ルール。
性欲に か ら め な いこと。
「自分自身には理解できないから」という理由の場合、二百文字程度の理由がなければ認めません。
理由の内容は各自考えてください。
変態とは己れの性欲性を否定するような人。変態とは性欲をふつうの性行動とは違った方法で満たそうとする人のことですから、いやそうじゃないんだ、これは性欲とは関係ないんだという人こそ、正真正銘の変態です。常習的なうそつきがおれはうそつきじゃないと言うようなもんです。
定義:
常識を意識的に侵犯することで快楽を摂取する行為、或いはそのような行為を好む人のこと。
理由:
「変態」と指摘される行為やそう指摘される人は、暗に社会から疎外するぞ、という意味を含んでいるからです。社会から除外されるのはなぜかというと、社会を作っている常識というシステムを壊そうとしているからだと考えられます。
一方、人や社会は二面性を持っていて、公には「変態」として非難するような行為を、裏(私的)では積極的に行っています。そこに快楽があるからでしょう。公では特定の行為を社会的に「変態」として抑圧することで、個人として抑圧を破り快感を喚起します。
以上、200文字程度で理由を説明したのでわたしは変態ではありません。
「常識やぶり」とな。
これはきれいにまとまっていると思います。素敵です。
変態を辞書で引いたら「変態性欲」とありましたが。 私自身はもっと広域に「変な態度」と考えています。
例えば、父親の葬儀に相応しくない井出達で途中から現れ焼香を握り締めて位牌に投げつける……なんてのは変態でしょう。
最近は減りましたが、電車内で座り込むのは変態ですし、座席に横になって寝てる人は変態だと思います。
去年のクールビズだって、冷房温度をちゃんと守ってビシっとスーツ決めてた人からみたら変態にしか見えないかった事でしょう。
ただ、何が正しくて何が変なのか。 と言われると正確なボーダーラインは無いと思います。
ヒゲは剃るなり整えるものだとする日本からみればヒゲが伸びていれば伸びているだけ魅力的とされる国は変態ですし
逆に魅力的だと思われる国からしてみれば、わざわざ魅力を減らす国は変態なのでしょう。
「自分を含めた周囲環境から逸脱する態度=変態」でしょうし、当の本人はそう思うのでしょうが
それが周りから納得されるとか、本当にそれが変態かは誰も分からないと思います。
……これは、多人数が正しいかという話になるのでこの話は控えたいと思います。
織田信長は変態ですね。
そうなんです。「何が問題なくて何がOKなのか」の線引きはものすごく曖昧なのです。
一人の人間の価値観でさえも曖昧なのに、統計ちっくにやると余計に曖昧模糊。
己れの性欲性を否定しようとする人
あらわれ1:これは性欲ではないと言い張る
あらわれ2:性欲を性行動ではなく処理しようとする
同じことです。つまりどっちもあんたです。
それは、性欲の否定ではなくて「性欲の定義が違う」ではないでしょうか。
そしてルール違反ではないでしょうか。
私が変態だというならそれで構わないのですが、どこがどのようにリンクして変態だと断定されるのかが書いてないことには。
①(自己を含む「対象」としての)他者の個人的領域と人的権利を著しく侵犯する事で、一定の欲求が満たされると感じる人。
②一定の欲求を満たそうとする時に、(自己を含む「対象」としての)他者の個人的領域と人的権利を侵犯してしまう人。
①は、社会の常識や良識に対して挑戦的態度を取り、人にはあからさまに言えないような非常識かつ非良識的な行為・行動を起こす事によって、満足と充足を得る人です。実際にその行為内容そのものによって満足を得ている場合と、その行為の反道義性に対して痺れている場合(それらが混合されている場合も多くあるので敢えて細分しませんでした)とがありますが、どちらも後天的なものと言えます。
それに対して②は、周囲の環境・社会的通念のあり方とは無関係に、その人個人の内側から湧き出る欲求が、結果的に社会の常識や良識に悖ってしまう場合です。この場合欲求を満たす事は「満足」というよりも「自己実現」の充足をその人にもたらします。根が深い分、悲しいほど重篤です。
①における「行為内容に充足している人」との区別は、欲求の発生の契機(いつからそう欲するようになったか、その欲求に対して自己実現性を感じたかどうか等)を見る事で可能だと思います。
何かこの無駄な長さが私の「変態」に対する関心の度合いを露にしているようでちょっとアレですが、そんなところです。
社会的な常識は変化し続けます。個人の常識はどういった過程で形成されるかですが、社会の必要性を反映して個人的な教育により形成されていきます。そして個々人の欲求により変化し続けます。この個人の意識の変化した部分が社会的な常識より、ある範囲を超えて変化した者を「変態」の第一段階とします。「ある範囲」としたのは評価する個人により範囲が大きく変化するからです。女性の肉体に興味が無い男性は、男性からは変態の扱いですが、一部の女性からは歓迎されることもあります。
さて、この段階から更に変化し続けた個人の意識は、社会的な圧力に晒され続けます。自身の意識と社会の常識の落差は苦しいでしょう。性欲だけではなく、金銭欲や出世欲、どうしても拘りの何かが欲しいと思う物欲。これらの欲望は社会的必要から、個人個人で最小限に抑えることが望ましいと考えられていますが「叶わぬ恋」の例え通りエスカレートして、犯罪的性向を持つに至ります。どうしても欲しい。社会的なルールを破っても、他人に危害を加えても、他人から盗んでも、他人を殺してまでも、自分がどうなるかさえ賭けてみようとします。意思や意欲が大きいほど変化も大きくなります。社会の存在そのものを支えるのは個人個人の欲求です。求めなければ何も生まれません。心のバランスを理性によって支えれば、誰もが抱えるこれらの問題に対処できるでしょう。
周囲の環境とくらべてマイノリティーな考えや行動をすること、他人に理解されたとしてもそれがマイノリティーであれば変態とみなされることも多い。
変態というのは悪いイメージだが、個性的というと良いイメージになる。本質的にはどちらもほとんど同じ
定義:2のcastleさんの考えに一番近いです。
正常、常識と世間で考えられている以外の方法、または対象により、性的快楽を得ること、とします。
理由:ルールに「性欲にからめないこと」とありますが、私の考えでは、定義上それはほとんど不可能ではないかと思います。試みに、和英辞典で「変態」を引いて見ますと、「abnormal」と「perversion」の二つが挙げられていますが、「abnormal」の方は普通、「異常」という訳語が当てられるでしょう。一方、「perversion」の方は、「倒錯、背徳」といった訳語が当てられるようです。さて、ここで「変態」という語義は、後者により近いのではないかと考えます。ですから私の考えでは、単なる「変な態度」は、「異常」ではあるかもしれませんが、「変態」ではありえません。
それでは、正常、常識とは何か。また、なぜ、そこから逸脱した性的快楽は排除されるのか、ということですが、ひとつには西洋キリスト教の「禁欲」の思想が影響していると考えられます。これは、単純に言って(私の力量では単純にしか言えないというのが正直なところなのですが…)、精神と肉体の二元論で、肉欲(とりわけ性的快楽)を貪ることは堕落だ、悪だ、という考えです。これは二元論なので、ここでは肉欲の対概念である神の福音を求める「精神の崇高性」を高めれば高めるほど肉欲は堕落せしめられる、逆に、肉欲が堕落すればするほど精神の崇高性は高められる、というシーソーのような関係が成り立っています。
ですので、「愛」のある「男女」間における「性器同士の結合」のみが「正常、常識」とされ、それ以外が「倒錯、背徳」として排除されたのだと思います。
定義。神にとって自然な性的行為(ノーマル)ではなく、反自然的(アブノーマル)であること。
神に祝福された婚姻以外の方法で性的欲望を満たす行為。それはすべて変態(アブノーマル)です。
あなたの「変態の定義」は
①おかしい行動に性欲がからんでいないと言う人
②性欲をふつうの性行動とは違った方法で満たそうとする人
のどちらなのでしょうか。