「人を殺すことは悪である」という命題は非常に根源的な位置にあるというのは同感ですが、ではなぜ根源的なのかと考えてしまいます。
そういう根源的な物が何なのかを問うているのではないかと感じました。
例えば、もし道徳、宗教、社会通念などの立場が認めるとしたら人を殺すのか? それに対するためらいは何も無いのか。そうで無く、それでもなお人を殺すことをためらわせるものがあるのならば、道徳、宗教、社会通念以外の「何か」があるのではないかということです。
また、「人を殺すことは悪である」というのが本当に根源的なものであるならば、それを行うことを認める倫理はいかにして成立し得ているのかも考える価値があると思います。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いを一般化すると、当為命題の理由を問う物になると思います。それに対し、事実から当為は導けないと説明しても「なぜ」に対する答にはなりません。「当為」とされていることが当為であるのはなぜなのか、もしくは何が当為であるのか、そして何が当為で無いのかという疑問が残るからです。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
これは人の行動の善悪を問う倫理的な問題です。
この種の問題はあるイデオロギーの上に成り立っているものであり、
道徳、宗教、社会通念などの立場からならば説明可能でしょう。
しかし、これらのイデオロギーの上で、「人を殺すことは悪である」という命題は
非常に根源的な位置にあり、例えば「神がそう定められたからだ」などという解答しか
得ることはできません。
このような解答は、イデオロギーの外にいる人間(もしくはイデオロギーを
外から眺めることのできる人間)にとっては、納得のいくものではありません。
したがって、より一般的にみんなが納得できる解答を得るため
この問題をイデオロギーに関係のない純粋な論理で解こうという試みがなされるのです。
しかし、そもそもこの問題はイデオロギーの上に成り立っているのですから
そのイデオロギーを取り去ってしまうということは問題の前提条件を
壊してしまうことになります。
前提条件の崩壊した世界で問題を解決しようとする行為は
公理系の無い世界で何かを証明しようとすることと同じです。
すなわち、それは不可能なのです。
それに気づかずに何か解答を用意したとしても、
その解答には必ず論理的に不備が存在するでしょう。
ある人が解答し、その不備をある人が指摘する。
この繰り返しによってこの種の問題は解決を得られないまま
延々と議論が続けられているのです。
納得のいく解答を永遠に得られないままに。