「依存」について考察してください。


体験や伝聞による具体例或いはある程度の知識をもとに、依存に対するあなたの総合的考え方(その良し悪しを含め)或いは捉え方を教えてください。

なお回答の際、以下より関連するものを選び明記して回答するようにしてください。
1、対人的(家族、夫婦、恋人、友人…)
2、物質的(薬物、食べ物、金銭…)
3、行動(恋愛依存、ネット依存、性依存…)
4、その他

回答の条件
  • URL必須
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※ 有料アンケート・ポイント付き質問機能は2023年2月28日に終了しました。

回答12件)

id:TomCat No.1

回答回数5402ベストアンサー獲得回数215

ポイント50pt

http://journal-izm.hp.infoseek.co.jp/v6-tokusyu.html

�l�b�g�ˑ��ǂƂ������̕a��

2の物質的依存について考えてみます。


まず何をもって依存と考えるかについてですが、これは、

ある特定対象に対する価値観が強調されるあまり、

他の価値観が無視あるいは軽視されてしまう状態、

と定義づけることが出来ると思われます。


たとえば薬物依存の場合、その常習性には

肉体的な中毒症状と、精神的な依存が共存します。


肉体的な中毒症状が生じていなくても、

薬物によって得られる多幸感が忘れられなくなれば、

そこから離れられなくなってきます。


最初のうちは、常用すれば中毒になるかもしれない、

違法な薬物なら犯罪でもある、といった価値観が働きますが、

次第にそうした価値観が薄れて、

薬物を求めるようになってきます。


そのうち、金銭消費ひとつをとってみても、

今までは美味しい物を食べようとか、

新しい車を買いたいとか、

そうした楽しみに振り分けていた金銭が

全て薬物の購入費に充てられるようになってきます。


そして金が無くなれば犯罪を犯してでも金を手に入れる。

それを全て薬に回す。そんな状態にまでなっていきます。


しまいには犯罪の前にまず景気づけに薬を一本。

ジャンキーのなれの果てなんていうのはそんなものです。


こうして、ある特定の物への執着心が

他のあらゆる価値観を変質させてしまった時、

これを依存と呼ぶのだと、私はそう思います。


これは、3のネット依存などにも同様の状態が見られます。

ネットにハマる。ここに俺の居場所があるのだと感激する。

ここまではいいんです。


しかし段々「ここに俺の居場所がある」から、

「ここにしか俺の居場所がない」に変わってきます。


すると、家族や友人と交わる大切さとか

仕事や学校を重視する価値観一気に崩壊してきて、

あらゆる対人関係をネットの中にのみ

求めるようになってきます。


これで引き籠もり一丁あがり。

言葉は全てキーボードから。

気が付いてみると一日中一言も声を出していない、

なんていう毎日がやってきます。


それでも本人にしてみれば、それがとても

充実した毎日なんですよね。

ネットに依存するあまり、価値観が変質してしまっているわけです。


こうした依存を防いでいくためには、

常に新しい楽しみや喜びに興味を持っていくこと。

あちこちに心のアンテナを広げて、

どんどん楽しいことを探していくこと。

これが大切じゃないかなと思います。


そして、色んな種類の生き甲斐を持つ。

仕事の達成感にも生き甲斐を感じ、

家庭のほんわかとした日常にも幸せを感じ、

友と飲む時にも猫と遊ぶ時にも喜びを感じ、

街を歩いて面白い物を発見し、

自然を散策して興味深いものごとに触れ、

たくさんの人間の素晴らしい所を発見して

それを自分に取り入れていく。


そうした幅広い入力を備えた人間になっていければ、

ひとつことに執着するあまりにそこだけに価値観が集中する、

ということがなくなります。


特にたくさんの人と交わり、

それぞれの長所を発見していくこと。

これは大切だなあと思います。


他人の短所ばかりが気になりだしたら、

どこかに「○○依存」の芽が出始めている、

という注意信号なのではないかと思います。


許容性の低下は自己の価値観が

単一のものに固定されはじめたシルシ、

だからです。

id:masasan

とても分かりやすい文章でした。

内容も納得できます。

と思ったら回答者TomCatさん。さすがですね。

さて、興味・価値観の偏向という状態で「依存」を説明されていると受け取りました。

例えば、オタクという行動原理もある種の依存として説明されるとした本を読んだことがあります。価値観の偏向という言葉と照らし合わせ、納得できます。

ここで一つ、以前から自身の疑問があり、敢えて「依存症」という言葉を使わず「依存」という言葉を選びました。

例えば、ピアノの大好きなショパンさんはある意味で、ピアノオタクと言えると思うのです。ピアノや音楽に対する興味・価値観は、偏向と言えるものだったろうと思います。

或いは、とても繋がりの深い夫婦は依存関係にあると言えるだろうと思っています。

何かにとても強い価値観、偏向した興味、強いつながりがあることは必ずしも、直ちに否定されるべきことでないと思っています。

それはアイデンティティを持つ自己として当然認められると。

では、まだ自分の中で不明確な「依存症」と「依存」の位置関係はどうなっているのか、そこをより明らかにしたいという意図がこの質問にあります。

2005/12/04 16:03:48
id:willxwill No.2

回答回数73ベストアンサー獲得回数0

ポイント15pt

http://www.hatena.ne.jp/1133608847#

人力検索はてな - 「依存」について考察してください。 体験や伝聞による具体例或いはある程度の知識をもとに、依存に対するあなたの総合的考え方(その良し悪しを含め)或いは捉え方を教え..

URLはダミーとなります。

父親。たばこ(薬物依存)。

自分の父親は高校時代からタバコを吸い始めたといっています。吸う量はおそらくわりと多いほうだと思います(1日に1箱くらい?)。

食事後、単純作業中、コーヒーを飲む時などは特に吸いたくなるようで、家族が吸わないでくれと言っても吸うことがしばしばです(普段はベランダや家族がいない部屋などで喫煙)。

自分としては副流煙が家族に及ぼす影響、父親本人の健康に対する害などを考え、禁煙してもらいたいのですが、本人には禁煙をする意思はないようです。また普段の行動から見るに、依存度が強く簡単に禁煙することは難しいかと思われます。

僕自身の考えは、タバコを含め、(精神的にではなく肉体的に)依存性がある物質を摂取することは悪だと考えます。少々の飲酒ならば良いにしても、過度の飲酒、麻薬やタバコなど明らかに健康を害することがわかっている物質を用いることは、本人がいいことだと考えても社会悪になるものだと考えます。

特にタバコは、漫画や映画などでかっこいいものと思わせるような描写が多く、論理的な判断が出来ない中学生などの思春期の子供が簡単に手を出してしまいがちです。この時期から中毒になると禁煙が難しい上に、肺がん等になる確率が格段にあがるので、たばこを映画、漫画に使う際の多少の規制は必要ではないかと考えます。

id:masasan

私自身、たばこを吸ったことがない人間です。

たしかに、食事中や狭い場所では他人のたばこや副流煙はイヤですよね。

でもまあ、個人的には行き過ぎの排除も気持ち悪いですけどね。

たばこは吸わないけど、自分がまわりに迷惑をかけてしまうこともあるわけで、ある程度は許容してもいい気持ちです。

まわりにスモーカーがいないからこんなこと言ってられるのかもしれないけれど。

ちょっと焦点ずれました。

2005/12/08 18:58:53
id:kurupira No.3

回答回数2369ベストアンサー獲得回数10

ポイント5pt

たぶん物質的依存だと思いますが、買物依存についてです。

ただの買物好きなら、自分の持参金の範囲内で考えて購入しますが、

依存となると、お金が足りなく、借金をしてでも

購入するというような、一種病的なまでに

強い購入することの欲望を満たさないと気が済まなくなります。

まだ知り合いでは居ませんが、テレビなどでは

見たことがあります。

id:masasan

わたしも

まだ知り合いでは居ませんが、テレビなどでは

見たことがあります。

特に考察はみられません。

2005/12/08 19:01:10
id:adlib No.4

回答回数3162ベストアンサー獲得回数243

ポイント10pt

http://www.hatena.ne.jp/1130841411

人力検索はてな -  あなたが杞憂する“はてな”最大の危機は?  (かくあれかしと望んでいるわけではありません)  もっと恐れていることがあれば“いわし”へ。..

 

 はてなの質問者は、回答者のコメントに依存している。

 はてなの回答者は、質問者のポイントに依存している。

 はてなスタッフは、閲覧者のカウントに依存している。

 

http://d.hatena.ne.jp/adlib/19510630

Awa Library Report -  薬物疑惑 〜 眠らない人々 〜

 

 タバコは肺を真っ黒に、アルコールは脳を真っ白にする。

 前世・霊魂・奇跡などは、存在しない。

 ギャンブル場に勝者はいない。(義務教育で教えるべき三原則)

 

 年金の行方 ~ そして誰も論じなくなった ~

 

 若人は、老人(自分の親)に依存している。

 老人は、若人(他人の子)に依存している。

 役人は、国民(他の家族)に依存している。

 

id:masasan

考察の内容を教えてください。

ちなみに、

ギャンブル場の勝者は、胴元。

2005/12/08 19:11:30
id:mimibukuro No.5

回答回数1299ベストアンサー獲得回数3

ポイント25pt

http://www.nsknet.or.jp/~hy-comp/

Good-bye�A���R�[���ˑ��ǁi�A���R�[���ˑ��ǂ̂������������A�����g�D���Â����́A���Ϗ����

id:masasan

怖いですね。

お話のなかの依存については、わたしもそこに積極的になものが見つけられません。

なにかの隠された不安定な要因があり、違う場所で違うことをやってなにか埋め合わせをしながら危ういバランスをとっているように感じました。

きっと、その埋め合わせだけをやめようと思っても、解決できないのかもしれません。

自分が寂しいときには、旦那さんも寂しかったかもしれません、お互いに意識してコミュニケーションをとれたらよかったかも知れませんね。ってまだ遅くないですよね。

2005/12/08 19:26:18
id:yunoha609izumi No.6

回答回数176ベストアンサー獲得回数0

ポイント5pt

http://www.hatena.ne.jp/だみぃ:detail]

ネット依存です。


私の体験から述べさせてもらいましょう。今、はっきり言って困っています。理由として挙げられることが以下


・一日8時間もしている

・学生である

↑より勉強する時間が減る


今週中に強制的に直して8時間勉強にもって行くつもりですが、勉強など、人間はその時間何何するという癖をつけ、一週間行動するとその依存になってしまうと言うことです。


ゆえに、依存について挙げられる点は

・うまく使えばこれ以上のものは無い。

・身体能力についで役に立つ人間の”特性”

・場合によっては人間の身体能力をしのぐ

・敵に回すと恐ろしい。


単純な人間であればあるほどに、効果がでるので、うまく付き合っていくことが大切です。1っ習慣、生活をそれに持っていくことが大切です。

id:masasan

依存の考察と言うより、勉強習慣を身に着ける意気込み、のように感じてしまいました。

そうですね。経験的に言えば、学校に残って図書館や静かな教室で勉強すると捗りますよ。残ることで、意図も明確になるし。自分の部屋で気が散ったりしないし。

2005/12/19 00:16:22
id:castle No.7

回答回数1011ベストアンサー獲得回数12

ポイント40pt

http://www.hatena.ne.jp/ダミー:detail]

4、その他・依存考察


依存症状を、個人的な生物としてのコミットと考える。


個人の生理として快感を見出したコミットしたい対象が中心となって、その人個人の行動内容が決定される。

だが、個人的生理が発見したコミットから起こされるアクションが、その個人の所属している社会集団が持っている内部ルールに抵触しないかどうかが問題になってくる。

個人コミットによる行動が、集団ルールの定めた禁忌に抵触した場合、個人の生理に基づいたアクションは『依存』として廃棄され、規制されるべき行動として認識される。

個人が価値を見出しても、手段に疎外や不都合を起こしそうと認知されたら依存。

勉強も労働も愛も依存といえば依存でしょう。それが社会の規定した禁忌に抵触しない場合にガギッ手コミットすることを認められ、時には積極的につながるよう奨励すらされます。


例えば、資本主義市場経済はグローバルな依存です。


…以上、デンパ風味で考察してみました。

id:masasan

面白いです。

依存という言葉の使い方ですが、忌避に抵触するものに適用ということですね。とすると抵触しないものについては、違う言葉があったほうが便利。

それともルールに抵触しないものを「依存」、するものを「依存症」として使い分けるとよいのかな。とすると、「依存」と「依存症」の違いは外部環境によって規定されるから、内部に本質的な差異がなくなる。でもそれだと感覚的に少し違和感があるかも。

ただ確かにコミットすることへの、社会的認知という問題は大きいですね。

ん、今思いましたが、必ずしも「社会的」と限定的に考えなくてもいいのですね。ある集団での内部ルール、個人での内部ルールにおいて、それが認知されるアクションであるかという思考法も当然ありですね。

例えば自分自身、特定のコミットに対し、それを認知するかしないかは重要なポイントですね。

グローバル経済の内部の、各国の依存関係という言葉もありますが、依存症との境界線探しという今回の視点からはちょっとズレます。

>勉強も労働も愛も依存といえば依存でしょう。

だと思うんですが、一般的には依存症ではない。

なにかまだぼやっとしている部分があるんです。

んー。漠然と思いついたんですが。

イニシアチブの問題なのかな。自分の行動に対して、意思が主導権を持つか、あるいは特定のコミットが主導権をもつか。

でも、例えば対人的な依存は常に主導権の戦いになったりするし。うーん。固定的ではなくて、もっと流動的でシビアなものなのかな。

2005/12/19 01:14:41
id:murorankko No.8

回答回数16ベストアンサー獲得回数0

ポイント15pt

上のURLはダミーです。

4.そのほか。

○依存について

精神的安定を得るために依存する。

また、それがないと不安定になる。

習慣化し、なければ精神的に安定しなくなる。

○携帯電話依存

国民の大多数が携帯依存ではないかと思う。これがないと何か漠然とした不安になる。

 携帯というのはコミュニケーションツールと同時に情報端末とのしての役割を果たしており、携帯がなくなると社会から断絶および孤立される感覚に陥るため、精神的に不安定になる。まさに依存。

 コミュニケーションの一部、人によっては全てが携帯になっているため、依存せざるをえない状況とも言える。また、携帯による情報取得(ネット)は、新聞やテレビといった元来なかった情報取得手段であり、かつ持ち運びが便利なため、重要なツールとなり依存してしまう。

 誰もが依存しています。気がつかぬ間に・・・。

id:masasan

> ○依存について

この前質問した「愛の果て。」という質問で『自由からの逃走』という話題が出たのですが、人間は何かに依存することによって精神的安定を得るのかもしれませんね。組織や家族や行動規則やいろんなものに依存して安定と連続性を得ようとする。なんでだろ、そのほうが効率がいいのかな。

> ○携帯電話依存

18世紀頃の思想で、産業革命による人間能力の延長についてのものがあったと思うのですが忘れました。

要は、道具・技術の進歩によって一人の人間のできることが増える(能力が拡大する)んですね。コミュニケーションは人間にとってとても重要なものなので、当然重要なツールとなりますよね。

私は携帯なくても大丈夫なんですけど、ネットがないとよく困ります。人によってはネット回線が切れると孤立感を感じるという話もききます。

拡大された能力を手にいれると同時に、その能力の使用比率が高まることによって、他の能力の減退あるいは価値の減少が起こりそうです。これは依存といえますね。

これは良いことか悪いことか。

情報産業に携わる日本人が南米辺りの田舎町に住んでネットに繋いでいたら、依存症と診断されたりして。

2005/12/19 20:01:13
id:f-ish No.9

回答回数46ベストアンサー獲得回数0

ポイント30pt

http://www.excite.co.jp/?c=1

Excite エキサイト

「依存」というのは、「空白を埋めること」なのではないかと私は考えます。

対人的であろうと物質的であろうと行動だろうとなんだろうと。

空白に耐えられない、その精神が、自分の中にできる間を埋めるために、

決まった行動を繰り返しとることを指すのではないかと思うのです。


私はタバコを吸わない人間です。

でも最近、タバコを吸うタイミングは理解できるなと思うんです。

あ、喫煙者だったらたぶん今タバコを吸うなという、タイミングがすごくはっきりわかるんです。

「一服」って言葉があるように、仕事の最中、ちょっとひと段落したとき。一息つきたいとき。

休憩したいとき。食事を待つ間。食後。朝のちょっとしたひととき。

喫煙者の人といっしょにいると、ちょっとした間を埋める何かがあるのはいいなぁって思うんです。

別になんでもいいんです。煙が吸いたいわけじゃ全くないんです。

禁煙したら太るって言いますよね。タバコを吸う代りに食べてしまうって。

たぶん、純粋に手持ち無沙汰になるのだと思うのです。

何この間は?ってなるんだろうと思います。


要するに何かに依存するってのは、言ってしまうなら「時間」を埋めることだと思うんです。

埋め続けること。

たぶん、人は何もない時間がすごく怖いんですよね。

もう本当に耐えられないほどに。

id:masasan

すいません。閲覧期限が今日で切れてしまうので、早足でオープンしていきます。申し訳ないです。

「時間」もそうかもしれませんが、「埋める」というキーワードは重要ですね。依存に関する別の言葉があった気がします。

2005/12/20 01:22:48
id:T-pon No.10

回答回数424ベストアンサー獲得回数4

ポイント40pt

1、対人的(家族、夫婦、恋人、友人…)

2、物質的(薬物、食べ物、金銭…)

3、行動(恋愛依存、ネット依存、性依存…)

のすべてにあてはまる考え方です。


ある快楽行動をひたすら求め続ける状態が「依存」だと思います。『ひたすら』というのは、その行動の選択において計画性や積極性を欠き、快楽行動が将来の自分にもたらす利益や不利益を考慮できなくなっていて、実質的にはその行動をしないという選択肢が存在しない状態を指します。


これは2,3にとくにあてはまることで(英語ならaddictionでしょうか)、1には他の意味もあります(いわゆるdependence)。


逆に、自分でその行動が将来の自分に与える影響を予測しながらその行動を楽しんでおり、いつでも『その行動をしない』という選択が可能であるなら、上記の意味では依存状態でないと思います。ただし、その選択可能性は自発的であり、かつ、時には実際に『しない』選択をしている必要があります。


薬物依存やタバコ・酒への依存では多くの場合、それが体に悪いことを本人が自覚していますが、実際には本人自ら『その行動をしない』という選択をされることはありませんので、やはり依存状態と考えられます。

id:masasan

始めは快楽行動でも、他に選択肢がない状態までゆくと苦痛な行動であってもそれをやめることが出来なくなりそうです。

選択可能性がひとつの指標になるということですね。

ここで一つ例を。

お互いがお互いを、文字通り「かけがえのない存在」とする夫婦だか恋人がいたとしてその依存性を考えるんですね。

どちらか一人が死んでしまった場合、残されたほうを想像します。

依存性と選択可能性。

そしてその是非。

2005/12/20 01:36:04
id:yukikun1033 No.11

回答回数154ベストアンサー獲得回数0

ポイント5pt

依存ですか。

私は数年前精神科から処方してもらった薬が合わなくてやめようとしてもなかなかやめられなくて苦労しました。

id:masasan

考察がないですね。

現代医療、特に薬と依存についてむかし興味を持ったことがあります。

この先、人間の体が医療に依存するよう退化していく可能性とか。先に出た選択性のことを考えて、医療なくしてまっとうできなくなった人間の命とか想像したりして。

2005/12/20 20:01:41
id:kokezaru753 No.12

回答回数96ベストアンサー獲得回数4

ポイント60pt

http://ask.com/

Ask.com Search Engine - Better Web Search

こんばんはmasasan博士。お待たせしました、お楽しみ(?)三度笠こけざる登場です。

まささん⇔こけざる往復書簡もますます盛り上がってきました?(一方的な気がしないでもありませんが。。。)

前回は、名文章から判断するに助手に任せることなく博士自らの手によるご指導、大いなる愛を感じた次第です。

またもや博士の寛大処遇に依存している次第でこのような拙文ご挨拶から始めてしまいました。

(愚生にとっては、緊張の一瞬、ハイライトは出足に集約されているのではと錯覚を覚えるほどです、くらくら)


さて気分一新して、これは精神医学など専門的な見解をお求めではないということで

愛も変わらず(←これ大事)サル私見から申し上げましょう。


こけざる個人としては、実は「依存」という言葉自体には

世間で思われているほど悪い印象を持っておりませんでした。

というよりも「空気」と同じくらいの感覚で「依存」を捉えていたようであります。

正直に告白しますと、今回この質問の「依存」で意識下にまず、よぎったことは、

依存症とか中毒といったようなものでなく、

「人間お互い依存しあって生きている」ということでした。

要するにこれも先の名命題「愛」と同じように、各人による言葉の印象、程度の問題というように思えます。

「人間お互い依存しあって生きている」は、博士に詳細な説明は不要だと思います。

(が、一応、金銭・商品交換においてでさえも広義では依存ともとれるかもしれませんし、

究極暴極論で、無人島で自給自足を営むことができるくらいだと完全に依存問題異存なしです。)

ここでも私の思うところ結局「程度」「度合い」です。

最終的には、一般的な依存の定義としては、不可避である「人間お互い依存しあって生きている」と境界線の引けない曖昧なものになりえます。


さて、対人関係においてですが、まず依存する人、依存される人の2者が存在すると思います。

普通、悪いのは「する側」、”被害”を被るというのは「される側」でしょうか?

問題であるとするなら、まず、断ればよいと思うのですが。。

極論(スペース上の制約と、ご容赦)を言うならば、される側にも問題がある、”もしくは”されることを

(意識下である場合が多い)文句をいいながらも「受け入れている」のではないかと思うのです。

(依存されることは、不可避であると主張する人もいらっしゃるでしょうが)


逆に考えて、「する側」はどうか?個人的に、少なくともこの問題に関しては、する人、したい人、人生なんでもありと思っています。

その私が、一番、重要視する点は、自己認識ができているかどうか。 

例えば、芸術家(わかりやすいくもクリシェですが)で売れるまで人に食べさせてもらって(悪びれることなく、人によっては堂々と)いる状態では

お互いが認識している場合が多いのだと思われます。恋人同士でも相互認識の程度により問題の大きさは違っていると思います。


自分がどういう状態にいて自分が何をしている、何をなすべきかがわかっている。

別に(芸術的)目的がなくてもこういう認識があれば問題ないと思うのです。

いざ依存するものがなくなっても対処はできうるでしょう。 

逆に「される側」も(真理をついた)認識が、為されているなら依存されるということがどういうことかわかるとも思います。

そうすれば、”流される”ことのなく、受け入れるべきか、受け入れないべきか、という認識下のもと

(=問題になることもなく)行動が、とれるものと”基本的なところでは”思っています。

すなわち、これは依存だけの問題にとどまらないと思うのですが、人間、如何にどのくらい自分の行動を知覚・認識できているかの問題だと思います。


2,3,4についての考察も細かいところで違ってくるでしょうが、最終的にはやはり認識の問題だと思います。

自己コントロールのできないというのも、もともとは「認識なく」”入って”いったとのだと思います。

更に理想主義者として一言言わせてもらうならば、自分がそうなる前に、依存症、中毒となりうる対象物は

一般的には一度は見聞していることでしょう、それらに対して「認識」を持って自分ならばどう接するか、対処すべきかということを考えておくのも

人間として必要かもしれないと思います。(これらは私が、逐一実践してきたことだといってるのではありません)

(例外として、特に薬物の他人からの(強制的)注射は、これに当てはめるのは酷かもしれないですが、

そういう状況になるまでに状況判断認識の問題という風に考えられるかもしれません。同じく母乳を受ける赤ん坊が

依存症・中毒にもしなるならば、これは本人の認識能力を超えたものといわざるをえません。)

認識ができている人の上級者ともなると自分が中毒気味になったときもそれを楽しむ余裕さえ見受けられることがあります。

個人的には何かに熱中し始めたときはとことんやって、周りからは「中毒」呼ばわりされることが多々です。

私としては、楽しめるときに楽しんで見るという自覚の下で人生で問題になるような大きな支障、弊害はなかったと思います。

とことんやって楽しんだあとには、沈静期が(割りとすぐ)(←周りはこれを「もう飽きたの?」と表現します)まいります。

中毒になったとしても人間寝るときは寝るということから、中毒になったからこれができないから問題であるというようなことは。。。

(以下の結論2行になだれ込む、クライマックスの瞬間です、心してください)


以上を踏まえて、私がおぼろげながらにでも思っていた(根本のところでの)「依存」とは、

『(自己)認識が充分為されていない(or いなかった)自分自身の甘えに依存したものである』ということです


以上を持ちまして,わくわくこけざる大研究の一部を披露してみました。

命削る思いの回答オープンだと思います。少しでも博士の研究の助けになればと思います。

(勿論細かい例外的事象については、ここでは完全対応は難しいと思いますが、

大体私の思ったことが伝われば嬉しいです)


よい1週間をお過ごしくださいませ。


こけざる拝


二伸

観点大いにずれた回答でありましたなら遠慮なさることなくご指摘くださいませ。張り切って焦点の絞れたところで再挑戦いたしましょう。(笑


冬のボ~ナス おまけです。 「依存」と関係なくお楽しみください。

何か御考察御研究の糧とはいわないまでもおつまみにでもなれば幸いです。


「盲点」 T-ponさま、「答えたかったですー」お気持ちごみの入った涙目さながら痛いほどわかります。

しかしながら、私の盲点をつくような大変興味深い投稿でお二人につつかれたりしていようものなら私自身泣きが入ったところでした。

私には分が大変悪い気がしますので話題は変えて年末3人バトル・ロワイヤルでも開催したいところです。


そして、愛の果ての「果て」です。 10ほど文章をおつくりになると意外に意味合いが違ってきたりして

よくよく考察のメスを入れると、彼方、成り果て、行く末、終焉のあと、などなど、相変わらず悩んでいたりします。


いろいろ考えは出てきますが、つれづれですが。。。


まず、「博愛や母性愛といった言葉を思い浮かべましたが、それぞれ果てという言葉が似合わないように感じます。「愛の果て」からは、失われやすいものとして


の男女の愛を想定される場合が多いのかもしれません」

まさにまささま御意御意にしたりです。私も愛→博愛・友愛・アガペ~的(下記にあるような自己愛も含まれる)に向かうとどうなるのか?

実際、一般的、もしくは、ここでの愛と様相が異なる気がいたします。しかしながら人間年齢を重ねていって(異性・セックスとして感じるような関係は)

ここでの「愛」は、どこまで可能なのか? これも失われたと考えることになるのでしょうか?これがお互いが存在する場合における「昇華」した愛なのかと

今までしっかりと認識できていなかった盲点だったかもしれません(私です)。


個人的な愛の疑惑について。

「失われた愛」の「愛」には端的にいって、2種類あると感じます。勘違い・思い込み、もしくは、真心芯真実の愛。

これを判断するには、個人的には相当の客観性が要求されると同時にどのような”愛”を体験したか、見聞検分したか、次第によると思います。

(が、本人が「愛」といっているうちは、後者と信じている場合がほとんどでしょう。

が、これって愛?本当に愛?と自分で疑問を呈する人もいることでしょう。)

個人的経験では、誰かの強烈説得力ありありの愛を知った後では、人それぞれ思いはあるにしても「ちょと待て、そんな(多分一時的かもしれない)ことを

愛してると軽々しく言ってよいのかっ」と絶叫すること(←私です)しばしです。

害のない例では安易な(究極と称されたような恋愛)映画。。

「作り物じゃない」というお方よ、「作り物だからこそ想像を絶する愛などいかようにも作れるのだよ、べいび~」

いちいち壮絶・究極でなくてもよいから一応、愛!という以上はそれなりの設定を敷き説得力を持たせなさい製作者、

(前売り格安チケットは結構だが、愛の安売りはよくないと思うぞ。)

「ずっとあなたと共に生きたいという今の気持ち」10代で言うのと20代、30代で各代~60台で同じ人が言うにも重み、認識度が違ってくるかもしれません。

真剣度は同じであって欲しいものです、投売り安売りは慎んで。

永遠なる愛の言葉は即ち偽りになるのです、そのとおりです。来年のことは言っては。。。

しかしながらそのときにきっとそう”思い込む”わけですね(勿論真実もあるでしょうとフォロー)。

ついでに、衝動 自己陶酔 快感 などという言葉もいま横をすり抜けていきました。

さらに別件でもうひとつ、しかしながら、恐ろしいのは、究極巨大自己愛の(実はかなりあると思っている)思い込み、履き違いがありうるのではないかと。。。

母→子に基礎を成すのはこれだとも言われますね。研究すると嬉しくないかもしれません。(さる的には実は考察深めたい)


以上考えてきますと、愛の果てもだいぶまとまってきましたか??

幻・消滅・変換・胸中(保存・昇華など)か。。。まとめるには今夜は疲れました。。

実は、久しぶりに映画に燃えるような質問見つけてまささんさまの命題から浮気してしまいました。

ルコントではありませんが、そういえば、ピーター・グリーナウェイの「コックと泥棒。。。」もひとつの愛の果てかもしれません。

お時間あるときに気分転換もしくは視神経の活性化などによろしいかと。(愛というなら)ここまでやらないと・・・映画の一貫性(同テンションの維持)とは?も知る


ことの出来る映画的作法に優れ、カメラ、セットもたいへん美しいグリーナウェイ2番目の傑作といっても過言ではないでしょう。

余りに”人類”の愛の果てがさびしいような気がしないでもなかったので余談的ですが娯楽的におまけでつけておきました。

いろいろ脈絡もないこと(誤字脱字)散見することでしょうが(改行に神経を使う愛、今夜は持ち合わせておりませんでしたが)何卒ご了承ください。

長くなりましたが、まささんさまがお楽しみいただけたら私といたしましては幸甚のきわみです。

私もいろいろ新たな視点で盲点だったことも含め考える機会与えていただき大変楽しむことが出来ました。

今後も何かございましたら是非是非ご一報くださいますようお願いしたいくらいでございます。

本当にありがとうございました。

お互いこれからも突き詰め精神で(?)、またまささんには季節柄(というかいつも)、どうかご自愛専一にお過ごしになってくださいませとお祈りしております。


こけざる再拝

id:masasan

こけざるさまこんばんは。

登場を、指折り数えて楽しみにしておりました。

まず始めにこの質問、再質問回数の設定を1にしてしまい期限が今日まで。回答オープンの遅れも相まって、対応の不備まことに私の不徳の致すところであります、申し訳ありません。

期限も迫る中、昨夜心致して回答を開きましたところ回答の分量とこけざるさまの愛情を感じつつ、眠れぬ夜を過ごしました(←ちゃんと寝ましたけどね)。

すこし考えましたところ、二伸の内容につきましては後日、件の質問のコメントにて対応させていただきポイント送信にてその旨お知らせさせていただきたいと思います。これは、質問のスレッド整理のためであり、対応の時間稼ぎ…のような後ろ暗い所は全く持ってないと思われる今日この頃です。

さて、本題。

『わくわくこけざる大研究』の一部、拝読させていただきました。うすうすとその存在を予感しつつも今回その一端に触れ、これは是非ともこの大研究の他の頁も解明せねばならない使命を感じ、今後質問攻勢の必要性を改めて確認した次第であります。(とはいっても、アレなのでじっくりと機会あるときにお付き合いいただければと思います)

さてさて、大本題。

対人における、主体としての依存者とされる側の被依存者の話題。

継続される関係において、非依存者の「受け入れている」との指摘、往々にしてそのようなものではないかと私も思っております。むしろ、男の立場から想像するに仮に「受け入れ」側と思っていたとしても、往々にしていつの間にやら精神的に或いは他の事でよりその状況に深く依存してしまったりするのが依存と被依存の面白いところと思います。

そしてここ、認識のところ。していることされていること成すべきことそこで起こっていること、つまり自分のいる位置の把握・広い意味での状況認識がカギということかと思います。認識することで、来るべき依存の回避やはまり込んでいる依存の程度自分の位置を確認することが出来る。

そうですね、そういうバランス感覚はいつのときにも重要なものだと思います。といっても熱中し過ぎるとするとそこだけ見つめてしまって文字通り周りがみえなくなってしまうもの。出来た人間になるには不肖masasan(←自分にさん付け)まだまだ道のりは険しそうです。ここは「人生なんでもあり」「楽しめるときに楽しんでみる」の言葉をささやかに胸に忍ばせつつ、認識できる上級者を遠めで眺めて人生中級者を目指してみる所存です。

さてここですこし突き詰めてみたいところとしては、自分の行動を知覚・認識できていればその依存状態にて自己をコントロールできるだろうか、というところです。極論としての薬物強制注射まではいかないものの、大きな状況の流れにもがきながらも流されてしまうことや、依存と知りつつ不可避な道を進まなければならないことが、多様で複雑な人生の中にはあるようにも思うのです。

すこし戻りまして結論へと続けます。「依存」にはその「程度」・「度合い」により様々な面があり、各々境界線を引くことのできない曖昧さによって連続的に関連し合っているとのことかと思います。同意です。そのいろいろな面については特徴などを洗い出し認識しやすいように言葉を与えたいところです。今回の質問で回答いただいたところから私なりに洗い出すと「依存症」「価値偏向」「反規則的」「能力伸張的」「補完的」「選択可能性」「関係・繋がり」「位置認識」などのキーワードがみつかりました。

ここで「度合い」の言葉からイメージするのは真直ぐな数直線です、しかし依存の程度・度合いといった切り取りかたは確かに重要と思われますが、それ以外にも上のキーワードのような視点が絡み合う複雑怪奇な存在、それが今の私にとっての「依存」の認識です。

はじめにも書きましたが私の回答設定ミス重ねて申し訳ありませんでした。

印刷して熟読しましたが誤解やその後の研究の発展があれば是非コメント等にてご指摘・ご教授願います。

 敬具

今回の質問ここにて打ち切り(←強制締め切りまで、残り一時間切り)。

みなさまありがとうございました。

最後にf-ish,T-ponさまへはもう少し質問者コメントにて十分コメントできず後悔しております。良回答いただきながら、申し訳ありませんでした。同系の質問の予定もあるので、これに懲りずまた機会をみて是非ご回答いただければと思います。

2005/12/20 20:03:14

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