http://www.mars.dti.ne.jp/~tsunami/
tsunami information
言葉を認識できない赤ん坊でも、
母親の不在などにより、
不安を感じて泣くことがあります。
ですから、言葉がなくても、
生命としての根源的な死や存在への不安は存在します。
宗教が必要か否かは、また別の問題ではないでしょうか?
民族や文化といった歴史的な影響が大きいと思います。
気持ちを伝えることは大切、でも宗教にすがる、宗教で安心するのは、おかしくない???
http://www.vets.ne.jp/faq/f_bunri001.html
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正しいとは思われません。
なぜなら、言葉をもたない動物にも不安という感情はある。不安は人間だけの感情ではありません。よって言葉がなければ不安を感じないという前提自体おかしいと思います。
私は特に信仰心があるわけでないので、URLは検索したら出てきただけのものです。
「だから」以降の結論部分について、私なりの考えです。
宗教は不安だから信仰するものでしょうか?確かに理由のつかない奇跡を神様のおかげにしたり、神様を信じる事で心が強くなる人もいたりするとは思います。
ですが、メジャーどころのキリスト教や仏教でも「不安を解消するためにおきた」物とは思われません。
信仰心のない私の説明も正しいとは言い切れませんが、宗教は土地の風習や文化から生まれたものだと思います。
よって、「不安がなければ宗教はいらない」という仮説は正しくないように思われます。
言葉をもたない動物の中で、宗教をもっているものがあったら教えてください
たぶんないと思う
色々な考え方ががあると思います。
不安を感じるから宗教にハマる・・その不安の原因には
確かに言葉もあるのかもしれませんが、
宗教にハマる要因で一番大きいのは自分の信念の有無ではないかと私は考えています。
世の中多様な情報や価値観がある中、
自分のしっかりとした信念を持ってない人は、
何が正しいのか、何が間違っているのかの判断を自分で決断する事ができず、
何か大きな存在(例えば思想家、科学者、権力者、宗教家、アイドル、霊能者など、その時特に影響を受けたもの)の考えに
完全に染まりきり、その意思=自分の意思として、
それに依存しなければ自我を保てなくなるのだと思います。
自分の信念があれば、はまらないか。
そうでしょうね。
不安になるから、だまされる。
そのシステムがいやだなあ
また、およそ中山みき(天理教の教祖)も出口なお(大本教の教祖)も、霊感の強かった人だと思うのですが、それでも、中山みきは死ぬまで教団化することに反対していた
教団宗教はうそばかりという気がするのですが
信念なんて、普通もてないよ
http://yuyusya-tsuruoka.cocolog-nifty.com/yuyuyu/2005/06/post_5f...
yuyuyu: 不安の根源ー動物の宿命
論理的におかしいと思います。
不安は言葉から生まれるものではなく、上記リンクにあるように動物も不安がることがあります。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=88931
るいネット - 新理論サイト
また、宗教は不安から生まれたものであるという前提がこの命題には存在しますが、それは宗教の一部または一面的要素でしかありません。つまり、不安とは関係なく宗教は存在しえます(畏怖や感謝等に由来するものもあるでしょう)
したがって、「言葉の有無」「不安感」「宗教」をつなぐ論理性はまったく存在していません。
これは論理的な回答、ありがとうございました。
では、質問を「なぜ、宗教は、人間にだけあるのか」と替えてみましょうか
http://www.hatena.ne.jp/1120917375
人力検索はてな - もし言葉がなければ、人間が不安を感じることもない。だから宗教はすべて不要となる。この認識で正しいでしょうか
雨乞いをしたり晴れてほしいと天に向かってお願いしたりするのは宗教とは言わないのでしょうか?天に雨を降らせたりする神様がいる、という考えから天を仰ぐのではないかと思いますが。
それとも、そういう考えにいたるには言葉が介在する、ということになってしまうのでしょうか、やはり。
太陽に感謝するとか、雨に感謝するというのは、わかります。
そこに言葉は介在しないですよね
そういう宗教はOKです
でも、多くの宗教は、人の弱みにつけこみませんか
言葉は、単純に意思の疎通手段であり、言葉がなくても人間は不安を覚えることはあり、かつ心身疲労をするものです。
要は挫折をしたときでも立ち直る勇気と力を持ち合わせているか、ということでしょう。運動系の趣味を持っていれば、宗教組織に縋っても問題解決にはならないということが理解できると思います。
言葉は、それ自体が不安定なものです
相手が自分と同じ意味で受け取るかどうかわからないから
そういう点でも、むずかしいよねえ
言葉がなくても「思考」はできると思います。言葉のないコミュニケーションがとれればやっぱり宗教は必要なのではないでしょうか。
うーん、言葉がなくて宗教が存在したという例はありますか?
人間が死ななくなるか、科学的に死後の世界がわかるかしないとなくならないと思います。
人間にとって確実に全員訪れるモノが死で、その死への救済法になったのが宗教で、それを学問の形にしたのが神学→哲学です。
なので、死に関する学問が完成しない限り無くなりません。
また、もう1つの見方として宗教は生活に根ざした物という人もいます。
ページが見つからなかったんですが、例えばイスラム教の一夫多妻制は元々は戦死した仲間や敵の妻を砂漠で野たれ死にさせないようにする為という説があります。中東の過酷な環境は男手がないと女性が暮らすには厳しいものだったからのようです。
人間って、やっかいですね
言葉を創って、言葉に溺れている
上記サイトの説明が、自分には一番しっくり来ました。自分なりに要約してみます。
宗教とは「考え方」を教えるものです。仏教等、昔から残っている宗教は、なかなかよい考え方を教えるために、その考えを受け入れる(信者となる)人が多く、今日まで生き残っています。
一方、カルトは、上記のような教えを、自分で理解、判断する事無く受け入れる事です。不安を感じて宗教にすがる(逃げる、と言ってもいいと思います)場合は、こちらの状態に陥りやすいのではないかと思います。
さて、動物で考えてみた場合、カルトは明らかに必要ないでしょう。生きるために、なんの役にも立ちませんから。
宗教の場合は、その教えが実践的なものから概念的なものまで、幅広くあります。しかし、そのうち実践的な教えは、上位の概念的な教えに従って生まれてきたものと考えられます。
動物も、実践的な教えは親から子へ行われる場合もあります。しかしその上位の概念を考えたときに見えてくる「生存本能」が、はたして宗教と言っていいのかどうか、難しいところだと思います。
宗教という言葉を使って議論する以上、その言葉の意味が人それぞれ違っているのだなあをあらためて思いました。
参考になるHPのご紹介ありがとうございました
↑ダミーです。
犬もなでれば喜びますし、
叩けば怒ります。
初めて自転車に乗ったら喜びますし、
地震にあったら怖くなります。
ですので、言葉がなくても不安を感じることは山ほどあります。
ですからこれは間違っていると思います。
そういえますね。動物でも不安は感じる。では、どうして動物には宗教はないのでしょうか
Yahoo! JAPAN
URLはダミーです。これからお答えするのが私の主観だからです。
質問を拝見していて思うに、言葉=知能と思われているようにうけました。
それを前提にすると言葉がなかったら宗教は必要ないのかもしれません。でも動物も不安を思ったりしているように思います。
では、宗教について。宗教は不安だけでなく、喜ぶことに関しても感謝しませんか。誰かに喜びを伝えたい、その時に人間の力とは違うものを感じるのかもしれません。
正直、どの神が正しい云々はわからないのですけど、人間ドックみたいに、自分が診察受けて大丈夫だったってことを喜んだり、不安だったら病院へ行くようなものだと思います。
ですから、言葉がなければ=宗教は不要とはいかないように思います。
なぜ、人類だけが宗教をもつのか
動物も不安を感じるのに、彼らにはどうして宗教はないのか
それが知りたいのです
みなさん、正しくないという人が多いですが、僕は質問の認識は正しいと思います。
まず、「宗教を持つ動物がいないから」と言ってしまってもいいと思いますが、ここでは人間の欲望と動物の欲求ということについて斎藤環のラカンの解説を引用しながら述べたいと思います。
まず、動物の欲求というものは本能に根ざしたもので、それが満たされればとりあえずその欲求は消えます。満腹になってもまだ食べようとする動物はいないわけです。
一方、人間の欲望というのはきりがありません。金持ちはさらに金儲けをしようとしますし、ゲームの進歩などを見ても、人間の欲望が打ち止めになるということはまず考えられません。
宗教というのも、一種のこの欲望の産物なのだと思います。動物は本能によって動き、例え不安があったとしても、その不安が過ぎ去ってしまえば、その不安の原因などは考えないでしょう。一方、人間は常に絶対的な安らぎ、万物の根源的な説明など、満たされるはずのないものを欲望します。たぶんこの辺りに宗教の起源があるのでしょう。
そして、この人間の持つ欲望というのは、人間が言葉を覚えるとともに獲得します。
斎藤環の文章を借りると
ところで、言葉っていうものは、もちろん自分で作り出すものじゃない。大人からだんだんと学習するものだ。だから、言葉はじぶんの一部じゃない。いうなれば、子供がはじめて出会う、最初の大いなる他者なんだな。だから言葉を学ぶって言うことは、「他者」をじぶんにインストールすることだ。ところで、どうしてこの他者が必要になったかと言えば、それは「存在の代理」としてだった。言葉そのものは当然ながら、実体をもたない空虚な音に過ぎない。そう、他者をインストールするって言うことは、自分の中心に「言葉という空虚」を抱え込むことなんだ。精神分析によれば、この過程は人間が人間になるうえで、どうしても欠かせない必然的な出来事ということになる。よく「人間の欠如した主体」なんて言い回しがあるけれど、要はそういうことだ。で、「欲望」っていうのが、この欠如を埋めたいというところから来ているんだけど……。
という感じです。
言葉がなくても不安感じることはあるでしょうが、言葉を覚えたゆえの根源的な欠如というものが人間の欲望を生み出すとするなら、人間の欲望が生み出した宗教というものは言葉があって初めて生まれるものであると言えそうです。
というわけで、「もし言葉がなければ、人間が不安を感じることもない」とは言い切れないにしても、「言葉がなければ、宗教は不要である(というか存在しない)。」という認識は正しいと思います。
ご回答ありがとうございます。ラカンや斎藤環さんの引用もさることながら、貴方様のご説明が大変わかりやすくて参考になりました。
もしかすると、新興宗教にかぎらず、すべての宗教は、人間が言葉をもったがために生まれた不自然なものではないかという気がしていて、かような質問をさしあげたものです。
大変勉強になりました。ありがとう
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?kind=jn&mode=0&MT...
国語辞典・新語辞典 - goo 辞書
言葉がなくても人間が不安を感じることはあります。回答されているので言及しませんが。
思うに、そもそも言葉がなければ「宗教」という概念が無いので必要とか不要とかいう問題ではないです。
要するに、言葉が無い場合の「宗教」とはどういう意味合い(定義)のものを仰っているのかよくわかりません。
ううう、そうですね
宗教とは言葉がないと成立しないということでしょうか。
たとえば、仏教や、新興宗教は、言葉がないと成立しえないものでしょうか。
だとすると、言葉の奴隷ということ?
なめてません。
実は私は、天理、綾部(大本)、ルールド、戸隠、バリ島のウブド、などなど、世界の聖地をさまよい歩いてきて、本当の宗教とニセモノの宗教をなんとかして見分けたいとおもっていたのです。
でも、最近は、すべての宗教は、言葉があるから生まれたのではないかと思うようになりました。
すべてが人間の欲望や妄想のために存在している。
仮に教祖は神がかりであったとしても、そのあとを引き継いだ人間たちは、欲望や妄想や不安をコントロールして存在している
そんな気がするのです
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/donsai/fifty.htm
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不安は感じなくなるかもしれませんが、認識力が落ちたり意思疎通力は低下したりと生物としては弱体化するでしょうね。
そんで不安はなくなっても本能的な恐怖や痛みという刺激への反応は残るわけですから、弱くなり損のように思います。
言葉の存在価値という点は、また別途議論の余地がありますね
今は、宗教です
ShinRai様の認識を私なりにかみしめてみたく、言葉を再構築してみたらこうなりました
不安から解消するのが宗教である
ところで人間の不安を誘発するのは言葉である
ゆえに言葉がなければ、人間が不安を感じることはない。
以上のようになります。
ですので、この認識は正しいです。
パラフレイズして検証してくださり、ありがとうございます。
とりあえず、原理についてはこれくらいにしましょうか。
みなさま、ご協力ありがとうございました
なるほど、ありがとうございます
でも、赤ちゃんは不安だけど、宗教にすがったという例はまだ聞いたことない