以下に要約できます。「自分はいつか死ぬ。人類も地球もいつかは消滅する。だとすれば人間が信じている生きる意味なんてのはしょせん今しか通用しないその場しのぎのものでしかない」。
まず、このテーマは(とりあえず僕には)非常に正しいように思えます。つらいときも楽しいときも1+1=2であることが常に正しいように、これは普遍的真理に思えます。彼が本で語っていることに論理的に反論するならば、まずは「いや、人間にはその場しのぎではない絶対的な存在意義がある!」と論理的に証明するべきでしょう。
2.ここからあとは個人個人の人生観、言うなれば趣味の問題で、純粋な意味での哲学の問題ではありません。
中島氏は自分が置かれたこのような現状を非常につらく、虚しいものととらえます。そして、この問題に一生かけてとりくむことのみ意味があると考えます。
ところが世の中にはいろいろな趣味の人がいるもので、人生が無意味だと知っても落胆するばかりではない。かえって喜ぶ人もいるかもしれないし、まったく無関心な人も多いはず。ほんと、趣味の問題です。
中島氏に対する世間一般の批判は主に上記の2に対するもので、単なる感情論的な反論にすぎず、僕は不毛なものを感じます。異なるプロ野球チームファン同士のケンカを見ているようで。しょせん趣味の問題なんですから(中島氏が世間を批判する場合も同様。ただし彼は「無意味なんだからおまえらもみんな死ね!」なんて高飛車なことは言わず、「根拠なき常識で俺を批判するな!」的な発言が多い。その点謙虚です)。
僕個人としては、1のみならず2部分も中島氏に大枠で共感します。反論する人は、2だけでなく根本的な1の部分もひっくるめて反論してほしいところ(そしてできれば中島氏の主張がすべて間違っていると論理的に証明してほしいです。なぜってそのほうが僕も気が楽だから)。
2冊目は参考です。人生が無意味だと知ったあとの人間の反応のパターンをきれいに分類してくれています。
大変正確な要約をありがとうございます。言うなれば、2で定義された中島氏の立場(こうした問題をほっておけない)が「哲学病」であり、この病気、運良く大学教授にでもなれば耐えることは可能だが、「哲学病」にかかりながら、そんなことにこだわることを一笑に付す人々の間で苦悩しつつ生きなければならぬ人の方が多いわけで、このエッセイ集で中島氏は「どうせ死んでしまう・・・でも今は死ぬなよ。あなたが死ぬとさみしい。」と語りかけるわけです。
彼はたしかに恵まれた状況にあります。しかし、そのことを殊更強調し、批判する書評はちょっといただけない、という感覚が今回の「はてな」の発端でした。
『逆説のニヒリズム』は未読です。加藤哲郎氏の本も出している花伝社の本なので期待できそうです。手に入れて読んでみたいと思います。
たびたびですいません。
「日本人であることと個人主義を通そうとすると、一般的には「うつ」になってしまう傾向があり、作者はそれを怒っている」というのは、違うと思います(たぶん)。
僕には、「作者は、哲学的、倫理的に、語り得ることを語っているだけのこと」と考えた方がよいと思われます。
それが、本作等においてはたまたま「社会批評」のようなかたちになっているだけで〜市場では、哲学よりもラディカルな(というか一風変わった)社会批評のほうが受け入れられやすいので、これらの本はそこそこ売れていますが〜、そこに通底するのは「存在」「正義」「死」「価値」などの哲学的・倫理的テーマであり、「日本人」だとか「個人主義」だとかのことばで語られる「社会批評」として捉えるのは、乱暴というか勿体ない気がします。
世の中においてその著作がどのような意味や価値をもつかというのは、外から評価する問題としては適正ですが、中島さんには、そのような「一般論化」を断固として拒んでほしいという、僕の思い入れもありますし…。
so-shiroさんのコメントが「どうでしょう?」で結ばれていたので、ついつい書いてしまいましたが、お気を悪くしないでくださいね。無視して結構です。もちろん、二回目なのでポイントはいりません。
Amazonに『どうせ死んでしまう…私は哲学病』(ISBN:4048838865)のレビューを載せています。よかったら見てください。
そうですね。ちょっと表層的理解でした。中島氏が年来のテーマとしているカントの自我論の立場から言っても違いますよね。
書評拝見させていただきました。確かに彼はカントの読み手としてデビューした人なのでした。
「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった・・・ (角川oneテーマ21 (C-1))
「無用塾」がモデルらしいですが、これを読んで真っ先に感じたのは、哲学をやるにはやはり少人数相手でないと難しいということです。
私は大学で英語を教えていますが、表面的に英語を教えるのは嫌いで、背景にあるさまざまな文化を伝えていきたいと考えています。普段は50人相手に教えていますが、この人数で文化や宗教、哲学まで踏み込むにはちょっと難しいところがあります。やはり細かいところまで議論を重ねることが求められます。
中島氏の著作については、読者一人一人がじっくり考える機会を、読みやすい本によって次々を与えてくれているという意味で、私は評価しています。普段の授業で少しだけ哲学的な部分に触れ、あとは中島氏の本で、という紹介の仕方が可能ですので。
うん、日常的に哲学を論じるこうした場は必要なのです。私も○十年前には夜遅くまで仲間と議論し合ったおぼえはありますが、そのときの疑問が何ひとつ解決したわけでないし。
いいおっさんになっても、物を考える機会、(可能ならば)議論する機会を持ち続けたいものです。
それにしても楽天だいじょうぶですかね・・・。
倒産する前のヤオハンのような雰囲気になってきているんだけど。
この2冊は「哲学病」でない方も結構読んでますよね。対人関係論は中島哲学の周縁領域なのかもしれません。