【注意】映画の感想ではありません。
伏線や意味ありげな台詞。
謎の多い映画「ハウルの動く城」を観終わったあとに、なぜ?なに?どうして??と疑問を感じる人も少なくありません。
すっきりしないながらも、映画のシーンを思い出して「あれはこんな意味だったのでは…?」
と、独自の解釈をしている人もいると思います。そんなあなたなりの解釈をぜひ聞かせてください。
※これから映画を見る方へ 多少のネタバレがあると予想されますので、読まれる場合は、ご了承の上ご覧ください。
※映画「ハウル」への解釈です。原作と織り交ぜての解釈でも結構ですが映画をご覧になってない方の投稿はご遠慮ください。あくまで映画の解釈がメインです。
※ジブリ論ではありません。
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いきなり原作からネタばれですが、ソフィー自身も魔女です。原作では帽子つくりの技能にも発揮したし、案山子をつれてくるときのはげましにも、赤い髪の毛を黒く(ちょっとましに)するときにも、カルシファーをはげますときにもつかわれたとほのめかされていたと記憶しています。たぶん映画の最後のキス乱発シーンにも、その「魔女としての力(言霊)」がはたらいていると思います。
私としてはその辺の内面的な筋立てがちゃんとでないと、最後の方で年齢がどんどんかわるあたりなどはわかりづらいと思ったのですが、原作でもはっきりといわないが年齢(行動力)が替わっているのがわかりづらく示されているんで、しかたないですね。
ハウルの動く城占い
URLはダミーです
ソフィーは結婚適齢期にさしかかり、自分に自信がないのでその事実から逃避しようとしている。
だから老婆になってもかえってせいせいしている部分がありますね。
ハウルは心を持たない。
そして「義務」から逃れ日々遊んで暮らしている。
私はこれを現代の「おたく」少年少女にあてはめて見ていました。
恋愛→結婚を自分の事としてとらえることを拒否し、美しく着飾ることも忘れた女の子。
夜な夜なゲーム(ネトゲ?)に興じて、正業に就くことさえしない引きこもり青年。
彼らが出会い、恋愛という魔法にかかり、そして人と繋がることによっての幸せを見つけて欲しい。
そういう願いが隠されているような気がしました。
まあそれはある程度年令が行った「家庭人」であり「社会人」である人の説教に過ぎないかも知れませんけど。
恋愛という魔法にかかり、そして人と繋がることによっての幸せを見つけて欲しい。
そういう願いが隠されているような気がしました。
確かに現代の少年少女に当てはまる部分が感じられますね。現代の少年少女に対する願いとメッセージ。
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☆<荒野の魔女>
荒野の魔女の描かれ方は非常に興味深い。物語の最初に登場するこの老女は
まさに最初に現れるべくして現れた感じがします。
強大な力を持ち、若い男を引き寄せる魅力を持っているが、
同時に飲み込んでしまうほどの強い欲望を持ち合わせている。
強い独占欲。常に若さと美を追い求め、自分を拒むものは許さず
自分に従わせ、自分のものにすることを望む。
一番愛しているのは自分である。しかし自分の本来の姿はみとめない。
荒野の魔女は、まさに(女の)欲望の原型といえるかもしれない。
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<荒野の魔女>は本当によくある「経験をつんだ女」ですね。一番わかりやすい「若い男(のしんぞう)はイイ!」それだけ。
<サリマン>は、心理学でいうゴッドマザー。実力とそれにともなう権力を持ち、自分なりの「こうあるべきだ」という論理に他人(王も、弟子も、世界をも)をどんどん巻き込み、王をそそのかして魔力戦争を始めた(たぶん、いんちき魔法使いを篩い落とし、ハウルを再び手元に置きたかったのでしょう)が引き際も心得ている。力とはそのようにしかるべく行使されるものです。
<ソフィー>はごく普通の女性だと思います。原作著者ダイアナウィンジョーンズは実際に外見が年老いる病気にかかったそうで、それが投影されています。最初は「似合う帽子」つくりが好きな以外は自分がやりたいことはわかっていません。自分の外見(自分で不細工だと思っている)と親の世話には多少うんざりしているがモテモテ妹も別にうらやむほどイイとも思えなく、実は原作でもうひとりいる妹(魔女の修行中。そこでソフィーの魔女資質が示唆されます)にも距離をおいています。なげやりとまでいかないように思います。地味な性格で自分が魔女の力を持つとは夢にもおもいませんので、荒地の魔女に呪いを受けたときにもなにがなんだか・・。開き直りが早く、親の援助を見切って、悪いうわさのある城にむりやり乗り込みます。
「城の入り口」は悪意を持つ特定の存在以外に向けては開放されているようです。(食っていくため、偽名魔法使い業にも依頼者が必要ですよね。その依頼者のなかに自覚のない魔力資質を持つものがいても、いちいち断るわけにはいきませんね)サリマンも荒地の魔女も網を張っていますが、偽名とハウルを結びつけるに至っていなかったわけです。
ファンタジーでは、魔法について一貫した論理が定義されているものとそうでないものがあります。これは定義が弱い作品の方なので、この作品でいう呪いは、たいてい「自分では呪いの内容を他人に言ったり知らせたりすることはできない」という条件がくっついてくるが、他人(特に、魔法使い)がなんとなく気づいてくれれば、かなりあいまいな形で解けてくるもののようです。カルシファー+ハウル相互の呪いのひみつは偶然カルシファーがハウルにつかまり心臓を与えられて実体化?した事件で、この関係をうすうす知ったソフィーの呪いは最初の契約どおりカルシファー(+ソフィー自身)の魔力の及ぶ範囲で解けかけていたようです。
以上、原作のあいまいな記憶+個人的解釈でした。2回答えてしまったので、この続きがあればいわしにて希望します。解釈の押し付けになっていなければ良いのですが、楽しくて語り足りない感じもあるので・・。
解釈ありがとうございます。楽しく拝見しました。
>楽しくて語り足りない感じもあるので・・。
宜しければまたいわしでお聞かせください。^^
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☆<サリマン>
貞淑で理知的、絶対的母親の権力を持っている。
(子供にとって「母親」は世界であり法律です)
一方で、若者(息子)を束縛する傲慢さ、独立を許さない独占欲、
型にはまった美意識の持ち主でもある。
凝り固まった権威の中で、他者の意見を聞き入れる柔軟さを欠く。また、
自分の価値観を押し付ける傾向も見える。
節操のあるサリマンは、荒野の魔女とは対極にあるように思える。
しかし、底には、「独占欲」という共通の部分を持っている。
荒野の魔女は、欲望(あるいは肉欲)をもってハウルに近づくが
サリマンには、母親の、やや行き過ぎた愛情の押し付けを感じさせられる。
また興味深いのは、映画の中で唯一「隙のない」登場人物であること。
荒野の魔女は、まるで子供がおもちゃを欲しがるような無邪気さがあり、
(性質が悪いとしても)どこか憎めないところがある。
それに比べサリマンは隙を見せない。完璧な存在であるように振舞う。
これは、いわゆる「大人」を象徴しているように思える。
あるいは、完璧であるために、心の支えとなるハウルを手元に置いておきたいと願っているのかもしれない。
不自由な自分の身体の周りに小姓(しかも同じ容姿の少年ばかり)を何人も置いているのは
同じ理由からなのかもしれない。完璧であろうとするサリマンもまた孤独なのだ。
しかし、サリマンは大人として思慮と分別ももっている。
終にはハウルの成長(独立)を受け入れ、手放すことを決意する。
サリマンは多くの大人(特に母親)の理想と傲慢、孤独の象徴のように思える。
なにも恋愛をしていない女性の願望の夢物語なのでは、ないでしょうか?基本的にはカルシファーの思いや周りの人物の対応は、ソフィーが望んでいるんだと思います。
最初のカルシファーとの出会いから現実逃避してますし、ふせんとして、動く城の話や心を奪われた少女の話がでてきますから。
ラピュタとくらべると、片思いの恋愛の夢物語に思えました。
なにも恋愛をしていない女性の願望の夢物語
ふむふむ。
自分の映画評のうち解釈メインの話題の部分のURLです。「前半部では,帽子屋」云々のあたりから最後までの部分で映画の解釈を書いています。年齢で分かりやすさはずいぶん違うのかもしれませんね。
以下おまけで感想:
更におまけでジブリ論と過去の作品との類似性:
ありがとうございます。
どのURLのページも素晴らしく痛快で面白く読ませて頂きました。論理的に上手に文章を書かれる方ですね。なんだかすっきりしました。
魔法=才能
かけられた呪い=コンプレックス
と見るのが一番しっくり来ると思います。
ソフィーは容貌へのコンプレックスから日常生活が送れなくなり、「城」という駆け込み寺へ逃れる。自分が老いたと思い込んでいるが、実は思い込みに過ぎない。後半はハウルへの思いと、拒まれることへの臆病さから、老婆と娘の姿を行き来する。
ハウルにとってのコンプレックスは、才能がカルシファーとの契約によって、外部から与えられた、と思い込んでいること。圧倒的な才能を持ち、自負もしているが、才能への疎外感もある。自分に興味を示す人たちは、才能を利用しようとしているだけだと疑念を抱いているので、無条件に愛されることを信じていない。人を信用しない、自分は器に過ぎない、だから「心がない」。これもまた思い込みに過ぎない。荒地の魔女も、サリマンも、独占欲に根ざすものであっても、ハウルの才能ではなく、彼自身を無条件に愛してはいたし、心臓はずっとそこに見えていた。
とは言え、思い込んでいる彼は才能を悪意に基づいて用い、取り返しのつかないポイントを越え、悪魔となりかけている。
そのコンプレックスを解くためには、一度、カルシファー(城=才能=テクノロジー)との依存関係を解消してやる必要があり、過去にさかのぼってカルシファーとめぐり合う起源を見届け、理解することが不可欠だった。
さて、登場する厄介な人たち。
弟子の少年・・・背伸びする子ども。「似合ってない」と言われながらも、こういう時代、誰にでもあるので微笑ましい。見かけの老いがいい加減なものであることを、ソフィーと対比してくれています。
案山子(カブ)・・・死神の一種、と言われてますので、たぶん、老いのすぐそこにある死の象徴。「死に慕われる」が「それをこき使う」というユーモア。一緒にはなれないけど、つきあってみれば、死もそんなに悪いやつじゃない、という肯定。最後にその呪いも解けるので、たぶん彼も「嫌われている」という思い込みだったんでしょう。
荒地の魔女・・・特に魔法を奪われた後の彼女は、「才能が枯渇した後、誰が自分を受け入れてくれるのか」というハウルと共通のテーマをつきつけているように思います。老後の問題。純粋に欲望だけの厄介な存在だったり、人生の先輩だったり。困らせられながらも、ソフィーは基本的に肯定しているようです。
犬(ヒン)・・・最初、ハウルが化けていると思い込んでいる部分、ソフィーのハウルに対する気負いを、笑って見せているように感じました。これもまた老いた犬ですし、老いの重み。実はサリマンのスパイでもあって、困った荷物ですが、過去を垣間見る時のキーでもあるんですよね。サリマンの良い部分(いたずらな部分?)、と解釈してみました。
ところで「戦争」をどこまで意味づけたらいいのか、迷います。深読みすればどこまでも読みこめるでしょうし。
城の小さな営みVS行き過ぎた国家主義・市場主義とでもしておきましょうか。その性質は「ハウルを単に才能として利用しようとする」ところにあります。
あのいくつもの国に通じるドアは国による囲い込みを滑稽なものにしています。
でもそれでも逃れられない国との契約(サリマンとの関係)があり、具体的には教育を与えた恩恵、に対して報いる義務です。ハウルは最初は逃げていましたが、ソフィーのおかげで「きちんと拒否」します。ハウルにとっては、国は「才能を単に利用しようとする存在」だからです。その後はソフィーを守るようにして追っ手と戦います。(その後ソフィーはハウルを助けるために守られる存在から行動する立場に移行します。)
湖畔の小屋の風景に軍船が侵入してくるシーンは、宝物を汚されることですし、自分を利用価値だけで量られる、という憤慨とパラレルだと思われます。
また、ソフィーの母がお金でソフィーを売るシーンは、行き過ぎた市場主義が家族を崩壊させるところを示しています。(と言っても、生活していく上でのささやかな商売は、いとおしむように描いていますよね。)
サリマンは利用するために戦争につきあっていたと思われるので、自分の庇護下にハウルを置きたい、というのが実は、戦争継続の一番の理由だったのでしょう。サリマンが「子離れ」できたのがハッピーエンドの一番の理由だと思いますが、「営みを潰してまで必要な戦争などない。人が無条件で愛し愛される場所(家族)は強い」というのが最後の凱歌かも知れません。
でも、たぶん、ハウルはカルシファーと(自分の才能と)正しい関係を取り戻しただけなんです。もし社会生活が始まるとしたら、これからでしょうね。
まとめ
・肯定して生きていくこと。
・こんぐらがったものをシンプルにしていくこと。
・手をとってもらったら、空は自分のちからで歩きましょう。
というとこらへんかな?勝手に想像してみました。
うーんすばらしい!面白いです。ありがとうございます。
みなさんの解釈がそれぞれすばらしいので、自分の解釈を織り交ぜるのをおざなりにしています^^;)。(荒地の魔女を荒野の魔女とまちがっておりましてすみません、またゾフィーじゃなくソフィーでしたね)
こうしてみなさんの解釈を拝見するのはとても楽しいです。丁寧に書いてくださって感謝です。
ハウルの才能についての解釈、説得力がありました。私が考えていたハウルは、可能性を秘めた少年〜青年の象徴、という感じで、物語が進むにつれ成長や葛藤などで捕らえ方が変化するというものでした。(抽象的な説明ですが)
私はハウル自身を解釈することに重点を置いていた感じなのですが、mikegame さんはハウル(のコンプレックス)と彼を取り巻く魔女たちを客観的に捉えて解釈されているところが面白かったです。なるほどと思いました。
面白いなぁ。次のご回答も楽しみです。^^
Yahoo!映画 - 映画情報
映画を2回観て、納得いく解釈ができました。
「城」は「心」だったのです。
戦争という過酷な世の中で、ハウルは子供時代に小さな魔のささやきに心を奪われてしまった。
それ以来、ハウルは「魔の心」でいかめしく固めた心を表に見せながら動き回るようになった。
表向きは格好良く見せることができたが、そのうちに戦争に巻き込まれて「獣の心」がハウルを蝕むようになった。
その一方、ソフィーは戦争をきっかけに強い諦めと失望を持ってしまい、「老いた心」になってしまった。
そんな2人が出会い、ハウルの心の中をソフィーが掃除し、徐々に本来のハウルを表に出してきた。
ソフィー自身もハウルの心と触れ合うことにより、活気と生気を少しずつ得てくる。
しかし戦争による心の侵食は、思った以上にひどかった。
そこでソフィーは自分の心を賭けて、ハウルの心を完全に壊し、冷静にさせた。
そんな中でも心を失わなかったハウルは、無事に正気を取り戻し、ソフィーとの愛をはぐくんでいった。
という解釈です。
最初は「誰もいなかった」(※マリクルは、わずかに残った「素直な心」なのでハウル自身)心の中に
ソフィーが入り、さらに大きな悪(荒野の魔女)も、大きな正義(サリバン)までも吸収し包み込めるようになった。
しまいには悪魔(カルシファー)さえも取り込んでしまった。
という、「心の成長」の物語だと理解しました。
http://movies.yahoo.co.jp/roadshow/index.html
Yahoo!映画 - 劇場公開情報
場面としては
花畑で「ソフィーはきれいだよ!」とハウルに言われて
急速にソフィーがお婆ちゃんになる(=冷めていく)という場面は
「そんな心にもないことを…」というソフィーの悲しい心が感じられて、ジンと来ました。
「城」は「心」
なるほど〜。解釈しやすいですね。
2回ご覧になったんですね。私も見たいなぁ。。
DVD早くでないかなぁ←気が早いですね^^;)
ありがとうございました。
URLはダミーです
多くの方が感じている通り、意図的?にストーリーを分断している「マトリックス」
めいたつくりになっています。
謎の一つ、攻撃を受け城をつぶし、引越しをする点などが象徴的だと思うのですが、
ラスト近くの板一枚になり、あやういバランスをとりながら、登場人物(=ソフィー
が愛情を注いだモノたち)が勢ぞろいするシーン、その美しさ、はかなさを見せたく
て、城を動かしはじめたかのように思えました。
そういう意味で、前後の論理的なつながりというよりは、象徴的なカットをモザイク
のように組み合わせている映画だと思います。そこのストーリー性を追求すると
ストレスが残ると思いますが、たまにはこんな「一見ただのアニメのような前衛的な
ポップアート?」のような作品もあっても良いと思います。海外、特に村上隆の評価が
高い国々での評判が見てみたいと思います。
>意図的?にストーリーを分断している「マトリックス」めいたつくり
意図的に分断…?なるほど。散漫な感じがするな〜(失礼)と思ったのですが、意図的と言われると、ふーむ。と思いました。
>そういう意味で、前後の論理的なつながりというよりは、象徴的なカットをモザイクのように組み合わせている映画だと思います。そこのストーリー性を追求するとストレスが残ると思いますが、たまにはこんな「一見ただのアニメのような前衛的なポップアート?」のような作品もあっても良いと思います。
なるほど。。そうか…!
前衛的なアート作品と捉えると、もっとストレスがないかもしれないですね。実際そこら辺を狙ってる節が感じられますね。
今までの映画らしい映画を期待して見ると肩透かしを食らいますが^^;)、あえてその壁を壊すことにも挑んだのかもしれないですね。
できれば見る前にそう言ってくれると、多くの人が迷わず?にすむと思うんですが、…言ったら面白くないか。。。
アニメ作品だと思うと、アニメ=(娯楽性のある)エンターテイメントと思って見てしまうのですが、この作品がたとえば、アニメじゃない洋画だったとしたら、もう少し納得して見れたかもしれないなぁ。。いろんな意味で。
ありがとうございました。
ソフィー自身も魔女だから。……。
原作に基づいて解釈しようとされたのですね。
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私なりの解釈も織り交ぜていこうと思います。
☆<「ハウルの動く城」の3人の老婆>
老いを受け入れず、若さと美しい男を貪欲に求める老婆。<荒野の魔女>
貞淑にみえつつも、若者(息子)を束縛し、思いのままにしようとする老婆<サリマン>
夢や希望をあきらめ、なげやりな心を持ち、本来の若さとは裏腹に心の「老い」が
姿に現れてしまった少女の老婆。<ゾフィー>
上記のようにキャラクターを考えたとき、映画の中の多くの謎がすんなりと受け入れられるようになりました。
どうして<荒野の魔女>は執拗にハウルを追い回すのか?
貞淑に見えるサリマンの「やり方」に、なぜ不快感を感じるのか?
ゾフィーが頻繁に(後半になるほど)少女と老婆を行き来するのはなぜか?
老婆を拒んでいたハウルの城が、なぜゾフィーだけを受け入れたのか?
それぞれの「呪い」とそれを解く「鍵」の意味するものとは?…