・http://www.hatena.ne.jp/1121620720
・http://www.hatena.ne.jp/1121630385
(こちらの質問もふまえた上で回答してください)
これは多くの動植物に当てはまりそうですが、人間は「生態系のバランス」・「種の多様性」といった意味では存在する意味があまりないような気がします(人間もひとつの種ですが、種の数を減らすと言った意味でデメリットの方が大きい気がします)。
では、人が生きていることになにか意味があるのでしょうか?
以下の点をふまえて回答ありましたらお願いします。
・回答の根拠は、なんでもかまいませんが、「すべてのことには意味がある」・「神様が創造したから」といった形の回答はダメです。
・その他の条件は基本的に前述の質問と同じですが、今回は「○○といった理由により、人は生きている意味はない」というのもOKにします。
※回答が多い場合はポイントは均等。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Special:Search?search=%s
検索 - Wikipedia
宇宙規模で見た生態バランスから、地球が終息に向かうべきだというなんらかの結果が出てて、地球を滅ぼす為に存在しているとか。
確かに人間は地球上で唯一、自然環境(動物・植物・非生物)を破壊する生物であることには違いないです。
しかし、全生物の中で、知恵を持ち、考えることができるのもまた人間のみです。
今までの人間は、自分たち固有の能力の多くを間違った方向に使用してきました。そしてそれが、自然環境の破壊という結果に至ってしまったわけです。
ですが、この人間固有の能力を、地球という視点から見て、好ましい方向に活用することが出来たら、正しい使い方ができたなら(例えば、伝染病によって絶滅しかけている生物を人間の技術によって救うことなど)、人間は地球にとって、全生物にとって、価値を持つ存在となります。
ただし、逆を言えば、このまま人間が間違った能力の使用を続けていくならば、人間は自然環境にとって、全生物のなかで唯一の悪種であるのです。
私は、人間の存在価値は現時点では存在しないていってもいいと考えます。
しかし、人間は自然環境にとってプラスになりうる(現時点ではマイナスだが)大きな可能性を持つ生物であることは確かです。
将来的に人が生きている意味を持つ可能性はあるが、現時点では生きている意味がないということでしょうか?
また、自然環境にとってプラスになる可能性がない人間(そういう意思のない人間)に関しては生きている意味がないということでよろしいでしょうか?
すべての生命体は、生き延びて自己複製し
DNAを残すことを目的とした生存機械というのが、
リチャード・ドーキンスの考え方です。
強い生命体ほど、子孫を残すために
多くの場所に生息できるように
数を増やし繁栄してきました。
しかし、それは、地球上だけに限られてきました。
人間の生存意義は、その科学力によって
地球上DNAの「宇宙への進出」の可能性でしょう。
これは地球上の他の生命体にはどんなに進化しても、
絶対にできないことです。
地球も太陽系もいつかは滅びますが、
人間がつくった宇宙船などによって
地球が滅びた後も、宇宙空間に地球で誕生したDNAを持つ生命を残せる可能性があります。
また、絶滅した種についても、クローン技術によって蘇らせることも可能になるでしょう。
実際にマンモスを蘇える日も遠くないと思います。
人間の存在意義・・・それは、飽くなき知的好奇心により、
地球から宇宙へ、地球生命体の可能性を広げていくものだと確信しています。
スターウォーズが大好きなtacnでした。
ええと、知能レベルが「小学校3〜4年生レベル」なので若干理解しづらいのですが、生物の存在価値は地球の維持ではなく、DNAを残すことにあり。人間が生きている意味は「宇宙まで飛んでいけるタコ」くらい。
また、宇宙まで飛んでいけない人間は生きている意味がないということでよろしいでしょうか?
http://www.ne.jp/asahi/ecodb/yasui/EthicsEcoEng.htm
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>将来的に人が生きている意味を持つ可能性はあるが、現時点では生きている意味がないということでしょうか?
現在、自然環境にとってプラスとなる活動(他の生物に外在的価値を持たせる活動)をしている人間もいますが、総合的に見ればマイナスの要素が上回っているので、現時点で存在価値はないと考えます。
>自然環境にとってプラスになる可能性がない人間(そういう意思のない人間)に関しては生きている意味がないということでよろしいでしょうか?
上記と同じようなことですが、総合的に見て、プラスの要素をもつ人間(他の生物にとって外在的価値のある人間)の割合が多いのなら、人間全体は地球にとって存在価値をもつということになると考えます。
外在的価値とは、ひとつの主体にとって役に立つもの、道具的な価値のあるもののことをいいます。
今のところ、意味がないということですね、ありがとうございます。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1212007
[教えて!goo] 地球は最後はどうなると予測されているのですか?
宇宙にとって、人間が生きていることの意味など皆無だと思います。
人間の知能がどんなに発達しようと、また想像力がどんなに豊かだろうと、人間というものがこの世界から消えてなくなる日は必ず訪れます(地球はあと数十億年で太陽に飲み込まれるし、太陽系外の惑星への移住もおそらく不可能でしょう)。
とにかく、このちっぽけな地球上で人間がどんなに美しいことをしても、醜いことをしても、または、どんなに種の保存のために尽力しようとも、そんなことは宇宙の歴史から見たら屁でもないのです。
しかし、“私”にとって“あなた”(もしくは“あなたたち”)が存在することに意味はあります。
それは自己中心的な意味でしかありませんが、その意味は宇宙よりも大きいかもしれません。
ここまでで環境的な回答が多いのですが、別に環境問題でもなくてもかまいませんが、自己中心的な意味とはどういう意味なのでしょう?そこらへんまた回答していただければありがたいです。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4890441239/qid%3D11217...
Amazon.co.jp: フリーラジカルって何だ?: 近藤 元治: 本
種の維持が「善」であるという視点は人間独自のものではないのでしょうか。この価値観は今の地球環境が危うくなると人類の生活が脅かされることから悪とされているのではないかと言う気がしています。
例えば地球が生まれたときは酸素がありませんでした。酸素を嫌うバクテリアが主でしたが、酸素を作る新種のバクテリアが増殖し絶滅の危機にさらされました。地球誕生時から存在したバクテリアは今は地底などの限られた場所で生き残っているそうです。
何かが絶滅、もしくは衰退すると新しいものがあらわれて環境が変化するというサイクルは自然だと思います。例えばエゾシカが今増えすぎて問題になっていますが、エゾシカ的には環境を自分たちが破壊している意識はないはずです。(エゾシカ増殖環境を作ったのは人間ですが)増えるということはシカ的に考えれば繁栄、めでたいことです。しかしやはり増えすぎれば食料がなくなり、土地が枯渇し結果的に自滅します。人間の増殖が環境破壊を起こし、自滅に向かっているのは地球誕生時からの自然な流れなのではないかと個人的には思います。
だからタコが環境のバランスを取っているというのはどうなのかと。何らかの事情で増えすぎれば環境を脅かすわけで、この点はどの生物も対等ではないかと思うのですが・・。
しかしながら、やはり自分の環境は維持したいという人間的欲望があるので環境維持の必要性は痛感してます。
シカもタコも大好きです。
つまり、人が生きている意味はないということでよろしいでしょうか?
宇宙航空研究開発機構:JAXA 宇宙ステーション・きぼう広報・情報センター
再回答です。
どんな個人も他人や様々な生命と関わりながら生きています。
それに、私たちは、生活をするためにお金を使い、税金を払いますが、
それらのお金が回りまわって、
宇宙への投資が行われているのですから、
どんなに宇宙に興味の無い個人でさえ
人間すべてが宇宙開発に関わっていると考えていいと思います。
ですから、子孫を残せない人間でさえ、
その存在だけで意義はあると考えます。
(たとえ小さなうちに亡くなってしまった子供でさえ、
存在した意義はあると思います。)
経済活動とは無縁ではいられないし、
その個人の生活や考え方が他人に影響を及ぼします。
よって、すべての人間は宇宙開発に関わっており、
「人類の生きている意味は、生命体の可能性を地球外にも残すため」だと思うのです・・・。
アニーこども福祉協会 NPO法人
重い障害を持って生まれてくる子供も大勢います。
その小さいうちに亡くなってしまったり
障害を持つ子供たちでさえ、存在意義はあると考えます。
つまり、その周囲の人間に関わったことで、
周囲の人の考え方を大きく変えたり、
また、特に奇跡的な成長を遂げたものは、
多くの人の感動を呼び、感動を与え
生きることの喜びや大切さを教えてくれます。
どんな人間にも可能性があり、関わりあっていて、
存在する意味は大きいものであると考えています。
生きていて無駄な人間・生きている意味の無い人間など
いないと思います。
なるほど。全部の人間が連鎖することにより宇宙開発に関わっているので、意味があるということですね。
では、「タコ」も「生態系のバランス」を取るためでなく、すべての生物や今までの進化の流れ等もすべては「地球を維持するため」ではなく「宇宙に出るため」であったということでよろしいでしょうか?
我々ヒトからみて、タコが生きている意味は、生態系のバランスと保つため、地球上から生物が絶滅してしまわないために生きているのだ・・・との結論を得ました。「我々ヒトからみて」と書きましたが、正確には「あるヒト(若しくは人々)からみて」ですよね。「意味」はヒトそれぞれの主観で決めるものですから。でも大多数のヒトがそう考えるだろうということで、上記結論に達したのでしょう。私も異論ありません。
「ヒトという種の存在意義」にしても絶対的意義は存在しません。相対的につまり個々の意義・意味は存在します。今回のお題は、大多数のヒトがそう考えるのでは?という「ヒトという種の存在意義」を考察する、と解釈して回答に移りますね。
「ヒトが何をしてきたか」を考察して「ヒトの存在意義」のヒントにしたいけれど、ヒトの行動には秩序が無い!と感じてしまいます。
ヒトは自然を破壊する⇔ヒトは自然を守ろうとする
ヒトは殺しあう⇔ヒトは平和を尊ぶ
ヒトは自分の事だけ考える⇔ヒトは全体の利益を考える
ヒトは他人の不幸を望む⇔ヒトは他人の幸せを祈る
どれも正反対の行動なのに「ヒトの行動」として正しく感じられます。何か一貫している行動規範はないのでしょうか?
ヒトが自然を破壊するのも守ろうとするのも、ヒトの欲望からきています。戦争したり平和を望んだりも同じです。「ヒトは自らの欲望・利益を追求する存在」であるといえます。しかしながらそれが全てでしょうか?「無償の愛」とか「慈愛」とかいうのは言葉だけの存在なのか?と思ってしまいます。そこでヘイゼル・ヘンダースンの考えを借りて、ヒトは「自己」の利益を追求してきたけれど、「自己」の範囲を拡大していって、自己→家族→地域→国→全人類→全生物の利益を考えるようになったという説を採用したいと思います。
よって「個の充足・繁栄のみを追及している生物界において、ヒトという種のみが生物界全体の利益を追求しうる存在」だから意味がある、を答えとします。
「生物界全体の利益を追求しうる存在」>可能性があるから意味があるという考え方ですね。
では、可能性のあきらかに低そうな人間には生きている意味はないのでしょうか?
Yahoo! JAPAN
URLはダミーです。
「生態系のバランスを保っているから今でもタコが存在する。」「地球上から生物が絶滅せず色々な生物が存在している結果、タコが存在する。」という解釈ではダメでしょうか。
生物の目的は自分の遺伝子を後世に残すことです。後世に残さない生物も有ったかもしれませんがそういう種は現在まで残っていません。生態系を維持するというのも、自己の遺伝子を後世に残すための条件だと思います。
タコが登場したことによって生態系のバランスが変わったとしても、現在はタコのいる生態系でバランスがとれています。だからタコが今でもいるのです。
他にタコの生きる意味としては、タコが過去・現在・未来への変化における生物のリレーのバトンを担ってきたことでしょうか。
人間についてですが、現在人間が登場したことによって生態系が大きく変わってきています。この生態系のバランスの変化が将来どこかで落ち着くのならば、人間も現在のタコと同じで生物のリレーの一部を担ったことになります。生態系のバランスがくずれて生物が人間だけになっても人間が存在し続けたなら、人間の意味は生態系の変化の最終形態ということでしょう。人間によって生態系が崩れて全生物が絶滅したならば、人間は生物のリレーを終わらせるために存在すると言えるでしょう。どうなるかはまだわかりませんが、今後の結果次第でしょう。
前の質問に関しても、「生態系のバランスを保つため」・「全生物が絶滅してしまわないため」以外の解釈があれば、別にかまいません。
「生物のリレーの一部を担うため」若干、意味というか目的というかわかりにくい部分がありますが、「タコ」や「人間」が生きている意味が「生態系の変化の最終形態になるため」・「生物のリレーを終わらせるため」なのかは現時点では特定できない、意味はあとでわかるものだという解釈でよいでしょうか?
人は、人間を人間が人と理解しているもので、じゃあ動物が人をみてどう思っているでしょうか。おそらく、どうも思っていないでしょう。訳は、人間は人間を主観で物事をとらえているので、人が生きている事は人がではなく生命全体が地球の中で生態系をとる為に生きているといったほうがいいのではないでしょうか。だから、意味
があると言うことがいえるとおもいます
。進化論的な発想が大事だと思われます。
「生態系をとる為に生きている」>若干わかりにくかったのですが、「人間」も「タコ」と同じく「生態系のバランスと保つため」、「地球上から生物が絶滅してしまわないため」に生きているということでよろしいでしょうか?
この論でいくと、人間は他生物の食料となるわけでもなく、アンバランスな捕食性から必要ないような気もするのですが。
始めまして。新参者でですが回答してみます。よろしくおねがいします。
URLは回答直接関係ありません。
「我思う、ゆえに我あり」とデカルトという人が言っています。
考えている私がいるってことは、私がいる意味があるってことだと思います。
あなた(を含めた人間)が「人が生きていることになにか意味があるのでしょうか?」と考えること自体に、意味があります。あなた(を含めた人間)が生きているのは「あなた自身にとって」意味があります。
ですので、人が生きていることは「地球にとって」または「宇宙にとって」は、意味があるとは思えません。
では、「タコ」はどうなんでしょう?「タコ」などの動物も「自」というものを持っていると思います。例えばいろいろな動物は「ナワバリ」を主張しますが、これは「自」と「他」の区別ができているということですよね?だから動物も「私は私だ」と考えている。だからその動物は「それ自身にとって」生きている意味がある。
・・・なんてことを考えてみました
「私は私だ」と考えているので生きている意味がある。では、この考える意味とはなんなのでしょうか?このあたりを再回答していただけるとありがたいです。
Yahoo! JAPAN
「”意味”とは人間の脳の癖のようなものである」と養老猛先生が唯脳論かなにかで言っていたと思います。その意味は(って”意味”を持ち出してはイカンのですが・・・)、人間(の脳)が外部の現象を認識する際に、脳は独立の物事の相互の間に関係を設定しようとする機能がある、ということです。sarasbattyさんのご質問の場合は、「個々の生物種がそれぞれある」ことの間に”意味づけ”を行い、さらに地球という無機物の塊とその表面に纏わりついている生物との間に”意味づけを”行っていらっしゃいます。が、そのような”意味”は、脳の外側に実体として存在するものではないのです。言わば、全ての物事それ自体には意味は無く、意味は脳の内にのみあるのです。
人生には客体的な意味はありません。ただ己のみが、己の人生に意味を与えうるのです。
「全ての物事それ自体には意味は無く、意味は脳の内にのみあるのです」とありますが、この考えは例えば「食べる」といった意味にもある人にとっては「生きる」ために食べるが、ある人は「楽しむ」ために食べるといったことで意味は千差万別ということでしょうか?
ですが、「昼」は明るいから「夜」は暗いからといったある程度共通認識的な意味もあるのではないかと思います。
人が生きていることは、それぞれのエゴによる意味付けをしているだけであり、そのこと自体には意味はないということでよろしいでしょうか?
生物が存在する意味は、人それぞれの考え方次第で、これといった答えはないと思います。倫理で習うような有名な哲学者達だっていろんなことを言っているわけですから。絶対に答えのでない、生物にとっての永遠のテーマですね。
種の多様性に関してなんですが、進化は基本的に自然淘汰によるものなので弱いものが死に、強いものが生きた結果が今の生態系です。タコが生態系のバランスを保つためにいるのではなくて、たまたま生態系の重要な位置を占めただけであると考えます。もしタコがいなくなれば、タコがいない生態系についていけないものは死に絶え、適応する能力を持ったものだけが生き残り、生態系も変化するでしょう。進化というのは環境変化に適応してきた結果ともいえるので、ヒトの進化は行くところまでいってるような気がします。ヒトは自分達を取り巻く環境を保つ能力をもっていますからね。
つまり「タコ」も「ヒト」も生存競争の結果として存在しているだけであり、生きている意味はないということでよろしいでしょうか?
http://www.dino-nakasato.org/jp/special97/Velo-j.html
ヴェロキラプトル (Velociraptor)
生態系における人類の役割ですが、ジュラシックパーク3部作で活躍したラプトルの役割だと考えています。
恐竜で一番強かったのはティラノサウルスだと考えがちですが、私はラプトルがある意味で最強だったのではと考えています。
つまり、数頭あるいは単独で狩りをするより集団かつ知恵を結集して狩りをした方が効率よく大きな餌を大量に捕食できるということです。
ラプトル類は恐竜が絶滅しなければ(鳥類とは別の方向に進化したら)現在の人間となったであろうとする仮説がある位頭のいい恐竜でした。
その狩りは他の肉食恐竜が歯しか武器を持たないのに後ろ足のかぎ爪を武器に使ったとされます。また、当時の最高叡智を活かし集団で中型恐竜を捕食していました。
ジュラシックパークに出てきたラプトルは映像として恐怖感を煽るためにかなり大き目に作ったんですよね。あれだけ大きなラプトルの化石は撮影開始後に初めて見つかっています。
http://ameblo.jp/korokorozaeega/entry-10002344030.html
ライオンのお母さんの苦しい決断|コロコロザイーガ
現在でも象にライオンは勝てませんよね。ある程度の大きさを持った肉食獣でもたかだか数頭では巨大な草食獣を相手にできないということです。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~onizuka/WalkingWith.html
Walking with SOMEBODY
じゃあ増えすぎた象等巨大草食獣を倒す役割は何に与えるか?なぜかその役割は食肉目じゃなくて食虫目から進化した霊長目に与えられるんですね。ここは神様の気まぐれとしか言いようがない。
ただ一つ言えるのは、ライオンや虎と単独で闘ったら絶対人類は負けてしまうんですが、武器を持つことで人類は立場を逆転してしまっているんですね。
さらに雑食で農業と養殖を覚えたものだから、少なくとも現在では生態系を完全には破壊しない。
生態系における人類の役割とは従来のピラミッド型では説明できないそういったところにあるのではないでしょうか。
まとめると、
ひとつは「ライオンが殺せない増えすぎた象を殺すため」(しかし、現実には人間の存在によって象が減りすぎているわけですが)
もうひとつは「雑食で農業と養殖」等、従来の食物連鎖を壊す・ピラミッド以外のことをするためということでよろしいでしょうか?
ここまででの回答で生態系・環境問題が取り上げられることが多いですが、回答は生態系でなくてもかまいません。また、環境問題について考えようということでもなく、
「人が生きていることに意味はあるのか?」
要点はここに絞ってもらってOKです。
ただし「タコ」が生態系としての意味しかない以上は、ここをある程度ふまえた回答でお願いします。
・「タコ」が生きている意味に生態系以外の意味があれば、その旨併記してもらえれば生態系にこだわらなくてもよい。
・「タコ」は生態系のために生きているが、人間は別の意味があって生きているでもかまいませんが、この場合は、なぜ、そうなのか?「タコ」と「人間」の差はどこにあるのかも併記してもらえればOKです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E7%89%A9%E5%AD%A6
博物学 - Wikipedia
まず、生命の存在が『可能な限り長時間存在する事』とした場合。
生物に多様性があるのは『環境維持』及び『生命』の保存と言った点には重要な意味を持ちますが、その個々自体が多様性を持っていることについてはなんら意味はないと考えます。
言い換えれば、タコがいようがいまいが、人がいようがいまいがそれ自体に意味はないのです。ただその多様性は『生命』がより長時間存在し続ける為のみに寄与し、その種それぞれが多様とするのは人間の視点からそう見えるのであって、マダコとミズダコはそれぞれが別の種類であると認識しあっているとは思えません。
早い話、生物が多様であると考えているのは人間のエゴであり、生物自体は多様であるとは思っていないかもしれません。
また、量子物理学者の一派には『生命は宇宙を記述する為に誕生した』と考える者が存在します。
つまりは生命は宇宙を記述する為に発生し、我々人類はその為に知能を進化させた存在として宿命付けられているのだという事のようです。
……私はこれについてはまったくの専門外なのでご紹介に留め置きます。
http://www.eorc.nasda.go.jp/imgdata/topics/2004/tp040205.html
EORC | 地球が見える - 地球史を物語る赤い大陸:西オーストラリア
『生命』が『その生活領域を広げていくもの』として存在している場合。
人間はひょっとすると別の生物を誕生させる為に生まれてきたのかもしれません。
他の方々もお答えになっておられますが、それは例えば宇宙に進出可能な生命~この場合、生命とは4原則(自己保存作用・自己複製作用・異化作用・同化作用=つまりはそれそのものとしてあり続け、異物を取り込み自分の体として、さらには自分と同じ様なものを生み出す≒子を為す)に従うものとした場合、自己複製機能を持ったロボット(SFでいう所のシリカ系生命ユニット)を生み出す為に誕生したのかもしれません。
例えば上記のシアノバクテリア。27億年前に出現したこの光合成が可能な生物は他の生物種には猛毒である酸素を生産する事で生物の陸上への進出や爆発的な種の多様化を可能たらしめました。
上記を傍証とするならば、多少SF的ではありますが、人類は『人工知能』を生み出し、それを宇宙に放出する為に生まれてきたと言えるのかも知れません。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093875219/qid%3D112174...
Amazon.co.jp: 生きて死ぬ智慧: 本: 柳澤 桂子,堀 文子
福井市西部にある本願寺・東別院(因みに西別院は東にある)には今下記のような趣旨の言葉が掲示されています。
『講話に出席した多くの人々の中で一人の幼い少女が質問した。私は何故生まれてきたのでしょう?その幼い少女の問いに対し、その場にいた誰もが答えることは出来なかった。答えがないと言う事も答えではないだろうか。』
読む度に私はボーっとしてしまうのですが、ただ、生命とはすべてその生命としての刻を全うする為にこの世に生を受けたのだと思っています。
生まれた生命は必ず死にます。で、それには意味があり、意味がありません。
私がここにいるのは意味があることだとは思いますが、同時に意味が無いことだとも思います。
禅問答じみましたが、最後はこう締めくくらせていただきたいと存じます。
『講話に出席した多くの人々の中で一人の幼い少女が質問した。私は何故生まれてきたのでしょう?』
基本的にこの質問はそういったレベルを考えています。
なので、結論として、「生きる」ために「生きる」とか、「宇宙を記述する為」といったのは、若干答えとしては理解しづらいという気がします。
「宇宙に出て行くため」という理由に加えて、ロボット(もしくは人工で新しい生物)を作り出すためというのはわかりやすいです。
「ヒト」や「タコ」は宇宙に出て行くため、もしくは宇宙に出ていけるような新しい生物を作り出すために生きているのでしょうか?
>「ヒト」や「タコ」は宇宙に出て行くため、もしくは宇宙に出ていけるような新しい
>生物を作り出すために生きているのでしょうか?
まずは言葉足らずであった事をお詫びいたします。
生物種が多様であれば環境に劇的な変化があった場合その状況に耐えうる生物種が存在する可能性が高くなります。
例えば競馬で一点買いするよりもすべての馬券を買っておけば外れる事はないと言う事です。
その為、生物は様々な変異する為の機構を有しています。例えば有性生殖における減数分裂とか、核外遺伝子の存在とか。
で、結果として生物は多様性を持つ。しかしその多様性を持って生まれてきた個体としての生物はそれ自身に意味はないのではないか、と言う事なのです。
『抗生物質に対する微生物の耐性獲得』という話があります。
これがまさに上記の論拠なのですが、ある細菌の集団はそれは一見同じものに見えるのですが、実は特定の抗生物質に対して耐性を持っている個体を含んでいる事があります。
で、この細菌の集団に抗生物質を投与すると大半の細菌は死滅するのですが、耐性を持っていた個体は生き残り、しばらくするとまたその集団を構成するようになります。この集団に対しては先ほど投与した抗生物質は無効で、この事より我々はその細菌が抗生物質に耐性を獲得したと考えます。
ですが、実際は元々そういう個体がいた訳で、これは一見同じに見える細菌の個体群が実は多様性を持っていたからと言う事になります。
ですので、生物群としても多様性を持っていればその生命と言うものを永続させる可能性が高くなり、個体としてみた場合、それはどうでもいい事だと言えるわけです。
私たちが生まれてきた理由はこの世界に可能性を一つでも多く増やす事であり、それは個体側からすればどうでもいい事なのではないかと。生まれてきた事自体に意味があり、またうまく行けば次代へ更に可能性を繋げる事が出来る。『私』という存在はつまりそういうものだと思います。
……実際、この問題に関しては私は小学校の頃から考えていて、大学へ進み生物学を学んだものの結局は何も確信たるものは掴めず、今も尚考え続けている問題で、多分死んでも解らないんじゃあないだろうかと思いながら生きています。これで私は回答権を失いますが、私の日記の方に時たま思い出したように上記についての考えを書いてますので気が向かれましたらおいでになってください。
こちらも屁理屈のような質問・解釈が多くなっておりますが、回答いただきありがとうございます。
「宇宙に出て行くため、もしくは宇宙に出ていけるような新しい生物を作り出すために生きている」のではなくて、それ自体も生命の存続の可能性を広げるためであり、生きている理由は「『生命』の存続の可能性を増やすため」といった解釈でよろしいでしょうか?
ということは、少しズレてしまいますが、
例えば「文学」や「芸術」などには大した意味はないのでしょうか?それともこれも可能性のひとつなのでしょうか?もし、よろしければ質問終了後、いわしの方にでも書き込んでいただければありがたいです。
http://religion.dot.thebbs.jp/1017161002.html
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私的意見ですが。
人間は唯一考える生き物(複雑な思考という意味で)であり、思考により意味を決定する。人間はなんでもかんでも意味を付けたがる、たぶん意味不明なものほど怖いものは無いから。
人間に意味があるのではなく、人間が存在するから意味がある。
人間がいなければ意味を考えるものもいない、
何の本に書いてあったか忘れましたが
「我思う、ゆえに我在り」の逆は
「我思わず、ゆえに我無し」ではなく
「我思わず、ゆえに何も無し」である。
というのを読んだ事があります、つまり意味を決定できる存在がいればおのずと意味を作り、いなければ意味は存在しない。
…以上、哲学になってしまいましたが私の考えたことです。哲学専攻でもなんでもないので変な理論つかってるかも。
デカルトですね。
ただ、「我思う、ゆえに我在り」は、「認識する私がいるから、私というものがある」ということではなく、「私という存在があるかどうか考えようと(疑おうと)する私が存在する以上はその疑おうとする私(もしくはそれに値するなにか)がいることは疑いようのない真である」ということではなかったでしょうか。
置き換えると、「意味を考えることによって、意味ができる」のではなく、「意味を考える以上は、それに値する真なるなにかがある」のかもしれません。
私も哲学などよくわからないので、変な解釈してるかもしれませんが、よかったらそのあたりまた回答お願いします。
ただ、「小学校3〜4年生レベル」の私の脳みそには少し理解が難しい気がします(笑)。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/5218/megateriumu.html
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14で回答した者です。
まずは、回答に対するコメントに回答します。
>「ライオンが殺せない増えすぎた象を殺すため」
若干違います。自然界に殺せる動物がいなくなった動物を殺すためと言った方が正確です。象もライオンも人間は殺してしまいます。
URLのメガテリウムも絶滅させたのは人間とする説もあります。
http://www.frontier.kyoto-u.ac.jp/rc01/tokutei/index-t.html
生殖細胞の発生プロセス・再プログラム化とエピジェネティクス
生態系と重なる部分は多いとは思いますが、何のために生きているかと言うと子孫を残すためだと考えています。
他でも書きましたが、砂野仁さんの「人は死んで名を残すと言うがありゃ嘘だ。人は死んで後継者を残さんといかん。」という名言があります。
後継者の中には息子さんも含めてなんですが、その息子さんも知っている方に聞くと「お父さんが立派過ぎて損をしている。偉くなったのは実力なのに、お父さんが社長だったから偉くなれたと勘違いされている」ような方だそうです。
タコだって自分の遺伝子を残すために色々苦労していますよね。
記録管理学会 : The Records Management Society of Japan (記録管理・文書管理・ファイリング・アーカイブ・ナレッジマネジメント・個人情報保護・説明責任・リスク管理)
さて、人間だけの存在価値ですが記録ですよね。
古代から絵や文字で色々記録している。ドードーを絶滅させたかもしれませんが、剥製なり色々な形で存在したことを残しています。
評価がなされるまで後何年かかるか判りませんが、色々な形で記録が残っていることでプラスになることが多いと思われます。
ありがとうございます。
つまり、人が生きている意味は
「自然界に殺せる動物がいなくなった動物を殺すため」・「子孫を残すため」・「記録を残すため」ということですね。
このうち、「子孫を残すため」・「記録を残すため」というのは、生命体の存続という理由でまとめてもよいかと思います。
また、「自然界に殺せる動物がいなくなった動物を殺すため」これは生態系のバランス調整と考えてよろしいでしょうか(調整とは見えない部分があるにせよ)?それとも生態系の破壊者としての意味でしょうか?
では、「殺す力がない(力を持つ可能性がない)」・「生殖能力がない」・「記録能力がない(もしくはそれに寄与しない)」に人間は生きている意味がないのでしょうか?
もし、よろしければ、質問終了後、いわしにでも書いていただけるとありがたいです。
Yahoo!
>「全ての物事それ自体には意味は無く、意味は脳の内にのみあるのです」とありますが、この考えは例えば「食べる」といった意味にもある人にとっては「生きる」ために食べるが、ある人は「楽しむ」ために食べるといったことで意味は千差万別ということでしょうか?
違います。動物には「えさを食べる」という機能はあっても、そこに「意味」は無いのです。何の「ために」という思惑を持って食事をしても、肉体はそれによってエネルギーを得、結果として活動のの糧にできます。単なる現象として、それだけのことです。「生きるため」、「楽しむため」という意味づけは脳内にしか存在しません。
> ですが、「昼」は明るいから「夜」は暗いからといったある程度共通認識的な意味もあるのではないかと思います。
「明るい」「暗い」という感覚器官を通して脳に刺激が伝わるところまでは、ヒトという生物の構造が似たりよったりなので、共通の反応として成立するでしょう。が、そこに「意味」を持ち込むべきでありません。共通の反応が成り立つのは、ヒトの肉体の構造と機能が似通っている結果です。この「反応」を「認識」とよんで差し支えないか否かについては異論がありますが。
> 人が生きていることは、それぞれのエゴによる意味付けをしているだけであり、そのこと自体には意味はないということでよろしいでしょうか?
この宇宙には客体としての「意味」は存在せず、ヒトの脳の機能として「意味」という情報処理を行うのだということです。平たく言うと「意味というモノは無い」のです。現象に「意味」を求めるのは無駄というものです。(意味無いじゃん)
人や宇宙やすべてのものがあることに意味はなく、ただの現象ということでよろしいでしょうか?
ありがとうございます。
生物が生きているのは種を残すためです。
けれども、太陽系のバランスも永遠ではありません。そのバランスが崩れた時、生き残ってる種があるにしてもないにしても種を残す意味はどこにあるのでしょうか。
私はタコでもヒトでも進化を続けて永遠に生き残ったとしても、それは何も意味をなさないと思います。
でもこれはいわゆる「あの世」というものを考えない場合の結論です。生きてる人にはあの世のことはわかりません。「魂」の定義はあいまいですが、あるようなないようなっていう感じですよね・・・。
ですから一概に意味をなさないとは言い切れません。でも今知っている限りのことをふまえると、意味はないと思います。
まとまってなくてごめんなさいっ
例え、子孫・種を残してもそれが永遠に続くものであるかわからない・バランスを維持してもそれが永遠のものではないから、生きている意味はないということでよろしいでしょうか?
ありがとうございます。
生命は多様性を好む。が、ならば何故ヒトは現状においてほぼ単一種なのか?といった疑問が生じるね。
ヒトは高い知能を持つが故に、自らが所属するグループに異端種が入ることを嫌う。
(この場合の異端種は白人・黒人といったものではなく染色体異常などの変異体のことと考えて頂きたい。)
昔、アルビノの人間を座敷牢に隔離していたように、人は異端児を根絶してきた。
…程度の差はあれ、そういった傾向は今でもある所にはあるね?
そういった行為の結果として、種としてのヒトは(少なくとも外面的に、ではあるが)単一種となっている。
自ら進化を放棄した形に。
故に、多少なりとも進化を嫌っているヒトは無意味な種となっているかもしれない。
おや、否定してしまったね?
ええと、よく意味がわからないのですが、人が生きている意味はないということでよろしいでしょうか?
http://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&webCode=0...
NHK�o�� Online Shop
再回答を許して頂いたようなのでもう一回、ポイントは結構です。
>少し理解が難しい気がします
うーん誤解をなくそうと書くと小難しくなっちゃうんですよね、簡単に書くって難しい(笑)、細かいところ省いて簡単にしてみました。
1.意味を決めることができるのは人間だけ
2.人間はすべてに意味をつける
3.よって人間自身にも意味がある
うーん反論があるとすれば2.だろうな…
>デカルトですね。ただ、「我思う、ゆえに我在り」は…
すみません実は私もデカルト知らないんですよ、高校の倫理で名前を見たくらいで。
我思う、ゆえに我在りの逆は…という話は本で読んだのをたまたま思い出して加えたのものです、テーマにあってるかな、と思ったのですが蛇足だったかな…
何の本に書いてあったか忘れたと書きましたが、気になって調べたら発見したので一応ご報告。
NHK出版「宇宙 未知への大紀行4」の巻末の小話(池澤夏樹氏)に乗っていました。
ありがとうございます。
コメント欄に反論的なものが多いですが、これは「その考えは間違っている」とかいうことではなく、なるべく意味がないという立場に立って、「では、この点についてはどうか?」、「その考えだとこういう考えもあるのではないか?」と屁理屈こねているだけなので気にしないでください(笑)。
「人間が意味を付けようとするから、意味がある」
では、どのような意味を付けようとしており、そのことになにか意味があるのでしょうか?
それとも意味は生きている意味はなんでもよいのでしょうか?逆に意味がなんでもよいとすると人間の生きている意味はなんでもよい・どうでもよいくらいの意味しかないということでしょうか?
また、よろしければ質問終了後いわしにでも書き込んでいただければありがたいです。
「タコ」という種が地球上に存在する意義くらいのレベルでは、「人間」という種も存在意義はあるでしょう。
そういう意味での「人間という種」だけを取り立てて特別視することは意味がありません。
しかし、質問「人が生きていることに~」の「人」は、「人間という種」の中に含まれる「個々の個体」を指す言葉としてお使いのように推察されます。
種としての「ヒト」は、集団としての存在意義はあるでしょうが、個体それぞれにある、それぞれ個別の存在意義なんてものは大してありません。
個体数が多ければ、種内の遺伝子の多様性が保たれ、結局その種が生き残っていく確率が高くなるので「集団として見た場合の個体ひとつひとつ」には少しは意味があると思いますが、個体一つだけを取ってみると、その意義なんてほとんど無いようなものです。
そもそも「生きている意味」なんてことを考えて、せっぱつまった気分になる生き物はおそらくヒト族だけでしょう。
人は、発達した大脳を持つヒトとして生まれてしまったために「生きる意味」なんてものを考えるはめになっているに過ぎず、たとえ意味があろうが無かろうが今まさに生きている事実は変わらない訳です。
つまり「生きる意味」について深く考えることは、「生き物であるヒト」という視点から見るとなんの意味もありません。一生懸命食物を得ようと日々頑張ることが、生き物としての人の宿命なので、結局はそうするしかないのです。
「タコ」も「ヒト」も生物として集団としての存在意義はあるが、個体としての意味はない、もしくはないに等しいくらいしかない。ということでよろしいでしょうか?
ありがとうございます。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?id=0823720-0000&kind=...
国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書
専門的な知識は全くない私が感じていることです。よろしいでしょうか。
生態系のバランスが保たれているというのは、それぞれの動植物が生きていけるということであって、
そのバランスに適応できなければ生きていけないというだけのことではないでしょうか。
ですから、生態系のバランスを保つために生きているのではなくて、
今生きている(存在している生物)はもともとある・または
刻々と変わっていく生態系のバランスに適応している(種として遺伝子を残していける)
というただの結果だと思います。
その結果に至るまでの過程については一つひとつ理由ががあるのでしょうけれど、
そこにそれぞれの動植物にとって「種として遺伝子を残していくこと」以外の「意味」はないと思っています。
人も動物ですので生態系のバランスの中にいるはずなのですが、他の動植物と違って
幸か不幸か子孫(遺伝子)残すことができる・できないを個々で認識することができたり、
子孫の増減や遺伝子自体を操作することができてしまったり、
生態系のバランスを乱すこともできてしまいます。
子孫(遺伝子)をつなぐ他にも 個人としてさらには人全体として
芸術や文学・文化や科学・もしかしたら戦争ですら
何かしらを「残し・つなぐことを存在する意味」にしているのではないかと思います。
人が生きていること、それは人以外にはただの過程か結果であって「意味」はなく、
人にとっては何かしらを残して・つないでいくという意味があると私は考えています。
(という私は個人的には今は残せる物などなにもないですが、人の営みの一部ではあるので
人全体としては人が存在する限り いろんなことを残して・つないでいってくれると思っています。
そしてそのことが結局は生態系の一部として進化・適応?していってくれることでしょう。
あれ?結局 生態系の一部で子孫を繁栄させることが目的になってますね。 失礼しました。)
人が生きている意味は、「生態系の一部で子孫を繁栄・存続させるため」であり、芸術や文学・文化や科学等もそれをつなげるための行動の一部ということでよろしいでしょうか?
ありがとうございます。
http://www.hatena.ne.jp/1121630385
人力検索はてな - タコの足が8本なのは、海中で動きやすいようにバランス的に、1、2、4、8と細胞分裂していった進化の結果であるようです。 http://www.hatena.ne.jp/1121620720 (こちらの..
sarasbattyさん面白い質問をされますね、先のタコの存在の質問から興味を持って見させていただいています。
さて、ここまでの皆さんの回答を読んだ上で、私の中での結論は、「人間の存在に意味はある、ただし、人間自身にその評価はできない」というものです。
まず、私はタコのほうでも「生物多様性という視点から意味がある」と回答させていただいていますが、この回答には、(人間から見て)(人間という種の長期生存のために)という、暗黙の前提条件が存在します。この前提を受け入れるからこそ、タコという種の価値判断が可能になるのですが、今回の回答については当然のことながら適用できず、人間を超えた、メタレベルの視点が必要となります。
http://www.ersdac.or.jp/Others/geoessay_htm/geo_text_05_j.htm
geological essay text May 2003
では、種を超えて、地球ないし地球生命という視点ではどうでしょうか?
すでにご指摘の方がいらっしゃるように、多種の生物を絶滅に追いやった生物というのは、1:1関係では数限りありませんし、シアノバクテリアという大殺戮の例もあります。
シアノバクテリアが作り出した酸素は、同時代のほとんど全種の生物を絶滅させたはずです。しかし生物は、その猛毒をも生存のエネルギーとして用いる方法=呼吸を身につけました。生物個々としては毒でも、地球生命系というシステムは、ものが何であれ、地質学的な時間の上には飲み込んでしまえるだけの融通があることが実証されているわけです。
ですから、自然破壊というのが、あくまで現状に対するダメージであり、人間がどれだけの生物を絶滅させ、有毒物質を垂れ流したとしても、人が滅んで一億年もすれば、また我々の知るものとは別の自然が構築されることでしょう。
だからこそ、この視点からは、評価はできないとおもいます。
(もちろん、絶滅させられた生物の視点からは、話は違うでしょうが… それをいうなら人間によって繁栄している種の視点もありますし、それらは特定の視点に寄りすぎということで、割愛させていただきます)
http://www.hayakawa-online.co.jp/2001/
・マ・茹ォ・�。ヲ・ェ・�・鬣、・�。テチ眤�ス�ヒシ、ホ・゚・ケ・ニ・遙ヲSF。ヲ・ホ・�・ユ・」・ッ・キ・逾�
さて、さらに上位の視点というと、銀河とか、宇宙の話になってしまいますね。
仮に銀河連邦とか、SFチックなものが存在していたとして、彼らは人のことをどう考えるでしょうか?
「他の種を滅ぼしている、ケシカラン」とみるか、「まあ、若いうちはそうだよね、俺もやったし」とみるか、そもそも我々の理解できる概念で評価してくれるのか、そこのところからもう、想像するしかなくなるわけです。
しかし、人間の存在を認識するだけのものが存在すれば、彼ら自身の価値基準において判断されている、これだけは間違いのないことでしょう。
改めて結論です。
「人間は、人間以外のものとの相互関係の中にある以上、間違いなくその存在に意味はある(善悪軽重を問わず)。しかしその質については、ある特定の種の生物の偏向的な視点によるもの、もしくは宇宙的、また遠未来における総合的な視点を仮定しなければ評価ができない」
一言でなら、「虐殺か、英雄か、評価は後の歴史家がしてくれる」というところですね。
明確な結論も出せずに、長文のお目汚し、失礼しました。
ありがとうございます。
「シアノバクテリア」の話はなかなか面白いですね。例えば、この話を聞いて、それでは「シアノバクテリア」は、いっぱい生物絶滅させた悪いやつなのだという風に考える人は少ないような気がします。人間に置き換えると現在の環境破壊等もひとつの流れであり、善悪・モラルはないのかもしれません。
また、生態系だけにおいて考えた場合、「シアノバクテリア」の存在が意味なかったかといえば、なんらかの意味があったと考える方が自然という気もします。
私なりの解釈になりますが、「生物が存在することに意味はあるが、その意味はあくまで主体的なものであり、客観的・絶対的な意味などない」といったところでよろしいでしょうか?
>人が生きていることになにか意味があるのでしょうか
結論から先に申し上げます。
意 味 は あ り ま せ ん 。
タコの存在意義とか意味というもの、
なるほどなあと思わず納得してしまいそうです。
納得したい人には合理的な説明だと思います。
一方、「存在に意味などない」という答えもありなわけです。
つまりどんな存在も意味あって存在しているともいえるし、
存在に意味などなく、ただ存在しているだけということもいえるわけです。
矛盾しているようですが、これは存在しているものに対する【見方を変えた】だけです。
存在しない架空のもの創作上の人物(鉄腕アトムとかシャーロックホームズとか、、、)であっても、
必要としている人には意味があるし、
たかが漫画、たかが架空の人物と思う人には意味などまったくないわけです
「この世に不思議なことなどない」
「この世は不思議なことだらけだ」
という相反した考えにも似ていて、現象面においても見方次第で認識が変わります。
意味を求める、意義付けをしたがるのは人間の心理の産物であり、
存在の意味をこじつけられた件のタコにおいては、
生きている意味なんて考えもしないわけで
ネコなんかは、一日中喰うか寝てるかしているわけで、
喰ってたれて息して寝てることに、なんの意味を持たせる必要があるのだろうかと思います。
喰ってたれて息して寝てるだけのネコの存在に意味をもたせたがるのは、
私のようなネコ好きくらいのものであって、
ネコ嫌いな人は見るだけで嫌がるし、存在の意味を見出すどころか
ネコがこの世からいなくなって欲しいと真剣にまじめに思っているくらいなのですから
ゴキブリだってそうです。
ゴキブリ好きな人(実際カゴに入れて飼っているそうだ)はゴキブリの存在意義を見出すが、
一般大衆は、どうしたらゴキブリを退治することができるかということに方に意味を求めるわけで、存在には意味を認めておりません
たとい、ゴキブリはこれこれこういう存在する意味があるのだと科学的合理的に説明されても、
ゴキブリ嫌い人間は、その意味を認めません
「意味」というものは、実在のものではなく、人間のアタマの中にある妄想のようなもので、意味づけはいかようにも事ができるものです
余談が長くなりました
人が生きていることに、なにも意味はありません。
人もネコと同じように
喰ってたれて息して寝るの繰り返しです。
男女士農工商身分の違い、学歴、肩書き、蓄財の大小、容姿の美醜、など差異はあっても人は人
みな、喰ってたれて息して寝るの繰り返しで生きています。
それに意味などなく、ただ生きるために食ってたれて息して寝る。
喰えない、出せない、寝れないとき人は永遠の眠りにつくわけで
永遠の眠りについたら肉槐は腐り、
現在生きている人のアタマのメモリーから消えてしまったら
その人が存在していたことすら定かではなくなってきます
歴史上の人物が本当にいたかどうかも、本当はわからない
事実は、その人物が現在、この世に存在していないこと。
ただ、それだけ。
過去に存在していたかどうかなんてことは、どうでもいい。
イエスキリストや釈迦が存在していたかどうかなんていうのも
確かめようがなく
宗教に関心ない人はいてもいなくても現在生きていることに支障はなく
キリストや釈迦や、孔子とか老子とか
いてもいなくても、聖書や、仏典、諸子百家があってもなくても
今生きてることになんの支障もないわけで
聖人と称される人の存在意義を見出すのは、その人物を崇めている人たちだけで
関係ない人たちは、野グソしているときにティシュがないことに気づいたとき
寄寓にも目の前に聖書の落し物があったとしたら、迷わず尻を拭うわけで
キリストも聖書も、その野グソ人にあっては存在意義など、尻拭いのためだけにしかないことになるわけで
人が生きていることに、なにも意味はないけれど
あえて意味を持たせるとすれば
何億パターンもの意味づけをすることができるということ
ありがとうございます。
「タコ」にしろ、「ヒト」にしろ生きている意味はないということですね。
人が生きているのは、「地球を滅ぼすため」ということですね。ありがとうございます。
片方は「地球を維持するため」、もう片方は「地球を滅ぼすため」。その矛盾に意味はあるのでしょうか?