なぜ,日本では4月に入学式を行うようになったか教えてください。
元々は9月だったようです。4月に改められたのは「1. 明治19年に陸軍が入隊の届出開始日を9月から4月に早めたことから、学校も優秀な人材を集めようと入学式を4月にした。 2. 国の会計年度が4月に変わり、国や県から補助金をもらっている学校は4月入学に変えざるを得なかった。」という国の理由によるものだそうです。
http://www.hatena.ne.jp/list?op=1&so=0&st=t&c=
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urlはダミーです
1886年明治初期の日本では、特に入学の時期は決まっていませんでした。
今も続く4月新学期の事始は、1886(明治19)年10月に、高等師範学校が学年暦を4月1日からと定めてから。1888(明治21)年には、全国的にこれにならうようになりました。ただし、その後も、外国人の教授が多かった大学では、欧米の習慣に合わせて9月に新学期を始めていたようです。
高等師範学校が4月始まりにした理由は、軍部との間で人材争奪があったため、もしくは国の会計年度に合わせてなど、諸説あるようです。
ちなみに、国の会計年度が4月〜3月になったのも、1886年。この時の理由は、秋の収獲後の徴税の都合だそうです。
>の会計年度が4月〜3月になったのも、1886年。この時の理由は、秋の収獲後の徴税の都合だそうです。
この部分が重要ですね。
会計年度が4月から3月に決まったのが契機で、その後、学校も4月開始、3月終了と改めたそうです。
明治初期は入学の時期が定められていなかったそうです。そして、会計年度が4月から3月の期間になった年に、高等師範学校も同じ学年暦を採用しました。翌々年から全国一斉になったそうです。しかし大学や高等学校はそれでも9月開始でした。おそらくその後に改めたのでしょう。
ありがとうございます
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4月新学期の事始は、1886(明治19)年10月に、高等師範学校が学年暦を4月1日からと定めてから。1888(明治21)年には、全国的にこれにならうようになりました。ただし、その後も、外国人の教授が多かった大学では、欧米の習慣に合わせて9月に新学期を始めていたようです。
高等師範学校が4月始まりにした理由は、軍部との間で人材争奪があったため、もしくは国の会計年度に合わせてなど、諸説あるようです。
ちなみに、国の会計年度が4月〜3月になったのも、1886年。この時の理由は、秋の収獲後の徴税の都合だそうです。
ありがとうございます
http://www.hatena.ne.jp/1109178099#
人力検索はてな - 日本の学校は4月に入学式ですが,欧米では9月ですよね。 なぜ,日本では4月に入学式を行うようになったか教えてください。..
4月新学期の事始は、1886(明治19)年10月に、高等師範学校が学年暦を4月1日からと定めてから。1888(明治21)年には、全国的にこれにならうようになりました。ただし、その後も、外国人の教授が多かった大学では、欧米の習慣に合わせて9月に新学期を始めていたようです。
高等師範学校が4月始まりにした理由は、軍部との間で人材争奪があったため、もしくは国の会計年度に合わせてなど、諸説あるようです。
ちなみに、国の会計年度が4月〜3月になったのも、1886年。この時の理由は、秋の収獲後の徴税の都合だそうです。
皆さん,ありがとうございました。
今後,会計年度が4月になった理由を中心に,特に,1月ではない理由をお願いします。
http://www.atlas-club.com/kawaraban/backnumber/2004_04.html
バックナンバー2004年04月/イヒの助かわら版
2度目の回答ですが、お許しください。
会計年度はなぜ4月か。これは1886年、日本がイギリス流の会計年度を採用したためであると考えられます。
当時、イギリスは西暦の3月25日が新年となる暦を使用し、4月からを新年度としていたそうです。
これを日本が採用し、その考え方が今も残っているということのようです。
他の方が回答なさってますが、収穫後の徴税の都合というのも、ひとつの理由でしょう。
たとえばアメリカでは春から夏にかけて収穫が多い時期です。
そこで、農繁期が終わる9月頃に会計年度が改まる方式を採用した、と考えられます。
ちなみに、イギリスの会計年度は4〜3月、新学期は9月から始まるそうです。ちぐはぐに感じますね。
学年度と会計年度を別々に設定している国も多く、日本は会計年度に学年度をあわせたものと考えられます。
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URLダミーで申し訳ありません。
平安時代の「司召の除目」(つかさめしのじもく、在京の官人の任命)が3月です。
旧暦3月ですから今の4月にあたります。
昔から我が国の「年度始め」はこの時期だったのです。
地方官僚である「県召」(あがためし)の除目は1月でした。
「土佐日記」に、任期が果てて京に登る間に船上で年が明けてしまった様子が出てきます。
秋の収穫の管理と徴税は前官が行い、新官は新しい年の春以降の農作業を仕切ったのでしょう。
秋の収穫は今より遅く、また、酒や布などの加工品もチェックしなければなりませんから、数字が出そろうのは年末(今の1月半ば)でしょう。
それらの数字が都にすべて集まって集計され、新しい会計年度への準備が整うのは、やはり3月(今の4月)ごろだと思います。
という理由で、国政や財務関係の任官は4月に行われたのではないかと思います。
この習慣は江戸時代にも続きます。
「忠臣蔵」で、浅野内匠守の切腹のもともとの理由は朝廷からの勅使の饗応にかかわるトラブルでした。
幕府の高官たちは形だけですが朝廷から官位と官職を受けていました。
春弥生にやってきた朝廷からの勅使は「司召」の任官の勅使です。
当然任官の人事内容は幕府内での人事と連動します(奉行は○○の守、とか)。
幕府の人事も朝廷の「司召」に合わせて春、決定されたのです。
というわけで、日本の年度始めはかなり古い時代からずっと変わらず3月(今の4月)なのだと思います。
明治時代、欧米に合わせようとしたものの、やはり当時の日本の経済システムには、「春始まり」のほうが向いていたということではないでしょうか。
あと、昔は公共工事は農閑期に行ったと思います。お百姓さんを駆り出しますから。
4月以降は「農繁期」ですから、公共工事は3月までに終わらせる必要があり、それも「3月年度末」システムに関係したかもしれません。
kuro_daさん,yokikotokiku さん,ともに説得力のある説をありがとうございます。
このような,回答を待っていました。
さらに,回答をお待ちします。
1の回答者の方と同じ疑問が残りました。