私は基本的に小説というものを読みません。
理由は、①表現が回りくどい、②ある程度読んでつまらないと思った作品だと、それまでの時間が無駄に感じる③立ち読みして面白そうなのか全く判断がつかず、買う(借りる)機会がないからです。
例外として、歴史小説・自叙伝・ノンフィクションといった事実に基づくもの(知的好奇心を充たしてくれる)、シドニーシェルダン(表現が簡単、すぐ読める、単純に面白い)は大好きです。
小説が好きな方、嫌いな方はこんな私をどう思いますか?(好きな方は上記①~③の理由についてどう思われますか?)
又、小説を読むことでパーソナリティーに与えるものって何だとおもわれますか?(例えば感情表現が豊になる等)
最後に、「この一冊はお薦め」というのがあれば、是非、ご紹介願います。愚問ですいませんが。
大衆心理の根底に、失敗したり敗北者に対するシンパシーがあるのを思う。。彼らを主人公にすると人生のリアリティに涙をそそり、作品として大衆に受け入れられる。。一寸法師は鬼を退治し、シンデレラは王子様と結ばれる・・そういうことは少なくとも自分自身には起こりえない、そう悟った人間が近代小説のリアリズムに魅かれる。(乃木希典、西郷隆盛、松蔭・・然り。。 (江藤淳より)
客観的判断で世界から展望すれば、明らかに政治的失敗であることでも、そのことに焦点を合わせず、マスコミが人情に訴える身近な焦点で報道をするのは如何なものか。。
歴史小説には歴史資料と違った意義があるとは思うのですが。。?!
江藤 淳 の引用文の断片の趣旨は、お伽噺のハッピー・エンドに満足
していた中世の読者が、近代になって、敗北のリアリティに関心をもち
はじめた、というところでしょうか?
乃木希典(62)殉死、西郷隆盛(49)敗死、吉田松蔭(29)斬死、と
列挙した江藤 淳(66)自死、遺書に「形骸を断ず」。
この人たちは、後世の読者を意識した、生来の演技的人格ですね。
takokuro さんは、日常生活の深刻な問題に直面したら、いつも小説
を読んでるSくんと、歴史に詳しいRくんの、どちらに相談しますか?
マンガばかり読んでるMくんはさておくとして……。
歴史資料は、事物としてそれに親しんだ人が亡くなった後も残されたものから推測するに過ぎない。。
生きてる時でさえ、一人の人物の言動は、正しく的確には判断されえないことが多いのを思う。
しかし、、不思議なことに、、歴史が積み重なると、、その時には見えなかった歴史的事実の意義が浮き上がってくる。。
名相政治家とは、この意味で当時の評価ではなく、やがてその歴史的事実として社会に落ち着き、冷静に見渡すことができた時、意義が明確なるのを思います。。ただ、、真の政治家は、それを見越してるところがあるのを思います。。
文士、思想家はその作品が生きて死ぬ時に一度完結するのに対し、政治家の作品は完結を見ない。。
『公的なもの』に対する情熱、、ある意味、自分の人生のうちでは報われない使命感があるのを思う。。(人間が歴史を主体的に創り上げると言う視点での歴史観、、今はプロセスという意識で歴史に参画することは古い価値を壊し、新しい価値を建設し、未来の為に生きるという姿勢は、、大自然界の法則を時として壊す、人間の文明とも相通じはしないだろうか?死により人は生涯を完結するのに、次々、夫々の個人が自己主張して建設の背中合わせの破壊を続けることは終末論へ通じるのではないか?
【『歴史』はいつも日簡潔性のの為に文学に一歩を譲り続け、同時にそれらを嘲笑し続ける。・・歴史は限りない大海で、人はこの海に身をゆだねて泳ぐところに自由を見出す(小説の意義?)】
又、小説と史実データとは小説の種類にもよるが、小説の意義と、史実の意義とは全く、異にするのではないでしょうか?
そしてご質問のS君、R君、ですが、私はM君含め、皆に相談します。
贔屓の読み・意味が分からないのですが、教えて頂けないでしょうか。
贔屓作家のひとりよがりは、ファンにとっては心地よいのでしょう。
会話形式は、論理的な矛盾を発見しやすい手法だと思います。
つぎのケース・スタディも、とても参考になります。
── 脱獄した正確な日時について白鳥は記憶してなかったが、昭和十
九年八月二十六日、午後九時前後というのは間違いないようだ。ただ
『北海道警察史』の「大暴風雨(の夜を利用して難なく脱走した)」と
いう記述と、白鳥の証言にあった「朝から天気で、星のきれいな夜」と
いう記憶は大きくくい違うので、わたしは当時の天候を網走測候所の
『気象日報原簿』であたってみた。── 斎藤 充功《網走脱獄》
── 小沢 信男《犯罪百話・昭和篇 19880927 ちくま文庫》P271
新劇の台詞がつまらないのは、作者の云いたいことを、わざわざ二人
に分けているだけで、おなじ意見、おなじ文体の応酬だからです。
近代日本文学の低迷は、気の利いた対話が失われたからです。
Yahoo! 辞書(↓)ひい‐き【贔屓・贔負】[名](スル)
《「ひき(贔屓)」の音変化》気に入った人を特に引き立てること。
登場人物同志の会話だけで構成されるということですか?とすると、状況を描写するのはどうするのでしょうかね。個人的にはその方が非常に読み易い気がします。
取調官「その場で、被疑者は、何を見たか」
被疑者「黒い煙が、立ちのぼっているのを見ました」
取調官「そのとき、何時何分ごろであったか?」
被疑者「午前五時すこし前だったと思います」
取調官「その季節なら、まだ日は出ていない。辺りは暗いはずだ」
ここで取調官は、当日の新聞を取りだし、天気図の部分を示した。
被疑者「黒い煙ではなく、白い煙だったかもしれません」
取調官「暗いところで見た煙が、白いか黒いか区別できるのか?」
被疑者「午前五時を過ぎていたかもしれません」
このやりとりでは「暗闇で見えた煙が白いか黒いか」という矛盾を、
読者に考えさせることを目的にしています。
この場合の読者は、いうまでもなく裁判官であり、傍聴席なのです。
ところが、小説の手法では、しばしば作家が先まわりするのです。
「朝まだ暗い中に、彼は灰色の煙が立ちのぼるのを見つけた」おまけに
「あたりを見まわして、彼はニタリと笑った」と書いてしまいます。
つまり、その彼を見たのは、作家だけだったということになります。
ことほどさように(小説の功績を、認めないわけではありませんが)
遼太郎ファンの引用センスには、目に余ることもあるのです。
── 山本権兵衛が「海軍建設者としては世界海軍史上最大の男の一人」
で、「万能者のように自在に物事をなしえたのは」上に「春の野のそよ
風に吹かれているような顔」の「西郷という海軍大臣がひかえていたか
らだ」というような見解は、司馬遼太郎の小説的評言であり、「世の中」
や「世間」まして「世界」「世界史上」に通用するものではありません。
── 《産経抄 ~ コラムニストへの書簡より ~ 19990606 》
供述調書タイプだと、作者が与えてくれる状況設定みたいなものを頭にインプットしなくても済み、非常に読み易い(その場面で会話に聞き耳を立てているようで)ですね(自分の場合)。
きみは、司馬遷ならぬ司馬遼太郎を贔屓にしているようだが、むかし
与太郎も大河ドラマの原作として《国取物語》や《花神》を読んでいる。
ところが、あるとき次の一節に至って、急に興ざめしてしまった。
たぶん《項羽と劉邦》だかで「……と云って、彼はニタリと笑った」
というくだりである。そんな表情を、誰が見たというのか?
このような論理回路に疑問を抱くと、歴史小説は読むに耐えない。
たとえば、ドラクロワの《民衆を率いる自由の女神 1830》も、ごく
最近まで、バスティ-ユ牢獄へ向う図だと思いこんでいた。
ふと、乳房を出しているのはなぜか、と疑問を抱いて虚しくなった。
つまり、寓話や神話は事実に拘束されないが、歴史的事実を寓話的に
語ることはルール違反ではないだろうか。
このような議論は《ロビンソン漂流記》以来のものだそうだ。
ところが、松本清張は具体的な結論をくだしている。将来の文学は、
警察の供述調書のような文体になるだろう、というのだ。
よって“司馬 vs 清張”の対立に、もはや与太郎の軍配はゆるがない。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20051129
── 《五十年の過客 ~ 畏友への返信 ~ 与太郎文庫より》