UELはダミー
自分の弱いところ、他人には触れて貰っては困ると言う所(潜在的に自分では知ってはいるところ、記憶、過去の行動、失敗や汚点も含みます)どうでしょう??
http://www14.plala.or.jp/shukatu/sindan.html
1時間でできる自己分析
「本当の自分」というのは、固定されているかのようで、置かれた状況や環境の変化でも多少の変化があるのではないでしょうか?
人によっては、物事を客観的に見れる人とそうでない人がいるのではないでしょうか? あと、恋愛や就職で いざ対人の大事な場面になり他人の目が気になった時に 自分を見失う時もあるのでは? そんな時に急に本当の自分というのが見えなく(分らないと思う時もあるのでしょう?!) あまり突き詰めて考えすぎると、「幸せとは?」のように、曖昧で分らない事にもなりかねなせん
いつも 自分も他人も客観的に見れる訓練が出来ている人は、深く考えなくても 「自分」は見えていると考えます
んーなんだかよく内容がつかめません。
http://www.hatena.ne.jp/1117364550#
人力検索はてな - 『本当の自分』などとよく耳しますがそれはいったい、どういうことでしょうか?僕は人の心は日々変化し、それに寄り添いながら生きるしかないと思っているので、いわゆる『..
たぶん、それはアイデンティティが順調に育たれたんだと思いますよ。
「自分自身に理由もわからず違和感を感じ、苦しい状態」のことだと思います。
私もそんな時期がありました。
「常にある」と感じれる人はそのままでいいし、「自分探し」を知らない方がいいのです。
自分が順調に育ったと思ったことはありません。
http://d.hatena.ne.jp/asakura-t/
浅倉卓司(三日坊主)
僕もejima1201さんの考えと同じです。
が、探すのもその人の勝手だと思います。
「自分を探す」のも「その人の自分」なのでしょうから。
なるほど、面白い考え方です。ありがとうございます。
「本当の自分」=「不本意でない自分の姿」
ということでしょう。
他人や環境に影響されて作られた部分。
他者や社会と迎合するために不本意ながら作っているポーズ。
そういうところを差し引いて残る、自分自身で満足できる自我。
それが「本当の自分」という言葉で表現されるものの
実体なのだろうと思います。
「自分探しの旅」というのは、
他人や環境に影響されているうちに、
他者や社会と迎合を繰り返しているうちに、
元々の自分ってどういう存在なのか、
どういうキャラクターだったのかということを忘れてしまった、
あるいは、憶えてはいるけれど元に戻れなくなってしまった、
といった時に旅立つものです。
他人を気にしなくてもいい時の「素の自分」。
それを取り戻したくて一人になりたい。
そういう時の行動が「自分探しの旅」ですよね。
これは実際の旅行のほか、内なる思索として行われる場合もあるでしょう。
『素の自分』はないと思っています。社会や他人によってつくられた自分も素の自分ですし、一人でいるときも素の自分です。あるいは、人を好きになったときの自分も‥
http://www.hatena.ne.jp/1116416244#a2
人力検索はてな - 陰・影・カゲ・闇についての図書、文献、ホームページ教えてください。谷崎潤一郎『陰翳礼讃』以外で、、、
私も変だと思ってます。
その時、その場所、その相手によって刻々と変化するものを捉えて固定しようというのは多分、人間の悪い癖なんじゃないかと思います。
「解り難いものが存在していると気持ち悪い」って人が居る。ってことなんじゃないですかねぇ・・・・・・
あるとすれば、変えないと決めて実行している信念ぐらいでしょうか・・・・・・でもそれだって絶対じゃないですしね。
http://www.geocities.jp/koko_an_nohoho/
好々庵(こうこうあん)
サンショウウオの明るい禅/玄侑宗久
『僕って何?』
「そんなもの、縁に応じてどんな自分が出てくるか分かりませんから、考えても仕方ありませんよ」
私の巡回先ですが、まさにコレです。
総じて、「本当の私」とあえて言うなら、
『今現在ここにいる自分である。但し、一瞬前の自分はもう「本当の私」ではない。』
というのが私の考えです。
参考にさせていただきます。
http://www.ops.dti.ne.jp/~iwh/kokoro/jh.htm
�W���n���̑�
ジョハリの窓って聞いたことありますか?
自分はこうだと思っているけど、他人からは別な風に思われていたとか。
自分はジョハリの窓で言う「開放された窓」と「隠された窓」が全てだと思っているところも少なからずあるでしょう。
「盲目の窓」「未知の窓」というまだ自分の知らない所を見つけるために自分探しの旅をするというのもあるかもしれません。
旅に出て客観的に自分を考えてみたときに「盲目の窓」「未知の窓」というのが見えてくるのかもしれませんね^^;
こういうのは違いますかね?(´・ω・`)
旅をすることで、新しい自分を発見出たりします。しかし、新しい自分を発見するために旅をするのであれば、それは今現在の自分を否定することになるのでは?
本当の自分。確かに私にとっても、自分というのは常に一つで、「本当」も「偽り」もありません。他人に対して偽るのも、また自分自身の本当の姿だと思うからです。
ただ。それがすべての人に当てはまるかどうか、というと、一概にはそういえないと思います。
例えば、自分に対する周囲の過度な期待や要求に応えるために、本来の願望や衝動を他の人のように表現することが出来ない人もいます。そういった場合に、自分自身の姿を見失うことは多々あるかと思われます。もちろん、そうして何かを見失うのもまたその人自身なのだとは思いますが。
それから、自分自身の旅、というのは確かに他の人には分かりづらいかもしれません。しかし、
「自分(がやりたいこと)探しの旅」
なのではないのかな、と思います。やりたいことや、生きる方向や、何か支えになるものを探すための旅。そのひとによって、そのカッコの中身は少しずつ違うのかもしれませんが。
生きる方向がない自分も『本当の自分』だと思います。しかしそれを否定するための旅なら、なんだかなって感じです。
『本当の自分』と言うのは自分ではなかなか気が付かないものです。例えば、車を運転する時に自分の気性が出たりする時に、初めて気が付く時もあります。毎日のように変化もしていますので、幾つになっても自分の性格が分からないことが多いのです。
僕は自分については自分が一番よく理解しているつもりです。
人間の心理には3種類のものがあり
①自分が良く知っている心理
②相手から見て良く分かる心理
③自分も相手も分からない心理
でっ、③のものが深層心理といわれるものです。自分が無意識のうちにとっている行動の基本となる真理。本当の自分があるとすれば、深層心理なのでしょう。
例えば、かっこよく見せたいがために、本来の自分とは異なる行動を取るのは、①の概念では自分はカッコいいという概念から、本来の気持ちで行動していると思うのでしょうが、実際には無意識のうちに取る行動があり(泥酔状態時)、それが③で言う本当の自分なのでしょう。
かっこよく見せたいために本来の自分とは異なる行動を取る人っているんですか?かっこよく見せるために装うのは、極めて自然体だと思うのですがいかが? 僕が思う無意識とは寝ているときだと思います。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BF%CD%C0%B8&kind=...
国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書
人間は生まれたときから、育てられた影響を受けます。幼稚園に入った時点から、あかの他人との共存関係を学びます。義務教育の中の教師にも優秀な人も愚か者もいます。様々な人と接しながら次第にできてくるのが「本当の自分」ではないでしょうか。
人と接することによって、『本当の自分』がこれから形成されていくなら、いま現在の自分はいったい誰なのでしょうか?
同意です。
いつも自分なのですからね。
考察ですが、「いつもこれが自分」を否定したい人がいる。
それがこんな言葉のできてしまった原因だと思うのです。
「こんなの自分じゃない」と日頃不満のある方や自我の確立ができていないような方にとっては魅力的な言葉なのでしょう。
「本当は素敵な自分がいるに違いない!」、みたいな。
わたしは「自分探し」、聞くと変以上に痛いと思ってしまいます……。
旅の終わりにはきっと自分が見つかってるのでしょう。
自分で自分を「捕ったどー!」してる姿を想像して苦笑。
過去の失敗を『あれは、ちがうんだよ!!』って人よくいます。たしかに。
私は本当の自分っていうのは他人に対して言いたい事あっても抑えているその抑えている部分が本当の自分ではないだろうかと思うのですが・・・日常の中で他人と接する時(親でも)常に抑えている部分があると思うのですが。
むしろ抑えている部分が多いでしょう。抑えてないときの自分はいったいだれ?
運命があるという考え方の元にあるものではないでしょうか。それか自分はもっと力を発揮できるのに発揮できていない、だから発揮する場所を探し求めているという意味かもしれません。
私に関しては「本当の自分」というのはejima1201さんと同じ意見ですが、「自分探しの旅」という言葉は使います。これは憂鬱な気分の時にもっと現状復帰できる手段・可能性を探すという意味で使っています。
力を発揮できないでいる自分を否定的に見ている人がたくさんいるように思えます。
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URLはダミーです。
ワタシも同じこと思っています。
自分探しとか言われると違和感感じます。
それって思春期に終わったよと思います。
ただ、たまに自分らしからぬ行動をとっさにとる自分に驚く自分がいます。
そういうときは、自分が知ってる自分と本当の自分は乖離してるのか・・・などと考たりして、おもしろいです。
結構ワタシってやさしいとこあるじゃんとか、涙もろいのね・・・とか、その程度のもんですが。
そういう時、ないですか?
あります。
『本当の自分』という言葉で表現したいのは、単純にもっと本音を出して生きていきたいということではないでしょうか。
つまりそういう人は今、本音を出したいけど出せない不自由な感じに苛まれているのだと思います。
字義通り『本当の自分』と捉えるなら貴方のおっしゃる通りかもしれませんが、そういう表現の裏には上記のような微妙なニュアンスの願望が示されているのではないでしょうか。
『自分探しの旅』というのも、少なくとも現状に満足してる人は使わない言葉だと思いますし、要はその言葉で本当に言いたいことは必ずしも字義通りには読み取れないということでは?
本当の自分=本音をだす自分ということですか?ぼくは自分の本音など人にはとうてい話すことはできません。でもそれが自分だと思っています。
オンライン書店ビーケーワン
URLはダミー。
ちょっと違うけど似たような発想かもしれませんね。
人間と言うのは他者との関係性の中でのみ、自分を確認できるのだと思います。つまり環境によって自分というのはいかようにも変わりえる。常に変化し続けている。
ただし、もちろん、なかなか変化しない部分もある。
だから「自分探しの旅」というのをやる人たちは環境を強制的に大きく変えて自分の変化しやすい部分をはっきりさせようとしているのではないかと考えたりします。
他人の関係性の中でのみ。同意。感謝。
http://www.mythosandlogos.com/heidegger.html
Martin Heidegger
自分探しというのは、「将来はこうありたいとと思う自分」を考えたり、模索したりすることなのではないでしょうか?
個人的に、本当の自分というものも、他者や社会といった関係の中で初めて存在しうるものだと考えています。
なるほど‥。
まったくその通りです。
自分をかえりみても今までに何度も考えが変わっていますが、どれもその時その時には、本当の自分の考えだと思います。
そのうつろいを記録として残すために、日記を書くのです。
僕は日記が苦手で‥。感謝
人力検索はてな
二度目になります。
ははー(^-^)
「本当の自分」を追い求めることは自己否定であると。
「今」が本当の自分なのだと認めることが大切だと。
そうお考えなわけですね。
そういう考え方は大切です。
自分を探そうとして自己否定をしていたら、
それは自分を探すことではなく、
自分を見失うことになってしまいます。
そうじゃなくて、本当の自分とは、と考えることは、
「自己確認」のための思索なんです。
自分が今まで培ってきたものは何だったのかと、
今形作られている自分とはどのような姿なのかと、
それを再確認するための作業なんですよ。
そんな自己と向き合う思索の中で、人によっては、
今まで主としてきたものが実は他者に見せるための虚飾の姿であったり、
本当は無理をして演じていた姿だったりすることに
気付く場合もあるわけです。
そんな時、その不本意と思う姿の好ましい使い方を発見していく、
あるいは処世術のための演技などとして
自我の本体と切り分けていく、
といった道をつけていくことができれば、
それで自我が生き生きとしてくる人だっているわけです。
そうした活路を求めて「自分探し」をしていくことは、
けっして悪いことでも弱いことでもありません。
むしろ肯定のみで検証を行わないことよりも、
よほどに「強い」行いだと言うことが出来るでしょう。
また、「自分探し」は、人によって様々な方法で行われる、
ということも知っておかなければなりません。
たとえばこうした質問を発してみることも、
他者の回答と自己の考えを比較しながら
自己の考えを再確認する、
そんな「自己確認=自己検証=自分探し」の
一環と言うことが出来るものと思います。
なるほど。他や過去から自分を検証し認識するわけですね。 僕は今の自分を切り捨て未来に求める人がはなはだ多い気がします。そういった意味での自分探しは変だと思うわけです。二回にわたる回答‥感謝。。。
おっしゃる通り、「いわゆる『本当の自分』というのは常にここにある」、、、という事を見つけるのが、自分探しの旅です。
しかし今の人は、体験がバーチャル化し、しかも実際に体験して学ぶと言う観念がないので(マニュアル人間)、今のような変な現象が起きていると思われます。
残念ながらマニュアル人間は必要なのでしょう‥扱いやすいから。
過去は過去の自分として認識しているので、過去の自分と今の自分は違うものだと思っています。