このところ注目されていた長編コミックがいくつか最終回を迎えて賛否両論あるようですが、基本的に納得や満足行く最終回とはどんなものなんでしょうか。
はまぞうを使って実例を挙げて頂き、自論を展開ください。
いい最終回は記憶に残らなければならないのだと思います。当たり前ですけど大前提です。
印象に残らないと言うことは後になって思い出すことも出来ないってことですから、その時になってこの質問の回答を考えていても候補にすら挙がらないということになりますよね。
で、私は2割くらい疑問が残るような最終回がいいように思います。
その2割が余韻としていつまでも心に残っていてくれるから。
余韻といっても、感動とかではなくてやはり疑問であったほうがより心に残りやすいと思います。
もちろん、ここでいう疑問は不快なものであってはなりません。
以下、とても印象に残っているものです。
ハルマゲドン後の明と了の最後の会話、その後のズームアウト。
子供ながらに立ち読みしてて固まりました。
これでいいの?人間って何?っていうのが2割分ですね。
今更私なんかがあーだこーだ言う必要は無いと思うんですけど、この表紙絵が全てですよね。
燃え尽きるって?死んだの?っていうのが2割分。
#ネタバレになるのであまり具体的には書きませんでしたけど、書いちゃうべきでしたでしょうか?
回答ありがとうございます!
>いい最終回は記憶に残らなければならないのだと思います。
>私は2割くらい疑問が残るような最終回がいいように思います。
>ここでいう疑問は不快なものであってはなりません。
先に一つ質問の意図について書きますが、「納得」「満足」と二つあげたのは、評価に際してツーステップ(もしくはそれ以上)あるのではないかと思っているからです。
tehiさんが挙げて下った「伏線をきちんと解決する」ことは「納得」いくラストの一つの条件だと思います。
そこへ更に「満足」へとステップアップするために、sukeshiさんが挙げてくださった「記憶に残る」ことは大切な条件だと思います。
ここへ更に何度も読み返したい、理解したいといった欲求がわく要素として、sukeshiさんの言われる「2割くらいの疑問」は有効だと思います。
ちなみに「不快な疑問」は私にとって作者の疑問を読者に丸投げしているものなので、
逆に作者がその疑問に対して作中で語りつくした上で「さぁ、君ならどう考えますか」という提示の仕方が好みです。
そういう意味でsukeshiさんが例示くださった2作品は秀逸だと思います。
先に挙げられていた浦沢さんの作品だと「MONSTER」が近いように感じます。
ただ、こうした「投げかけ」で終わる作品では「すっきりしない」という人もいると思うので、そこで評価が分かれるケースもありますね。
その点はちょっと残念に思うことがあります。
「自分はこう思う」といったことで議論が交わされるのはむしろいいなぁと思ったりするんですけどね。
難しいところです。
>ネタバレになるのであまり具体的には書きませんでしたけど、書いちゃうべきでしたでしょうか?
どうでしょ~
私は十分わかりましたが、「?」と思われる方には是非作品を読んでいただくという事でいいのでは(*^。^*)
「パイナップルアーミー」の最終回はかっこいいと思います。
なんせ、第一話が最終回なんですから、、、
むむ、「かっこいい」というのが「納得・満足いくこと」の理由なんですね。
そして「第一話が最終回だから」が更にその理由なんですね。
(そしてこのまま行くと浦沢作品討論会になっちゃいそうですね)
「全てのストーリーは始まりに帰結する」という収束の仕方は確かにカッコイイと思います。
ある意味納得もしますね。
(逆に「今までの話はなんだったんだ」と脱力する人もまぁいそうですが)
長編として張り巡らせた伏線や因縁を紐解く、というのは大前提だと思いますが、それだけでは何か物足りない。
最終回に満足した長編作品といえば「うしおととら」はどうでしょうか。
序盤はずっと、個別のエピソードが次々と巻き起こるタイプの作品でした。その個別の話の出来も良かったのですが、最終回で、そのエピソードで時に敵として、時に仲間として巡り合ってきた人間や妖怪たちが一同に会し、共に強大な敵との最終対決へと向かっていく様は読んでいてゾクゾクきました。
それまでの旅や出会い、誰かを助けたり誰かのために戦ったりしたことが無駄ではなく、全てこの最終回という一点に繋がっていたのだ、という納得感と満足感がありました。
良い長編というのは、部分を見ても全体の流れを見てもそれぞれに面白く、またその両者が相互に関係し、総体として大きな物語となっている作品、なのではないでしょうか。
回答ありがとうございます!
>それだけでは何か物足りない。
そうなんですよね。ただ収束するだけでは「うまいなぁ」で終わってしまう。
そこへ前述いただいた「疑問」などのプラスアルファが必要なのだと思います。
提示していただいた作品は私がブルーになったときのカンフルとしてよく使われていますが、
(特に終わり三巻分)
まさしく「彼ら(君ら)が経験してきた(読んできた)ことに唯一つの無駄などないんだ!」
といった作者の咆哮みたいなものが紙面を通して感じられる作品だと思います。
(だからカンフル)
一見バラバラに見えるピースが、何一つ欠けることなく一つの大きな画を作り上げることができた作品はそれだけで名作の条件になると思いますし、
それがきちんと最終回で描かれた作品は納得・満足いきますね、間違いなく。
ある意味sukeshiさんの挙げてくださった条件と相反する部分もありますが、
(つまり疑問を残さない)
作者の主張(テーマ)が余すことなくさらけ出された作品は(もちろんテーマによりますが)多くの人に支持を受けやすく、議論も作品の内容自体に向かいやすいように思います。
コミックの場合、人造人間キカイダーしかありませんが、TV番組はキカイダーとキカイダー01の2つのシリーズに分けられています。これには幾つかの理由があると思われるのですが、確実に拙いのは主役の登場シーン(キカイダーはギターを鳴らしながら、01はトランペットを吹きながら)をTVは強調し過ぎたものだから、ギターを捨てられなかった。
ところがコミックではプロフェッサー・ギルの下から光明寺博士を救助した際にギターが燃えてしまう。それが原因で良心回路が完全にならないし、そのためにキカイダーは01登場以後も良心回路が不完全なまま戦い続けなければならない。先に作られたために良心回路を持たない01のお目付役も果たさなければなりません。
TVの実写版は01シリーズでもギターを使う必要があるのでその辺は完全にぼかしていますし、良心回路の件はぼやかしてしまったのと、どちらかというとロボット同士の戦闘に重点を置いたので、ハッピーエンドにしてしまった。
コミックは良心回路が壊れたキカイダーの暴走で終わるというむしろ悲劇です。
タイガーマスクもそうです。TVアニメとコミックでは完全にラストシーンが違う。
納得のいく最終回とは、
①作者が最初からラストシーンを意識して創り上げているために、途中の展開との矛盾がない。
②他からの影響を受けない。
の2点だと考えます。
他の方があげられていましたが、デビルマンはコミック版を忠実にTV放映したら色々クレームが入ったのではと考えています。残酷だとかね。だから、戦い方もデビルビームとかデビルカッターなどという超能力が中心ですが、コミックでは遠慮なく力技で首をもぎ取って、血飛沫を飛ばしています。あのラストシーンは特に難しいでしょうね。
仮面ライダーもそうでしたね。血が垂れているのが残酷だというので、そういったシーンがなくなった。ある意味で残念です。
>①作者が最初からラストシーンを意識して創り上げているために、途中の展開との矛盾がない。
確かに「このラストを書くためにこの作品を書いた」と後に作者が言わしめる作品には名作が多いような気がします。
極端な例だと竹宮恵子氏の「風と木の詩」は、連載前に親友に全てのストーリーを電話で話しきったというエピソードを読んだことがあります。
逆に一話読みきりタイプのギャグマンガなどは、ストーリー物のようにテーマを完結することや最終回を想定することよりも、その一回一回のパワーをどれだけ持続させるかということに重点が置かれるように思うので、こういった作品の一番の最終回は「終わらないこと」なのかもしれないと思ったりしています。
(例えばこち亀)
>②他からの影響を受けない。
さて、②についてなのですが、私は他からの影響を受けること自体がいけないのではなく、「どんな」他に「どんな」影響を受けるのが良くないのか、というところが大事なのではないかと考えています。
そしてこれが今回みなさんにお聞きしてみたかったことの一番のミソだったりします。
Baku7770さんが例示してくださった2作品は、
アニメという媒体で公表されたために、作者の意図以外にストーリーや設定にメディア側の都合という意図が入り込んでしまい、結果アニメはコミックと異なったラスト(作品)になってしまった例だと思います。前述のデビルマンや、後述の仮面ライダーなども同じですね。
ただ、ここで論じたいのはその変節してしまったアニメ作品が作られることによって、
コミック側にはどんな影響が生じたのかということだったりします。
(だからコミック限定なんですね)
なので、私の読み方がいけないのかもしれませんが、私にはBaku7770さんがコミック原作のアニメの変節について嘆いておられて、コミック自体を嘆いておられるように感じないので、その点を是非教えていただきたいなぁと思います。
よろしければ再回答可に設定しなおしますので、お聞かせくださいませ。
確かにメディアミックスによってコミック自体が変節してしまう例はあると思うので、
そういった例や、その原因を是非掘り下げてみたいと思っています。
賛否両論の「度胸星」
指導教官の独白がいい。
主人公たちの、栄光のない絶望的な旅立ち。
取り残された読者は、それぞれ独自の物語を綴ってゆく。
出版事情に巧みに対応した作者に拍手。
回答ありがとうございます!
>出版事情に巧みに対応した作者に拍手。
こ、これは!
すいません、勉強不足でまだ未読の作品なんですが、つまり連載打ち切りになっている作品なんですね!?
けれども作者がその打ち切りに対して出した最終回という答えが見事だということでよいでしょうか。
まず探して読んでみたいです。かなり好きな内容ですし。
正直「出版社の事情」というのが、コミック界で最終回が失敗してしまう要因の大きなシェアを占めているのでは、と想像していたので、
それを逆手にとるという発想があることに感動しました。
模範的な回答だと、
・作品として掲げていたテーマに作品らしい結論を出している。
・大筋の伏線は回収しておく。
・ドラマとしてきちんとまとまって、話を語りきる。
といったところです。
きれいに終わったと思う長編。
寄生獣―完全版 (1) (アフタヌーンKCDX (1664))
だけど、個人的にはパッションの趣くままテーマの一貫性やストーリー展開なんてクソくらえでデタラメなまま終わる話も好きだったりして……。
回答ありがとうございます!
模範的な回答として挙げられている中で新しいのは
>作品として掲げていたテーマに作品らしい結論を出している。
>ドラマとしてきちんとまとまって、話を語りきる。
の二点でしょうか。
やはりストーリーとして一本筋が通ったものがあり、その「締め」として最終回が成功していることが大事だといわれているように感じました。
「きれいに終わった」という言葉にもそれを感じます。
挙げていただいた作品のラストは確かに「きれい」という言葉が似合いそうです。
>だけど、個人的にはパッションの趣くままテーマの一貫性やストーリー展開なんてクソくらえでデタラメなまま終わる話も好きだったりして……。
そういう意見も実は待っていたりして(*^。^*)
シリアスストーリーの場合は今までのような条件でいいように思いますが、
ギャグやコメディの長寿作品の最終回が納得いくというのは違った視点でないといけないように思います。
特に笑い重視の作品の場合は、castleさんが挙げられているような「勢い」で突き抜けてしまう最終回も「笑い」という部分で成功していればそれで納得できるように思います。
例えば最終回が一番おもしろかった!とか。
ただ、笑いにしろどんなにくだらないとされるテーマにしても、それが作品のテーマであり、作者の主張であるなら、「作品らしい結論を出している」という点はジャンルを問わないようにも思います。
やっぱり、ドラえもんでしょうっ!!昔から、色々なエンディングが囁かれながらも、最期はやっぱり感動と夢を与えてくれるっ!!
http://hisahisa.net/warai/dora1.htm
色々な最終回が記されていますよ☆
僕の知っているのは、のびたが植物人間で、夢をドラえもんの夢を見ていたって話しですけど☆
ええと、これは作品自体の最終回が…ということではなくて、
いわゆるパロディの最終回がよかったとおっしゃっているように思うのですが…。
ただ、例に挙げられたドラえもんやサザエさんなど、例え実際にはエンドマークを打たれていても、読者が永遠に終わらないことを望むがゆえに、逆に無数の最終回が創造されるという作品は稀少だと思います。
それだけ多くの人に愛されているということですものね。
私は、「寄生獣」
全部出し切ったって感じで終わってくれましたので、「もっと続いて欲しい」というような感情が涌かずにすんなりと受け入れられました。一番いいタイミングのシメ方だと思います。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4063346641/249-2855054-719156...
>一番いいタイミングのシメ方だと思います。
これはよくわかります。
作者の思いを全て受け取った、というところで終わるのは大事ですよね。
また、タイミングという言葉がしっくりきました。
もちろん言い足りない作品も納得・満足できませんが、
蛇足的に続けられてのちの最終回も満足できないことが多いです。
「ここでやめておいたら良かったのに」と思う作品が結構あるのですよね…。
やはり「終わるタイミング」の見極めは大事なように思います。
話は終わっているが、読者に無限の可能性を考えさせる最終回。
一例として。
私は『パーマン』の最終回「バード星への道」が好きなのですが、この話はリメイク時に作者の描き足しが行われています。
元々の話は、バード星(スーパー星)へ留学する代表に1号が選ばれ、旅立つという内容です。何故1号なのかということについて、これも名作といわれている「パーマンはつらいよ」という回で伏線を張っているため、すんなり納得がいきます。
しかし、藤子・F・不二雄はその後描かれた『ドラえもん』で1号の帰りを待つスミレ(3号)を出します。二人の間にいつ深い絆が築かれたのか、読者には分かりませんでした。
そして、『パーマン』がリメイクされた際に発表された「バード星への道」にて、3号が1号にのみ自分の正体を明かすシーンを描き足して、読者の疑問に答えたのです。
これによって、『パーマン』の世界は完結ではなく、先の見えない道が未来に延びた世界になりました。現在でも多くの読者が、1号と3号はその後再会できたのか、思いを巡らしています。
>話は終わっているが、読者に無限の可能性を考えさせる最終回。
なるほど、これは深いですね。
先ほど「ドラえもん」でも思ったことでしたが、こちらは更に一旦ちゃんと作者によってエンドマークを打たれた上で、更に共同幻想が成り立つのですね。
それは確かに一つの理想的な最終回だと思います。
そうして考えていくと、もしかすると究極の最終回は一人一人の想像の中に存在するのかもしれません。
でも、逆に誰もが「これしかない!」と思えるような最終回も究極だと思うのです。
それは不可能なのかなぁ。
納得や満足行く最終回。
初連載からのキャラクターたちの体験、行動、想いが無駄にされることなく意味ある結晶になっているマンガ。
少々間があいてしまいました。
なぜか週末はあまりPCとゆっくり戯れる時間が少ない私です。
もしもお待ち頂いていたらすみません。
<m(__)m>
さて、早速。
>初連載からのキャラクターたちの体験、行動、想いが無駄にされることなく意味ある結晶になっているマンガ。
tetsu23さんのご意見に近いのかなと思ったりしますが、
(私がコメントで挙げた例示と同じ作品を挙げて頂いてますし)
「意味ある結晶」という言葉が気持ちいいです。
ただ、結びの主語が「マンガ」となっていますが、これは最終回と同義ととっていいでしょうか?
どうしてそんなことを聞くかというと、
どれだけ着実に積み上げられたものがあった作品でも、何かの事情で最終回に結実できないことがコミックの世界ではよくあるように感じているからです。
(それで敢えて「最終回」と聞いてみているわけなんですが)
例えば上記の2作品は近年の商業主義的な雑誌ではまず最後まで連載されないだろうなぁと思いますし、
よくぞ連載という形で価値あるラストまで漕ぎ着けたなぁと、作者はもちろんのこと、それを世に送り出した人たちに感謝したいくらいです。
(しかもあの時代に…)
もちろんこれはあくまでよい最終回を創るための「要因」であって、「結果」ではないのですが。
また、これも蛇足ですが、
上記の2作品は独自の世界観が作者の中に構築されていることも大きな要因のように思います。
天使のツラノカワ (5) (ヤングユーコミックス―コーラスシリーズ)
一条ゆかりさんの「天使のツラノカワ」です。マンガの一番良いところは笑いにあります。大笑いして納得して打ち上げというのが理想形でしょう。面白い作品は多いのですが最近では(といっても4年以上前の作品ですが)これが最高でした。脇の甘いタダのドタバタや受け狙いの底の浅い作品が増えた分、キチンと笑わせてくれる作品は最近減ったようです。デッサンぐらいキチンと描けるような作家を連載には使って欲しい。数そろえなくちゃあ商売にならないからな~。
あ、いらっしゃいませ!
前回の質問では色々とディスカッションを楽しませていただきました。
ありがとうございます。
>マンガの一番良いところは笑いにあります。大笑いして納得して打ち上げというのが理想形でしょう
いいですね、miharaseihyouさんのコミックに対するスタンスがよくわかります。
私はコミックにはジャンルによって求めるものがどんどん変わっていくので、
一概に笑いだけを取り上げることはあまりないのですが、
miharaseihyouさんがコミックに求めるものは、読後の爽快感のようなものなのかもしれませんね。
ちなみに笑いにも色々とあると思うのですが、
私は笑いの質によって心地よいしめかたが変わっていくように思います。
結局はテーマありきと考えているのかもしれません。
一条さんの作品は物怖じしない大らかな笑いがテーマにあるように思うので、そこからああしたラストが生まれるのではないかと思うのです。
また、恋愛は普遍的な物が多いですが、
笑いは時代と密着した部分が多いと思うので、最近の作品におもしろさを見出せないというのはそうした影響もあるかもしれませんね。
デッサンというか…絵の良し悪しについてはコメントしづらいですね…。
絵ばかりは本当に人の好みがあると思うので。
旦那などは「目がデカい少女漫画はダメ、怖いから」なんてことを普通に言ってますしね(*^。^*)
(わからないでもない)
私はどちらかというと絵よりも内容重視派です。そしてうまい絵よりも「伝わる絵」が好きですね。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4086170906/250-2801943-131621...
随分と古い作品で恐縮ですが、諸星大二郎の「暗黒神話」です。
これが毎週人気投票してる少年ジャンプで連載してたなんて信じられますか?
10年前に謎の死を遂げた父・8つの聖痕・地下帝国・装飾古墳・邪馬台国と卑弥呼・馬頭星雲・天台の高僧慈空上人・胎蔵界曼荼羅・・・これら一見ばらばらな複線が最後には見事に収束する様は画力の不足を補って余りある名作です。
彼の言葉を引用してみますと「そういった緻密で壮大なジグソーパズルをやってみたかった」(ジャンプ・スーパー・コミックスにあります)そうです。
しかもその冒頭で泣いてる子供が別の作品(孔子暗黒伝)のラスト・シーンに繋がってるなんて・・・
小説でもこれ以上のインパクトのある作品には出会ったことがありません。(←読書量が足りないだけでは?)
nischiura2006さんもいらっしゃいませ!
前回に引き続きありがとうございます。
そして前回お薦めいただいた諸星さんですね。
旦那氏の実家に確かにあるそうなんですが、しまいこみすぎて前回見つけられず、
先に星野さんの方を読んでいます(^_^.)
ただ、少し前に
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4063721450
「猫本」
という猫に関する作品ばかりをあつめた(贅沢な)アンソロジー本で諸星さんに思いがけず遭遇しました。
これがとてもかわいらしい作品だったので、今まで持っていた漠然とした怖い絵のイメージが払拭されて、チャレンジしやすい状況になったので、次回は必ず発掘させたいと思います。
(鬼嫁)
そしてやはり文面から推測するに、
バラバラのピースを一つに収束させる最終回、
次へとつながる最終回はよい、ということでしょうか。
この辺りは独自の世界観を持った作品の王道なのでしょうね。
シャカリキ!―Run for tomorrow! (18) (少年チャンピオン・コミックス)
「シャカリキ!」です。
最終回一歩手前を雑誌で読んでたのですが、
主人公テルが「あるもの」に衝撃を受けたシーンを見て
(もうテルを止めることはできないな・・・)
と最終回を確信しました。
少なくとも第一部完にしないと気持ちがおさまらなかったと思います。
もっとも理想的な最終回です。
お~「シャカリキ!」きましたね~
嬉しいです。
これも「うしおととら」と同じ私のカンフルです。
うまくまとめられないのですが、
これはある意味最終回の一話前で最終回の準備が完了した作品だと思います。
実はこの作品は連載を追いかけたのではなく、完結したものを一気読みしたのですが、
あのテルとユタの死闘の果てにこんな結末が来るとは思いもしなかったので、
読み終わってしばしポカーンとし、徐々に理解したのを覚えています。
でも、連載を追いかけて読んでいたらきっとha0さんと同じように思ったと思います。
ラス1の回と最終回の間の空気があったのだろうなぁと思うと羨ましいくらいです。
そして私も言葉どおり、テル以外のキャラクターと一緒にテルの選択を「納得」した最終回でした。
正直もっと先も描けた作品に違いないですが、
やはりあそこで終えたことは正しいと思います。
そういう意味で最終回直前の回も最終回の一部なのかもしれませんね。
先日はお世話になりました。
自分の質問終了させたので遠征に来ました(へへへ)
私の好きなのは「ひとつの終わりとひとつの始まり」を感じさせる作品です。どのような容であれ、心にしみる終わり方であること。そして、そこから物語世界の無限の未来を予兆させる広がりを感じさせられること。
典型的な例は佐藤史生「夢みる惑星」
あのラストはいくつか検討された選択肢の一つだったのかそれとも最初から想定されていたのか・・・・未だにわかんないよぉ。
次にこれは長編ではない厚さですが内容的に十分に長編の風格を持つ士郎正宗「攻殻機動隊」
「攻殻機動隊2」はサブストーリーのひとつのありようでしょうか。
いらっしゃいませ!
私もlove-and-peaceさんの質問で楽しませていただきました。
普遍を語るのは難しいですが、それを寄せ合う作業は楽しいです。
>「ひとつの終わりとひとつの始まり」を感じさせる作品です。
>どのような内容であれ、心にしみる終わり方であること。
>そこから物語世界の無限の未来を予兆させる広がりを感じさせられること。
ばっちりまとめていただいて嬉しいです。
これはlove-and-peaceさんが独自の世界観を持った作品を特に好まれることに起因しているように思います。
といって実はギャグマンガでもスポコンでも上記を満たす作品もあるのですが、
(直前に上がっている「シャカリキ!」は典型だと思います)
挙げられた作品から推測して、ということです。
しかし「夢見る惑星」…多分高校生くらいに読んだのが最後ですね。
読み返さないと。
最初に読んだのが小学生だったのでちんぷんかんぷんだったんですよね。
高校くらいでようやくわかったので一旦卒業したのだったと思います。
ところで突然ですが佐々木淳子さんの「ショート・ツイスト」という中篇をご存知でしょうか。
空間が螺旋を描き、何度も同じストーリーをめぐる世界という設定なのですが、
このスパイラルが実は意識の数だけあり、
その螺旋のねじれの部分が一つのストーリーのはじまりであり、終わりだとすると、
love-and-peaceさんが挙げてくださったような作品には、作品に触れた意識の数だけスパイラルがあるというイメージを持ってみました。
つまりねじれの部分が最終回であり、初回であるということになりますね。
それが同じ初回であったのが「パイナップルARMY」とすることもできるかな。
(つまりめぐる)
うう…ストーリーの無限の可能性みたいなものを表現してみたかったんですが…。
失敗かな。すいません。
#a5で回答した者です。質問の意図が理解できていなかったことで、2度目の回答になってしまいました。
一度目の回答は、同一作品のコミック版とアニメ版とでエンディングの違う作品を取り上げることで、何故エンディングが稚拙なものになるのかということを論じようとしたものです。ご指摘
>コミック原作のアニメの変節について嘆いておられて、コミック自体を嘆いておられるように感じない
のような内容を意図したものではありません。
今回はタッチのエンディングを取り上げてみます。内容は既に読まれていると思いますので、ネタバレに近い内容になってしまいます。好きな作品でありながらエンディングが一番嫌いな作品でもあります。
読者の中で、あの終わり方はないんじゃないのと言いたい方は少なくないと思っています。ただ、結果だけが判って、途中どういう投球したの?志半ばで死んでいった弟和也にどんな報告したの?南とはどんな喜び方したの?読者が聞きたいことはたくさんあります。
これは、読者の期待が大きく成りすぎて作者がエンディングを描けなくなっちゃったんだろうと推測しています。連載当時も読んでいましたが記憶が正しければ、最終回の予告がなかったように記憶しています。他にも直前で甲子園に向かう途中の新幹線でアイドル歌手が寝過ごしたのをわざわざ送り届けるなんて読者の反発を招きかねないエピソードを挿入しています。他の作品を見てもああいった終わり方はしていませんし、ちゃんとフォローされています。
外部からの声には3種類あると考えます。
一つは本当のファンの期待が高まって、そのプレッシャーに作者が応えられなくなってしまう。今まで論じてきたタッチがそうですし、古くはコナン・ドイルがシャーロック・ホームズを一度殺してまでいます。(最後の事件)
2番目は、一度目の回答で論じた規制によるものです。例えば「残酷」だ。行政の方針にそぐわない。他の象徴的な事件をあげればウルトラセブンの12話というのもあります。
3番目は原作者以外の人間の思いこみだと考えています。例えば、雑誌編集者。TVのディレクター。場合によってはファンかもしれません。読者層の違いを意識してというのもあるかもしれません。
例えば、前回も取り上げた巨人の星のアニメ版は大リーグボール3号の投げ過ぎで肘を壊した飛雄馬をおんぶして球場を去る一徹のシーンで終わっていますが、コミックにはその続きがあります。
あのシーンはスポ魂という点で価値のあるシーンです。完全試合それもここまでの父親との葛藤に勝った象徴なんですね。あの試合は。それと引き替えに飛雄馬は選手生命を失った。その重さが、ライバルであり、親友である男の祝宴に出席することを許さない。しかも、相手は大リーグボール3号の生みの親でもあるわけですから。
そのシーンを主に青年層を対象としたコミックであれば読者にもわかりますが、少年層であれば理解できないだろうという観点からアニメ版では抜かれてしまいました。
この点でタッチもアニメ版は最悪のエンディングにしてしまいました。朝倉南は達也に対して和也が生きている間からはっきりと恋愛感情を抱いて表現していましたが、達也はそうじゃなかった。南に対して恋愛感情を抱きながら、和也に対して遠慮していたんですね。唯一はっきりとした感情を示したのが、和也と南の二人が貰ったノートを押しつけられた時ぐらいですか。ファーストキスの相手となった時も、「忘れる」とまで言っている。
ところがディレクタだと思いますが、やはりコミックを読んで満足できなかったんでしょうね。で、変なところだけ色気を出してあのラストシーンにしてしまった。
あれなら原作の方がまだましです。
再回答ありがとうございます。
質問者の意図を酌んで下さったようで嬉しいです。
>一度目の回答は、同一作品のコミック版とアニメ版とでエンディングの違う作品を取り上げることで、何故エンディングが稚拙なものになるのかということを論じようとしたものです
なるほど!やはり私がちゃんとBaku7770さんの意図を読みきれていなかったんですね。申し訳ないです。
これは多分私がキカイダーやタイガーマスクの最終回は「あれでいい」と思っているからですね。(このことについて旦那と小議論したくらい。)
キカイダーは良心回路だけならば正義の味方でいられたけれどあくまで「機械」だったキカイダーが、服従回路も組み込んだことによって人間に近づいたが、結果狂ってしまったというラストだと考えていて、二つの回路の意味について随分考えさせられました。
タイガーマスクはその正体を子どもたちから隠し通すために、瀕死になりながらも側溝にマスクを捨てるというラストですが、これも正義と偽善について随分考えさせられました。
また、アニメ版との相違の一番の原因は、この時代まだアニメは「子どものもの」であり、逆に劇画は「大人も読むもの」だったからではないかと思っています。
と、前回のことについてはこの辺にして。
今回は「外部の声」=「影響」について具体的に挙げて頂けて嬉しいです。
>一つは本当のファンの期待が高まって、そのプレッシャーに作者が応えられなくなってしまう。
ありますね!
私は某週刊誌の「ここで終わっとけばよかったのに」という作品がダラダラ続いてしまうのも「人気があるが故」なので、根っこの一つのような気がします。
タッチの最終回は確かに物足りないというイメージですね。
Baku7770さんの推測通りプレッシャーのため、誰もが納得いくラストを描くことを拒否して読者に丸投げしてしまったのか、あえてああいった形にしたのか、また他の理由からか。その時の心情などを作者がどこかで明かしていないものかと思ったりします。
事実和也のお葬式をしたりしてましたものね…ファンの期待はすごかったのだと思います。(キャラクターのお葬式の代表は力石だと思いますが)
ホームズの例えはものすごくよくわかります。
ホームズの熱狂は作品のラストだけでなく、作者本人の人生もかきかえましたからね…。
熱狂的なファンは作品の第一の味方であり、最大の敵にも成りうるということですね。読み手の一人として心得たいところです。
>2番目は、一度目の回答で論じた規制によるものです
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A...
ウルトラセブン12話封印についてご存じない方は↑のウィキペディアの記述をご参照の程。
ところでBaku7770さんこれもアニメじゃないですか!(*^_^*)
(もしかして次回アニメ限定で同じ質問した方がいいかな)
しかもこの話は最終回じゃないですよね…。
でも社会的な道徳によってコミックが規制された例は確かにありますね。
コミックではやはり手塚さんの「ブラック・ジャック」の差別表記問題や、永井さんの「ハレンチ学園」のPTA問題を最初に思い浮かべます。ただ、これで最終回が変わってしまったということはなかったように思います。
なので規制によって最終回が変わってしまった、差し替えられてしまった…といったケースは実際にはあるのでしょうか…。
作品自体が連載できなくなったというケースはありそうですが、私は実例が挙げられません。ご存知の方いらっしゃったら教えてください<m(__)m>
>3番目は原作者以外の人間の思いこみだと考えています。
ふふふ…やはりBaku7770さんはアニメについて語りたいのかもという気がしてきました…。
そして、最初の方に書きましたが、あの時代のコミックとアニメの相違の原因の一つをBaku7770さんも読者・視聴者層の相違だと感じてらっしゃるんですよね。
でも私はそれはそれでいいと思います。
これは極論になってしまうかもしれませんし、今回論ずるべきところではないとも思うんですが、私は製作当初から意図的にメディアミックスされているものでない限り、基本、別媒体でつくられる作品は原作とは別作品として楽しむものだと思っているからなんですね。
アニメとコミック・小説、ドラマとコミック・小説、映画とコミック・小説などなど。
媒体が違えば表現方法もターゲットも異なるのは当然ではないかと。
そこを踏まえて尚他の影響を考えると、私はやはり現在編集者の力というものは大きいように思います。
ソースを提示することはできませんが、手塚さんなどの時代とは違い近年は雑誌そのものや、編集者が作品を左右している例が多いのではないでしょうか。
連載物のプロット作成時、ストーリーがすでに幾通りか用意され、読者の反応如何でどちらに行くか決めるといったロープレ的な構造になっていたり、編集者の意見が作品に多く反映されていたり。
そういう意味では「作家」が作品をつくっているというより、若手ほど編集者との共同制作といった方がいいのかもしれません。その二人三脚が乱れれば作品も乱れるでしょうし、かみ合えば化けると。そしてそうやって若手は自分の基盤を作っていくというシステムですね。
その方法でおもしろい質の安定した作品も多く生まれていると思うので、一概に良し悪しを論じられませんが、読み手の求めが高度かつ細分化された現在では、商業的な価値を守りながら一本筋の通った作品を連載で終えるというのは、想像以上に困難なことで、そのために生まれたシステムではないかと思っています。
このシステム自体はコミックの電子化でまた変わって行くような気もしていますが。
あう、まとまってないなぁ。申し訳ないです。これが精一杯ということで。
さて今回はこの辺でお開きとさせて頂きますね。
この質問をしてみて、
今私が読者としてできるのは、いろんな影響があったとしても、できるだけ良い方に出ることを祈ることと、自分が良いと思う作品はちゃんとそれだけの代価を払って読むようにすることくらいかなと、今回の質問を終えてみてしみじみ思いました。
これをご覧になった方が少しでも楽しんで頂ければ幸い。
また、終了後なにかありましたらコメントまで。
では参加頂いたみなさんありがとうございました!
回答ありがとうございます!
>はった伏線をちゃんと解決してくれる漫画です。
同感です。
例示もわかりやすくて嬉しいです。私の思うものの一つにも近いです。
そもそもこの質問をしようと思ったきっかけの作品が早速出てきたのも嬉しいです。
(実はもう一作品あるんだけど出てくるかな)
特に作品中に謎がちりばめられたものほど伏線の処理は気になりますよね。
うまく収束したものは「うまいな~」と感心することしきりですが、確かに逆の場合しこりが残りますよね。
それが読者の想像を促しているならそれはそれで手法かとも思うんですが、
単に尻切れとんぼだとコミックの場合「時間がなかったのかな」とか、「枚数制限あったのかな」といった作者の力量以外の原因を勘ぐったしてしまうんですよね。
小説だとそういった縛りは連載小説くらいで、どちらかというと完結しないというケースの方が多いのでそういった勘ぐりはあまりしないのですが。
そういった意味でも今回はコミックに限定してみました。