大学に入った時は、大学院へ行こうと考えていましたが、4年になった時には、就職したいと考えるようになり、そのまま現在に至っています。高校の同級生の中には、ドクターコースを出て大学に残り、教授になっている人がいます。IF・・ですが、今の自分にも納得していますので、かまわないのですが・・
この年になって、再度大学院へ行きたいとも考えるようになってきた今日この頃です・・
留学(短期留学から語学留学、大学留学まで)するなら留学ジャーナル
私にとってのターニングポイントは、留学です。
高校のときに、英国に留学しました。
でも高校から留学、というのは結構少数派だしかなり迷いました。
でも「これから英語は絶対に必須だし、まだ脳の成長が
活発なうちに色々吸収したい」という気持ちと、
英語や異文化に対する異常なまでの興味や関心を重要視して、
清水の舞台から飛び降りる気持ちで決断しました。
高校からの留学経験者にも、色々話を聞きました。
その頃はネットがまだ普及していなかったので、
留学カウンセラにもお世話になりました。
もちろん親には反対されましたよ。
でも結局、留学のおかげで自分の生きたい方向に
現段階では進めているので、結果的にはターニングポイントに
なったのでは、と思っています。
多分留学しなかったら、入りたい仕事にも会社にも入つけず、
今頃どんな人生を送っていたか、想像つきません。
多分留学しなかったら、普通の日本の高校に通って、
適当な大学に入って、自分の満足する生活には
ありつけなかったと思います。
留学。
なるほど。
ところで、1に補足しておきます。
御自分の決断は他人と比べて陳腐かもしれないと思われても、詳しくその内容及び過程を書かれてあることが採点の基準です。たとえ平凡(失礼ですが)なものであっても、その判断を詳しく書いたものであれば、高評価です。
人力検索はてな
URLはダミーです。
大学の時、ゼミを受講しなかったこと。
当時は、大学にはいったのはモラトリアム期間を満喫するためで、卒業したら何か変わった職につくから全うな道に行くつもりも必要も無し、と思って決めたのですが・
・・。若さゆえのアレですね、今振り返ってみると。
25歳ぐらいの時、なんとなく身を固めたいなと思い始めて、会社で好きだった女性に告白しました。とても親しい友人でしたしあっけらかんとした人だったので、断られるわけでもなく、なんとなく保留という感じでいたのですが、
その人のお父さんが亡くなった時、わざわざ行って泣いてるところを見るのもかえって悪いかと、その人の性格をよく知っているつもりだったのでお葬式に行きませんでした。
が、それがかなり彼女にとっては大きな要因だったようで、それからなんとなく疎遠になり、その後彼女は、会社の私の先輩と結婚しました。
今思えば、あの時お葬式に行っていれば、そして彼女の悲しみなど聞いてあげていれば、少なくとも以前どおりの関係は続いたに違いなく、さらに深まった可能性も大と思います。
そこでもし付き合っていれば、その後十五年ほども彼女なしに過ごすことはもちろんなく(今は同居してますが)、
まして結婚したいと思っていた時期ですから結婚していれば、今の私はないわけです。
つまり、そのように「フリー」が続いたので、会社を辞め独立に踏み切ることができたと思いますし、その結果として、今につながっているのですね。
ということで、あの一時の決断は、私が家庭人間になり会社に勤め続けて普通に人生を終えるか、現在のメディア商売(いわば水商売ですわね)に進み業績をあげるかのターニングポイントだったと思います。
もっと確実に言えるターニングポイントもあるんですが、面白くないので。
というか、ここまで生きてくると、もし東京で育っていたら、受験勉強をまともにしていたら、あの作家に出会ってなかったら、あの会社に入ってなかったら、等々、みんなその後の人生を大きく変えるターニングポイントだったなというのが実感ですねえ。
何がどういう結論を生むかは、誰にも分からない。
ターニングポイントですかぁ... それは今ですかね。
現在仕事の都合でUK暮らしをしています。
きっかけは上司に打診され、そのまま放っておいたら
あれよあれよと言う間に決まってしまって...
決断と言う程の物は何もなかったんです。 だって、
「決まったから」といきなり言われちゃったんです。
(勿論、その後自分でも納得しましたけれども...)
でも元々憧れていた海外暮らしであり、当初は満喫して
いたのですが、現在は慣れきっていて新鮮味が...
この質問を見て、初心を忘れずに頑張ろうと思いました。
何か質問の回答とは外れてしまった感じですが、ようは
自己の決断だけではなく、ひょんな事からもターニング・
ポイントはあると言う事です。 それを受入れるか流され
てしまうかは、本人次第なんでしょうね。
そんな事を年始に気づかせてくれたtentakuさんのこの質問
に感謝致します。 有難うございます。
では
この質問に偶々めぐりあったのも、Yumikoさんが既に何らかの心固めをしていたからこそ初めて成り立つものではないでしょうか。ご自分で既に分かられていたことなのですよね。
ところで、私もあることを決断中なんですよね。。。岐路の前に立っている気がします。
大学浪人中に、付き合ってた彼女と別れてしばらくは、自分が自分で無いような「魂の抜け殻」状態であった私に対して、風の噂でその別れた彼女が付き合った新しい「彼」が「物凄く賢い人」であるらしい事が分かり、絶対にその人を抜いてやり、やっぱり私が「一番良かった」と思わせてやろうと一生懸命頑張って2ヶ月程で学力を周囲がびっくりするぐらい上げて、志望の大学に合格した事。
(当時は若かったのですね)
でもあの時の事は、当時は非常に辛くて悲しくてもう廃人同様であったけれど、今から思うとあれがなければ現在の自分がいないので、別れた事に関しては、後悔していますが色々な意味で非常に感謝しています。
阪神大震災です。
震災にあい、復興活動の中からパソコンを覚え、早い時期にネットに触れた事はその後の私の人生を大きく変えました。
あの時自分の事だけでも手一杯なのに、なぜ震源地まで行ってしまったのか今でも不思議ですが、決断に至る過程とかはなく、即断。
時々そういう無茶な事をしては人生変わってるような。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/kosaka/
荒川区議会情報公開No.1を目指す小坂英二
URLは私のホームページです。ターニングポイントは「日本新党学生ボランティア募集」と書いてあった新聞の一面広告を見たことです。当時、自民党と社会党のどちらにも政権を任せられるビジョンがないと感じていた大学生の私が目にした新聞広告。早速電話をし、翌日から朝の街頭演説の手伝いや選挙でのボランティアなどの政治活動にのめりこむようになりました。政治活動は好きでしたが、就職は民間企業にしました。でもやっぱり政治の仕事をしたいと強く思い始めた頃、学生ボランティアをしていた日本新党などの政党が合併してできた新進党の職員(学生部担当の若手)が衆議院選挙に出馬するため、職員を辞職するという情報を聞き、その職員の穴をうめるべく採用試験を受け、政党職員に。新進党は解党してしまいましたが、そこで知り合った代議士の秘書として働き、昨年、荒川区議会議員選挙に出馬、当選させていただきました。こうしてこれたのも1.新聞広告を見たこと、2.政治の仕事をしたいと考えていた時に、学生部担当の職員が退職したこととそれを教えてもらえたこと。この2つが大きなターニングポイントだったと思います。情報のアンテナを広げていることの大切さを改めて感じます。
拝見させていただくと、偶然と自らの意思に基づく行動の2つから成り立ってますね。すなわち、偶然→行動→偶然→行動→行動。
偶然を活用することで人生をターンさせていくのが、実感を持って分かります。
上記とは関係ないですが、失礼を承知で言うと、数年前に荒川区で2日間宿泊した際、荒川区は貧しく、治安の悪そうな印象を受けました。そんな心境で泪橋という地名を見たとき、何だか過去に悲惨な事件でもあったのかと思わず想像してしまいました(実際そうなのかは知りませんが)。。。しかし、貧困・治安対策の先例を作ることにターンしていくかもしれませんね。
http://next.rikunabi.com/rnc/docs/cp_s00010.jsp
転職・求人情報|リクナビNEXT「この仕事に会えてよかった」を、一人ひとりに。
5年前、30のときに決断した転職でした。そのときには不動産会社の営業マンで、漠然と将来の不安を感じ、このままでは一生今の仕事をすることになり、それが嫌だという思いとあまりにも上司に理解がなかったたま決断しました。未知の会社へ行くことは不安でしたが、はじめての転職だったため、またまわりに転職した人間もすくなかったため、ネガティブな情報はあまりなく正直あまり考えずに転職したというのが正直なところです。
転職した仕事は同じ業界でインターネットをつかった販促業務のようなことをおこなっていて、もともとやりたかったマーケティングの仕事にちかく、そのキャリアを生かして2年前に本格的にマーケティング業務ができる会社に転職。いまは仕事も会社も満足しています。
自分としては、5年前にはパソコンもマーケティングもしらない営業マンがいまでは、WEBやマーケティングの仕事ができるようになり、かつ労働条件のよい会社に移れたターニングポイントが最初の転職ではなかったかと思っています。
最初の転職はあまり考えもせずと書きましたが、それなりには悩みましたよ。
ただ
やらずに後悔するのなら、やって後悔したほうがまし。
30ならまだ最悪やりなおしが聞く。
最初の転職先がゴールと考えずにさらにステップアップを目指す。
というつもりで仕事をしてきたのがよかったのかなと思っています。ただ当時は私自身まだインターネットなども利用しておらず、情報収集能力がなかったため、いわば勢いで決めてしまった感も否めません。ですがリスクがなければリターンもないわけですし、決断した後に、どう生きるか、どう努力するのか、といったほうがむしろ重要な気もします。最初の決断が間違っていて転職しなければよかったなあと思ったこともい度々ありましたが、それでもめげずに、がんばれば、また道は開けていく。そんなタフさがあればいいのではというのが、わたしの考えです。
考えてみれば、ネット広告、ブログ、アフィリエート等は、5年前にはなかったか、あっても小さな市場でしたよね。
@nifty
結婚して10年間子供が出来ませんでした。夫婦で悩み不妊治療に取り組んできましたが、それでも出来ませんでした。
不妊治療で有名な病院に行ったり、人工授精を試したり、また当時妻は仕事をしていたので、それを辞めたり。
最初は私たちの親も、孫の顔見たさであれこれ言いましたが、後半は気を使ってか子供に関する発言は禁句のようになってしまい、
自分たちもほとんどあきらめて治療もやめていました。
そのころ私の仕事は大変忙しく、帰宅は毎日終電、泊まりは週3,4回、土日も仕事、正月も元旦から仕事と言う状況で、心身共に疲労困憊の状態が続きました。
そして、通勤時間の長さや会社に対する不満もあり、16年勤めた会社をとうとう辞めました。近くの会社を探して、給与は下がってももう少しゆとりのある会社を探す。そして夫婦の時間を増やし、旅行などもたくさんしよう、等と考えてのことです。
その1ヶ月後に妻は妊娠しました。偶然なのか、それとも知らず知らずに仕事や色々なことがお互いのプレッシャーになっていたのか、後から考えれば自分にとって大きなターニングポイントだったような気がします。
自分の行動が知らず知らずに実を結んだということでしょうか。
Yahoo!学習
URLはダミーです
ある18歳時ある私大医学部に合格しました、でも入学するにはかなりの高額な費用等が必要です。当時少しでも世の中に貢献したいと考えていた純粋な私は、親に土下座をして懇願したものです。ただ、留年をしたら直ぐ退学との条件が付帯。なんとか、留年もせず、国家試験も一度で合格。
亡くなった、父もその事が人生で一番嬉しかったとかつて言ってくれました。
Dr.copa's HomePage
今まで3回カナダに行ったのですが、帰国してから人生ががらっと変わりました。
1番最初は親友と絶縁しました。
2回目は好きだった人が帰国後キモく感じるようになり別れました。
3回目はヘッドハンティングにあい転職しました。
行くまでは、どれも「絶対続く」と思って疑ったことが無かったことばかり。
けど機会があってDRコパに会った時、「あなたねぇ、カナダは人生で勝負掛ける位の変化を求めるときに行くもんだよぉ。けど、よかったね。全部吉方位のときで。最初はつらかったと思うけど、今は逆によかったと思うような結果なはずですよ」
と言われ、むむ、そうかも!と思いました。
実は親友と絶縁するときは、あんなに腹が立ったことなんかなかったけど、会わなくなったら急に心が軽くなり運も良くなりました。好きな人も、別れたらただのキモイ人だったし、転職先は、本当にいい職場で今も働いてて絶対辞めたくないですね。
友人も一緒に行ったのですが、カナダ旅行は凶方位だったらしく、帰国後事故って骨折しており、「それくらいですんでよかったね」と言われてびっくりしていました。
風水。
http://froma.yahoo.co.jp/info/edit/resume/index.html?mp=1
失敗しない!履歴書ガイド アルバイト/フロム・エー ナビ
20歳でリストラに遭いました。
当時の私は仕事一筋!!残業&休日出勤は当たり前、毎日仕事を持ち帰り、起きている間はとにかく働いていました。
が、会社の経営が厳しくなり、リストラの嵐が吹き荒れ…対象者は入社して間もない、退職金の出ない若い女性に絞られました。
遠隔地への転勤、できなければ…という話を電話で伝えられたときには目の前が真っ暗になりました。もちろん転勤も考えました。
しかし、その数ヶ月前に父を亡くしたばかりで我が家は非常に不安定でした。安定した収入、好きな仕事…。
散々悩んだ挙句に退職しました。
家族を置いていけなかったのです。
辞めてからしばらくは抜け殻のようでした。しかし、今思えば辞めて正解でした。そこの仕事はハードで、精神を壊したり過労死したりする人も多かったのです。
また地元に残らなければ、旦那と結婚することもなかったでしょう。
家族の不安定な状態もしばらくは続きましたので、残って小さな問題や衝突を一つずつ解決していったからこそ、今家族がこうして明るく暮らせているのではないかと思います。
本当は結構そういうのが面倒で、転勤しようかと思ったんですけど。
今は、正しい決断をしたと思っています。
人生がかかってますよね。
私の人生のターニングポイントは、大学時代尊敬する教授が亡くなったこと。
そして、それを契機に大学を中退したこと。
私は、母の希望にできるだけそう人生を歩んできました。
母が強く希望したため、大学に行き、教職を目指しました。
自分自身、大学に行くのは『夢』のような気がして、母の夢と自分の夢を混同していました。
しかし、母と自分は違うことに気づいたのは20歳を越えたときでした。
教師の勉強が具体化したとき、私の中で「自分は教師に向いていない」と判然としたのです。
当然、私は焦りました。
不景気の時代ですから、安定した職につくことは、もっともらしいことです。
ですが、教師にはなりたくありません。
そんな悩みの中、始まったゼミナールのクラス。
古典が好きで、古事記に興味を持っていた私は、わがままで上代散文クラスを選びました。
教職につくなら、近代文学を取ることを半ば強制されていました。
しかし、どうしてもそのゼミナールに入りたかったのです。
抽選もある人気のゼミナールに入れたのは、私の一年生の頃提出した小論文の評価が高かったためです。
その教授の講義ではA以外取ったことがなかったため、拾ってもらえたそうです。
その教授の研究はその道では第一線で、教授の人格も温かみのあるもので、尊敬に値する人物でした。
私の悩みも軽く笑い飛ばしてくれ、「好きにすれば良い。まだ若いのだから、人生のやり直しはきく」と言ってくださいました。
私の悩みは小さくなりました。
研究者として生きていくのも悪くないかもしれない、と浅はかな私は思ったりもしました。
けれども、私が大学4年生のときに、教授は亡くなってしまいました。
ゼミナールの中途ではありましたが、他の教授が責任を持って、卒業まで面倒を見てくれると言われましたが、私は中退することを選びました。
大学には、もう私がやりたいことがなくなっていたためです。
そして、今の私があります。
大学を卒業して、ごく普通にどこかの企業の事務職に就職して、結婚して、母自慢の娘として生きていくこともできたのですが。
母の期待に応え続けることは、もうできません。
そういったことをするのは、もう疲れてしまいました。
好きなことをして、好きなように人生を選ぶ。
そんな当たり前かもしれない生き方ができるようになったのは、紛れもなくあの教授の死がきっかけです。
教授が亡くならなければ、私は無事大学を卒業して、母の望みに近い人生を今も歩んでいたかもしれません。
時々、自分はこれで良かったのだろうか、と空を見上げてつぶやいていたことでしょう。
人生の解釈は別段、今すぐにしなくてもいいのかもしれない。しかし、現状をよくしようとする努力はするべき気はする。
http://www.stewartisland.co.nz/
Stewart Island
仕事を辞めて、ニュージーランドへ。なんかひたすら日本から遠い所へ行きたくて、南へ移動して、南の果てStewart Islandへ。冬。雨が降り続き島中がぐじゅぐじゅの最悪の天気。山道を歩いて行き、もうこれ以上南に行けないという峠で、空の向こうに虹が見えた。帰ろうと思い立ち、踵を返し帰って来た。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=705100
高校の文系と理系どっちが有利?? - 教えて!goo
ぼくが人生のターニング・ポイントだなと思って後悔しているのは、高校時代までさかのぼりますが、『文系・理系』の選択です。
文系・理系の選択を決定した時点で、進むべき大学進学の道がほぼ決定してしまったといってもよいでしょう。
もっというと、理系に進んだ場合はドロップアウトしても文系に「天下り」できますが、文系を選択した場合は、理系に転向するのは至難な技といえます。
私の場合、数学や物理が苦手だったことが50%、(文系には)女の子がたくさんいて、彼女ができるかも?という淡い期待が50%で文系の方に進みました。
今振り返ると、あの時、どうして理系に進まなかったのだろうか・・・と後悔してなりません。
実際、自分のやりたかった夢も、今思うと理科系大学へ進学した方が達成された可能性が高いと思われ、もしも私が理系に進学していたら、きっと人生が180度変わっていただろうと思います。
それだけ、高校生の頃は、将来について何も考えていなかったということなのでしょうが・・・。
私には子供がいますが、子供が進路選択をする際には、自分の夢実現に近づけるような決断ができるようアドバイスを送るつもりです。
そうですか。
ところで、これにて終了します。
回答者の皆様、ありがとうございました。
そうですか。
ところで以後、コメントをしないこともあります。というのも、よく知らない方に対して、とりわけその方の人生というコメントしづらいものに敢えてコメントするのは場合によっては失礼にあたりますので。
なお、得点を差し上げた結果、他の解答に比べてご自分のそれが相対的に低かったとしても、それは別段、回答者様の決断そのものに評価を加えているわけではないということを念のため申しておきます(基準は、決断についてあくまでも詳しく書かれてあるかです)。