http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060306-0005....
http://allabout.co.jp/children/childcare/closeup/CU20040731A...
雅子様の病名は適応障害である、と公表されているようです。
一言で言って、
「鬱病という病気に、社会的偏見があるのが現代日本社会の実態だから」
だから、遠慮しているのだと思います。
だからといって、このようなマスコミの態度が、鬱病に対する偏見を無くすかと言えば、むしろ逆であるとわたしは思いますが。
そうですよねえ。むしろ同じ病気で苦しみ、戦っている多くの患者さんに対して、失礼ですらあるような気もするのですがねえ。
http://www.kunaicho.go.jp/cgi-bin/search.cgi?query=%89%EB%8E...
宮内庁が公式発表していないからです。新聞などはさすがに観測記事で書いて、宮内庁とけんかできませんので。
http://www.yomiuri.co.jp/features/impr/im20051209b_01.htm
東宮職医師団の診断によれば、診察名は「適応障害」であり、
>はっきりと同定される社会心理的ストレス因子に反応して、
> 臨床的に著しい情緒的または行動的症状が出現すること
と定義され、
> うつ病や不安障害などの他の精神疾患の診断基準は満たさないが、
> 著しい苦痛を伴うもの
と説明されています。
つまり、鬱的な兆候は伴うかもしれませんが、
鬱病の診断基準には合致しない、ということです。
回答ありがとうございます。最初の回答者のかたへの返答でも書いたのですが、病名が適応障害であるとして、なぜニュースはその病名を明らかに言葉にして伝えずに、「長らく体調がすぐれずに療養中の雅子様」というような虚しい説明しかしないのでしょうか。「適応障害を治療中でいらっしゃる雅子様」でいいと思うのですが。報道側には、適応障害と言葉にしてしまうことになにか躊躇があるのでしょうか…。
ついでにあくまで素人の印象ですが、「適応障害」とは結局のところ死因を「心不全」と発表して実際の本来的な死因を隠すような安っぽいレトリックの類いにも聞こえます。彼女がどのような症状をみせており、どのように苦しんでいるか、少しは分からないと共感もシンパシーも持ちようがないと思うのですが、鬱であるにしろ適応障害であるにしろ、なにか病気であることそのものが恥であるかのような印象を受けるのはなぜなのでしょう。
精神疾患の分類でいううつ病とは、主に身体的な疾患でして、薬を飲まないと10mあるくのに、20分もかかったりするようなものを言います。
もちろんディズニーシーなんて行けません。
ですから、一般にいううつ的状態とはちがうわけです。
うつうつとしているという状態はそれ自体は病気ではないし、病名もありません。
もちろんそうなんですけど、鬱病だとして、だいぶ症状が改善されたということなのだと思ったのです。ちなみに適応障害も概ね身体的な症状として現れるのだろうとは思いますけどね。
病名と言うのは、私たちの普段の生活でも公表しないことがよくあります。
例えば、女性が会社を休む時に、正直に「生理痛なので休みます」「子宮筋腫摘出手術のため、1ヶ月休みます」と、直々の上司には言うかもしれませんが、みんなに公表することはないし、その必要の是非も問われてはいないのです。その代わりに、「体調がすぐれないので」と言う事は、公認されていますよね。
「生理痛」も「子宮筋腫」も、別に隠す必要ないんじゃないの?と思う人もいるかもしれませんが、あえて言う必要もない。個人の自由ではないでしょうか。
もちろん、皇室の方がすることはすべて個人の自由だから批難するべきでないとは言いません。ただ、今回の病名に関しては、国民が許容できる範囲だと私は感じます。実際、多くの人は、質問者様のように、それ以上を要求していないと思います。
回答ありがとうございます。おっしゃるところについて特に異議はないのですが、よろしければ少し考えてみていただきたいのですが、おおっぴらに口にしてもいい病名とそうでない病名の境目は何でしょうか。骨折で入院して会社を休むときは、たぶん骨折ってみんなに言いますよね。でも生理痛はあんまりそうとははっきり言わない。その判断の差はどこで生まれるとお考えですか。そして鬱とか適応障害という病気だった場合に、それを「言わない側」に入れてしまうときの私たちの心の中にある根拠は何でしょうか。
私は必ずしも病名を明らかに言わないことに対して単純な不満があるわけではありません。ただ、ようするに「言わないこと」と「偏見」は紙一重な場合も多いのではないか。「配慮」と「蓋をする」ことの区別が曖昧になっているのではないのか。もしくは、知っているのに知らないふりをする、ということが気持ちいい場合と気持ち悪い場合があるだろう、健全な場合と不健全な場合があるだろう。少なくとも報道する人たちがそのことに無自覚に見えるのはよくないのではないか。簡単に言ってしまえばそういうことを疑問として感じているわけです。
皇室への新聞TV等の公式取材の場合、宮内庁からマスコミへ申し入れが色々つくそうですが(過去に写真の取り扱いで申し入れ破りがあったと揉めたことがありました)その一貫ではないでしょうか。
過去に美智子妃も長期療養から神谷美恵子氏(精神医学者)をカウンセラーに置かれたこともありましたが、それは公にされませんでした。神谷氏は、美智子妃が個人的な友人関係から辿ってお願いした方だったそうですが、かなり長い期間、療養後にもついていらしたそうです。私は美智子妃の友人であり、神谷氏の兄上であった人のインタビュー記事で、このことは知りました。
基本的に、宮内庁の皇太子妃のストレスでの病関係のマスコミへの発表方針が「極力小さくはっきりさせないように」というものであるのではないかと推測されます。
http://www.asahi.com/motion/TKY200512080382.html
確かに、質問者さんの疑問も理解できます。
精神病をタブー視する姿勢は、それ自体偏見を含んでいるかもしれませんし、またそれを助長するものかもしれません。
そのことに、無自覚であってはならないというのはとても重要な指摘だと思います。
ただし、他の方も指摘していらっしゃいますが、雅子さまの病名は、特に新聞報道などではたびたび目にしますよね。
これは、かつて精神病についての無知・無理解のはなはだしかった頃であればとても考えられないことではないでしょうか。
もちろん、現在でも不十分な点は多いと思いますが、
それでも、かつてと比べれば精神病についての社会的な理解は
相当に進んできているといっていいと思います。
(そんなときだからこそ、質問者さんのような指摘がうまれたのですよね。)
一点付け加えるとすれば、「適応障害」もあくまで病気ですから、
これを「体調を崩している」と表現することは、
「さっぱり意味が分からない」ということはないように思います。
質問者さんが例としてあげていらっしゃる、「骨折」は、「病気」というよりは「怪我」という印象が強いので、「体調を崩している」という表現にはなじみにくいのですよね。
胃潰瘍を「体調を崩している」と表現するのが許されるように、「適応障害」も、あくまで「体調を崩している」と表現すること自体は許されるように思います。
その上で、現在の報道のされ方が、胃潰瘍の場合と適応障害の場合で、このような言いかえがされるかどうかという点で違いがあるのか、ということが問題になるのですよね。
もし雅子さまの病気が胃潰瘍であったら、「かねてから胃潰瘍で療養中の雅子さまが・・・」とされるか「かねてから体調を崩して療養中の雅子さまが・・・」とされるのか、はよく分かりませんが、ごく短いニュースであれば後者も十分ありうるように思いました。
そして、実際、雅子様についての詳しい報道であれば「適応障害」という病名が使われることがしばしばあるのですから、
やはり、現在の報道のあり方にそれほど問題はないのではないか、と思います。
私の一般生活上の印象で言えば、新聞・TVで、雅子様が「適応障害」という病気であることを、ご主張のように「たびたび目にする」「病名が使われることがしばしばある」ということはないと思います。
どうも誤解なさっているようにも感じるのですが、適応障害を「体調を崩している」と言語的に言い換えることがテクニカルに可能かどうか、というような疑問を申し上げているのではありません。何事かを曖昧に言い換えることの裏側には意図や目的があるわけで、その表に出てこない意図・意思について、あるいはその「表に出てこないこと」そのものについての疑問なのです。
ちょっと失礼します。
心の病の問題を御話されていらっしゃるので、大分堅い話になります。
また、御質問をされて居られる方について、御本人、御家族、御友達等に、心の病を持っていらっしゃる方がいらっしゃる場合、失礼な表現が万一、有りましたら、どうぞ御容赦下さい。
私は大学の一般教養で心理学を取った程度で、専門家と云う訳では有りません。心の問題を扱った学問には興味を持っているので、勝手に勉強を続けています。こんな程度の者で良ろしければ、BBSが詳細な長話に向かない事を御了解頂いた上で、大まかな処を少し御話致します。
少し、と云っても、「はてな」の回答としては、物凄く長いです。
まず、心の病の呼び方が社会に与える影響についてです。
これは社団法人・日本精神科病院協会のWeb頁の「日本の民間精神科病院の歴史」の頁です。
http://www.nisseikyo.or.jp//home/history/rekisi.html
一部抜粋しましょう。
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昭和20年の終戦当時、日本は物資の欠乏、社会秩序の混乱など目を覆う状況で、人々は未来への希望を失い、その日その日を過ごすだけでした。ましてや自ら生きる力を持つことができず、社会的にも蔑視の対象としてしかみられなかった精神障害者たちの処遇や医療問題は放置されているのに等しい状況でした。
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地域によって差は有りますが、大体1960~1970年代頃までは心に問題を抱えた人の内、状態の悪い人達は酷い待遇を受けていました。
心の状態が悪くて一般的に健康な人と大幅に違う行動パターンを取る人は、家に閉じ込められて、時には座敷牢(拘置所の部屋の和風版みたいなものだと思って下さい)に入れられもしました。
体調が悪い事が中心で有る人は、怠け者呼ばわりされ、嘲笑の的にされました。
いずれにしても、ひどい虐待を受けていたのです。
昭和59(1984)年、「宇都宮病院事件」と云うのが発覚しました。
これは、この事件の概要を記したWeb頁です。
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage296.htm
医療機関でさえ、この様に心に病を持った人達に残虐な行為をして平気でした。
そんなこんなで心の病についての偏見は、恐ろしく根強く、頑固で、容赦無く残酷なまま、未だに多くの人々の心に焼き付いています。
年齢に無関係に人をけなす時に使う、「気が狂っている」、「頭がおかしい」等の言葉も、この様な傾向を如実に表す現象の一つですね。
重大事件で例えば、世間の人々が「変わってるなぁ!」と思ったりする内容の、殺人事件等が起こったとします。「通院歴が有る」と云う事が報道されたりもしますよね。「心神耗弱状態」だと罪に問えなかったりする場合が有るからですが、「通院歴が有る」事をさも事件を起こした原因の一部で有るかの様にセンセーショナルに報道したりする場合が有ります。
実際には、直接的な結び付きは少なかったりします。
こんな事が、病名を言い換える必要性の大きな原因の一つとなります。
但し、精神分裂病は病状を正確に表していないと云う理由もあって、「統合失調症」と云う名前になったと云うケースも有ります。
病院の名前もそうです。昔は精神科と言っていたのを、神経科、心療内科、メンタルクリニック、等と変化させています。
次に、医師による診察結果の差が、他の病気に比べて大きい、と云う事についてです。
肉体的な病気でも、見立て違いや知識不足、不真面目等の理由で、誤診が起こったりします。
御指摘の死因についても「肺炎」や「心不全」等が多いのも、死亡の直接原因が肺炎や心不全だからです。病気が進行すると、重い糖尿病で入院していた方が、癌を発症したりするケースが多々有ります。すると、一番身体を痛めつけている病気を、
重い糖尿病の方、
とか、
癌の方、
の様に特定する事が出来なくなる訳です。
そこで、単なるニュースとして報道する場合等には、
TV等では時間の限界、
新聞等では文字数の限界
等の理由で、ニュースのファースト・ソース(情報発信をした本元の処)の発表や、ニュース配信会社の配信内容に沿った言葉を使うのです。
心の病気なら尚更、診断が難しい。
真偽の程は分かりませんが、鬱病を偽って生活保護を騙し取って御気楽極楽生活をしている話等も有りますよね。
近頃、通勤時に御腹がゴロゴロして大変な状況に陥る方が、少し目立って来た、と云う報道を見た事が有ります。この様な方に付けられる病名にも、
「過敏性大腸」、
「過敏性大腸炎」、
「過敏性腸症候群」、
「心因性超症候群」、
「慢性腸炎」、
「心因反応」
等、ちょっと挙げただけでも、色々有ります。
心の病は、非常に複雑なので、詐病(仮病)が簡単に出来たりする一方、診断するのも大変です。
特に欝症状は、心の病の殆どに出て来る、実にポピュラーな症状です。欝症状が酷い場合でも、「鬱病」とは言わずに、出来るだけ、何が原因なのか、と云う事が分かる様な呼び方を病名として言い表す場合が多い様です。
「適応障害」はこんな病気です。
http://www.science-news.net/database/display.php?id=11993
だから、キャリアレディーとしての生活から皇室と云う、私達庶民には伺い知る事の出来ない世界に入った雅子様が、生活や仕事の環境に適応し切れなかった為に、酷く心が疲れてしまった、と云う状態を言い表すのに、
「適応障害」
と云う呼び方をを使うのは、別に変な事では有りません。実に適切な表現です。
他人の心の病の病状の伝聞から、他人の病気の名前を簡単に特定して決め付ける事は不可能です。
また、とても危険な事です。大きな人権侵害となる可能性が大きいからです。
そして、心の病の病名を連呼した場合、心の病を持っておられる方、御本人が一番辛い、と云う御話です。
欝症状が有る場合、欝だの何だのと、あれこれ言うと、心の病の患者さん御本人の病状を悪化させる事が多い様です。静かに見守る、と云うのが基本姿勢です。
皇室でもTVは御覧になるし、新聞も御読みになられています。「体調を崩されている」と報道するのは、報道側の配慮だと理解するのが自然です。
御自分が落ち込んだ時の事を想像してみて下さい。
周りから、
「あ、~~ちゃん、落ち込んでるの?」、
「ふーん、鬱病かも知れないよね~」、
「そうそう欝状態だよー」、
「落ち込んでるんなら、励ましてやんなきゃねー」、
「でも、何で落ち込んでるのー?」、
「欝だって言ってるでしょー!」
なんて感じで、毎日わーわー言われたとしたら……。
皇室報道でも、美智子皇后の事を女性週刊誌が思いっきりバッシングした事が有ります。
これが原因で、美智子皇后は一時、声を失われました。
最後に、
病気の内容は重大な個人情報である、
と云う事を指摘しておきたいと思います。
良心的な医師や病院は、個人情報保護法が出来る遥か以前から、企業等が従業員の病気の内容について問い合わせても、回答を拒否しているのですね。
大体、こんな処です。
ここからは勝手な私見を申し上げますが、雅子様の病状を「鬱病」と言わない事について、
世の偏見を回避する事だけが目的では無いので患者の方々には失礼には当たらない、
寧ろ東宮職医師団の発表内容が雅子様の病状を正確に表現していると考えるのが妥当、
マスコミは雅子様の人権に十分に配慮しようと努力している、
と考えるのが適当な処だと思います。
まずは御話まで。御役に立てれば幸いです。
P.S.
おまけです。
報道でも結構、ちゃんと「適用障害」を使ってるみたいですね。
朝日新聞です。Web頁で報道してる内容は、新聞でも報道しています。
http://websearch.asahi.com/.cgi/websearch/websearch.pl
日本テレビです。ニュースの内容は検索出来ないですが、特集番組ではちゃんと報道している事が出て来ました。
http://ntv.jeevessolutions.jp/ajasp/AJLocal/AJSearch.asp?aj_...
「メディア・リテラシー」、とっても大切です。
精神病の患者さんがこれまで長く社会的にも辛い思いをしてきた経緯は理解できるつもりです。また私は冷たい人間ではないつもりですので、もし自分の知り合いが鬱病や適応障害になったとしても、そのことを誰かに気軽にしゃべったり、了解なく第三者に伝えたり、どこかで話題にしようとはしないだろうと思っています。ですから私は、雅子様が鬱病だったり適応障害だったりしたからといって、別にそれをすぐさままるごと公にするべきだとか、以後病状を詳らかに国民に伝えるべきだとか思っている訳ではありません。
現時点での雅子様のケースが特殊なのは、もともと彼女が公人としての性格が極めて大きい地位にいること(お気の毒だとは思いますが、その気の毒であることの問題はまた別の問題です)、さらに病気となって公務を欠席されるようになってから長期に時間が経過していること、ですかね。2年以上に渡ってニュースが「引き続き体調がすぐれません」としか言わないことの異常さをそろそろまともに見据えた方がいいのではないかということです。
ちなみにニュース等の中で病名をちゃんと用いるのと、本人の前で鬱病を話題にして励ましたりする行為はまったく性格が違う話だと思います。さらに蛇足ですが心不全は現在では死亡診断書には直接死因として記載することが禁止され不可能になっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A9%E5%BF%9C%E9%9A%9C%E5%...
二度目の回答になります。
なぜニュースは病名をぼかして、「体調がすぐれず」としか言わないのか。
おそらくそれは、病名に言及すれば、必ずその原因にも言及して行かざるを得なくなる、
ということからではないかと思われます。
「適応障害」はストレス因子が原因で発生する疾患です。
そしてこのストレス因子は、内的に存在するものではなく、
あくまで外的要因なんですよね。
たしかに個人としてのストレスに対する脆弱性、
という問題はあるでしょう。
しかしそれは、疲れがたまっていたから免疫力が落ちて風邪をひいたという場合に
疲れは単なる二次的な要素で本質はウイルスであるというのと同じように、
ストレスに対する脆弱性は疾患の本質ではありません。
本質は、ストレスを与えた「何か」にあるわけです。
「適応障害」というストレス性疾患の名前を明示してしまえば、
その疾患の概要を説明しないわけにはいかなくなります。
そうしたら、必ず話は「それほどの強いストレスの原因となったものは何か」、
という方向に進んでいくことになるでしょう。
つまり、病気の話から、いずれかに向けた責任論にまで発展してしまう内容を、
「適応障害」という診断名は含んでいる、ということです。
こうしたことに報道機関の公式見解があるなどということはありませんから、
ソースを示して明確にこうだ、と言えるものではありませんが、
私は、そうした配慮を含めて、ここはお体がすぐれない、
と表現しておくにとどめよう、ということになってくるのではないかと、
そう推察しますが、いかがでしょうか。
現状では、むしろその「外部の原因」についてはかなりタブーなくあけすけに議論されていると思いますよ。病名はともかく雅子様が病気になってしまわれたのは外部のストレスが原因だと言うことはほとんど全員の共通の認識であり、その犯人探し、責任の所在の追及は相当に下品とも言える様相まで見受けられます。実態はご推察の構造とはまったく逆だと思いますが、いかがですか?
つまり病気の原因はほぼそういうこととして堂々と議論や報道がなされているのに、実際の病名となると途端に「体調がすぐれない」という極めてあからさまな「知らんぷり」がまかり通っているわけで、これも現在の報道の行われ方がなんだか気持ち悪いと私が感じてしまう要因の一つなのだろうと思います。
コメント読ませていただきました。
<おおっぴらに口にしてもいい病名とそうでない病名の境目は何でしょうか。
結論から言うと、どんな病気でも言わなくてもいいのではないかと思います。そんなときに、体調が悪いという便利な言葉を使えばいいのです。
<骨折で入院して会社を休むときは、たぶん骨折ってみんなに言いますよね。でも生理痛はあんまりそうとははっきり言わない。その判断の差はどこで生まれるとお考えですか。
一つは、風習、一つは、個人の判断だと思います。個人の判断については、みんなの代弁を私がすることはできませんが、私個人の理由としては、
1、相手が聞いて困ることは言わない(なぜ困るか、私もわからないのですが、考え付くこととして、それ以上相手が言うこと、できることがないからでは。例えば骨折なら「どうしたの?」とか、「いつ?」とかその後が続きますが、生理痛や「うつ」の場合、それ以上聞くことがないようです。女性の人情のある人は生理痛について「重いの?」など聞いてくれる人もいますが、男性に言われたことはありません。なぜでしょうね)
2、相手によっては「生理痛ごときで?」と思われるので言わない
3、あまりそこまでプライベートな関係を持ちたくない相手には言わない
4、その症状には個人差があり、そこまで説明したい相手でなければ言わない
5、性別が関係する
といったところです。
骨折なら言うだろう、と思うのは、
1、完治までの経緯が大体わかっている
2、「骨折」がどう大変かという認識がみんなにあるとわかっているので、お互いに知っていた方がなにかと都合がいい(例えば骨折しているから重いものは持てないなど、イメージが万人にとって容易である)
3、性別に関係ない
4、それにまつわる会話の発展が期待できる(「さきに述べた、「どうしたの?」他)
5、通院も必要だったり、より説明が必要になる
<そして鬱とか適応障害という病気だった場合に、それを「言わない側」に入れてしまうときの私たちの心の中にある根拠は何でしょうか。
これらの病気に関しては、あらゆる意味で曖昧な部分が多く、一人一人の症状の差も激しい。そして、治療の仕方も各々違う。周りの配慮が必要だったり、環境を変えなければいけなかったり、自分が変わらなければいけなかったり・・・そして、治るという保証もない。とにかく複雑です。
頭痛に関しても、精神障害に関しても、以上のような認識が多くの人に浸透すればいいのかもしれませんが、正直、治るか治らないかわからない病気ですので、それを理解しようという健常な人は、この弱肉強食の世の中では多くないと思われます。
うつ病、適応障害のような精神病も、また頭痛なんかもそうですが、こうすれば治る、というものがはっきりしていません。また、多くの人は、その病状と偏見に一生付き合っていくことになります。
私自身が患ってわかったこと。それは、うつ体質というのがあるということ。これは、元気な人たちにはどうやら理解できない、その言葉の通り、体質なのです。なので、いくら、元気な人が「こうすればいい」「ああすればいい」と言ったところで、本人には負担になるだけなのです。
それよりも、ただ見守って欲しいものです。
<「言わないこと」と「偏見」は紙一重
私の場合は、偏見がすでにあるから言わない、という構図です。
<「配慮」と「蓋をする」ことの区別が曖昧
これは、主観によることだと思います。本人が「配慮」しているつもりであれば「配慮」、「蓋をする」つもりであれば蓋をしていることになります。なぜなら、行為の内容だけでは判断ができないことだからです。ですから、「配慮」か「蓋をする」かどうか判断したい場合は、行為をする人間に聞くのが最良の方法だと思います。
心の病と発した瞬間から、自分の周りからいつの間にか消えていく人たち。その人たちの持つ偏見を私は批難しません。なぜなら、その人たちのしていることは、彼らにとっては真っ当なことだからです。
そういった病を抱えている人の周りにいたら、健康な人の生活は脅かされます。例えば、親友が「死にたい」と言うがどうしたらいいか、に対するアドバイスは「その人にそれ以上関わらず専門家に任せましょう」というもの。実際に、自分の生活を守るには、周りの人間にできることは見守ることしかないのですよ。
<もしくは、知っているのに知らないふりをする、ということが気持ちいい場合と気持ち悪い場合があるだろう、健全な場合と不健全な場合があるだろう。少なくとも報道する人たちがそのことに無自覚に見えるのはよくないのではないか。簡単に言ってしまえばそういうことを疑問として感じているわけです。
おそらく、無自覚ではないのだと思います。知っているのに知らないふりをすることが、人により、あるいは場合により、気持ちが良かったり悪かったり、健全だったり不健全だったり、それはあるでしょう。でも、人と人の関わりというのは、多かれ少なかれ、そういう部分があるわけです。
質問者様が、個人的に気持ちがよろしくないことが、他の多くの人にとっても気持ちのよくないこととは限りません。
以上の意味で、病名を言わない権利は、是非持っていて欲しいものです。
丁寧な回答ありがとうございます。私も病気とは本来極めて個人的なものであり、病名を言わない権利は誰でにでもあると思っていますし、だからこそ、これまでの回答の繰り返しになりますが、雅子様が適応障害になったからといってすぐにその詳細を公にする必要があると言っている訳ではありません。
しかし誰もが病名を口にしなくなったら医療や治療というものも消えてしまうことになります。病名やその病気の苦しみを共有することでしか事態が前へ進まない、改善しない状況というのも普通によくある話だとは思われませんか。
言うまでもなく今回の話を難しくしているのは、雅子様は個人であり同時に公人であるということです。しかも公人のなかでも極めて公人の性格の強い公人です。そして公人の病気というものは、考え方は色々あるでしょうが、どうしても「公」の側面を持たざるを得ないのでしょう。とはいえ個人でもある存在の罹患している病気についてこと細かく他人が知る必要はない。ただ、そもそもの病名すら新聞・テレビがあたかも「知らないふり」を2年も続けること、そのことの不自然さにすら無自覚である(ように見える)こと、隣のチャンネルが言わないからうちも言わない、というだけの判断、そういったものは優しさでも思慮深さでも権利の尊重でもなんでもないと感じます。これはたとえば、なぜ放送禁止用語を放送中に言わないかといえば、現場では、別に誰かがどのように傷つく可能性があるから、という考えがあってのことではなく、言ったら怒られると聞いたから、というだけの機械的なチェックになってしまっているのと同じ種類の馬鹿らしさを感じます。
http://www.utu-net.com/utur/index.html?ovmkt=6MG3D9HCRA9JGKG...
やはり昔の範疇で言えば「精神病」でしょう。これが「皇室」ですから・・はっきりした
コメントは出来ませんね。仕方がないでしょう・・何せ国税をお使いですから・・
http://constitution.at.infoseek.co.jp/tennou.htm
日本の象徴がうつ病と言う発表が出来ないからです。昭和天皇が亡くなられた時も、実際に公表されたのは数時間後で、なくなられたときですら、「御危篤状態です」と言う報道がされてました。要は報道内容が制限されているといえるでしょう。
回答ありがとうございます。適応障害ですか、しかしそれならそれでいいのですが、いずれにしてもニュース等で病名をはっきりと言葉にしないまま「体調が悪い」みたいな言い方に終始するのはなぜなのでしょう。