小さい頃から友人や知人の幸せを心から祝福することが出来ません。
表面的には「よかったね」と言うのですが、本当はそう思っていない自分がいるのです。
かといって、失敗すればいいとか不幸になればいいとは思っていないです。共に喜ぶことが出来ないのです。
どうすれば、肉親以外の幸せを共感し、わが身のように喜ぶことができるのでしょうか?
このような正直すぎる告白をする、その素直さが好きですね・・・
素朴で正直、これ以上のものは無いじゃありませんか。
わが身に直接関係のないことに、共感する必要はないじゃない?
いちいち感動して共感していたら忙しくてたまりません!
そのうち、本当に感動できることが起きる、絶対起きる。
だから大丈夫ですよ。
ちなみに美しいものにも感動しない人ではありませんよね(笑)
そんな人は、このような質問もしないと思いますけどね・・・
対策としては、共感とか感動してフリしてみたら?
人を安心させることも、大人のエチケットですから。
私も、元同級生とか近所の人とか、ちょっとした知り合いだったら、良かったですねー(^^)とは言いますけど、我がことのように一緒に喜ぶなんてことはそうそうないです。
我がことのように喜べる相手って、家族とか、それに近いくらいの親友とかに限られるのではないでしょうか?
そんなに深い付き合いのない人に感情移入するのって難しいと思います。
小説を読んで感動しても、あらすじを読んでは泣けないように、相手の苦労とか、努力してきたこととか、それまでのいろんな経験を共有して知っているからこそ、それが報われたことを一緒に喜び合えるように思います。
そこまでの深いお付き合いって、人にもよりますが、人生の中でそう多くない気がします。
逆に言うと、この人のしあわせを一緒に喜び合いたいと思う人がいたら、その人とのお付き合いを大切にして、いろいろな負の感情も共有していけば、しあわせが訪れたときに我がことのように喜び合うことができるのではないかと思います。
漠然とした答えですみません。
私もあなたと同じ性格です。自分はなんて冷淡な人間だろうと思ったこともありました。
でも、だんだんとそんな自分を受け入れられるようになってきました。世の中には、表面的には心の底から「よかったね」と言っているように見せかけて、陰でその人の悪口を平気で言っているような人もいます。そんな人より、自分の方がよっぽどまともな人間だと。
逆に言うと、他人の幸せを心の底から共感して喜べる人って、純粋すぎて危険な面もあると思うのです。
自分の生まれ持った性格を変えるというのは、とても難しいし、悩んでもしんどいだけです。
あるがままの自分を受け入れればいいと思います。
あなたはごく普通の、正直な気持ちを持った、とてもいい人だと思いますよ。
あなたが男性か女性かによってまた全然違う話にもなるのでしょうから何なんですけれども、一つ言えることはあると思います。無理して喜ぼうと努力しようとする、喜ぶべきだから喜ばねばならない、喜ばないなんておかしすぎる、と思うお気持ちはご尤もですし、素晴らしいことです。しかし、ここで敢えてこのようなネバ論を振り回す必要はありません。
まずは、その友人とのベーシックな関係があって、その次に、感動がある、ということがそもそも基本かなと思いますので。
その感情は決してネバではなく、単に理屈抜きに嬉しいということになりますし、どちらかと言えば「気づいたときには既に喜び終わっていた」というようなものかもしれません。やはり、友人のことを自分のことのように捉えているからですね。そもそものベースとして、まず関係がある、次に、その関係の結果としての喜びがあります。
とは言っても、友人関係もやはり出会いには違いありませんから、人生の中でいつもそのような出会いがあるとは当然限りません。例えばあなたはこれからそういう出会いがあるヒトなのかもしれませんね。
焦らずに、マイペースがなによりです。
http://shigoto.nikki.ne.jp/bbs/200307011427280096/
とても正直な方ですね。
人間の汚い部分に、向き合っている気がします。
他人の幸せを自分の幸せのように思えない人なんて山ほどいると思います。
そもそもst004jさんが思っているほど、他の人がそれをできているわけではないと思いますよ。
例えばリアクションの大きな人はそう見えても、実際は表面だけだったりするものです。
他人の芝生は青く見えるじゃないけれど、他人の幸せを自分の幸せお思うのは、容易なことではないと思います。
だって、自分は自分、他人はあくまで他人ですから。
しかし、肉親のことなら喜べるということならば、他人との「距離」が問題なのかもしれませんね。
もっと仲良くなったら幸せと感じれるかもしれません。
親友と呼べる友のことならば幸せと感じられるかもしれません。
一歩踏み込んで距離を縮めてみるのもいいかもしれませんね。
少し話がそれてしまいましたが、たいした知り合いでもない人の幸せを自分の幸せと感じるのは限りなく難しいです。性格ですからね。
それでも、ワールドカップで日本が勝ったりしたら、
自分が幸せになるのは、なんででしょうね。笑。
それはまた、愛国心とか、そういうものなのかもしれませんね。
>失敗すればいいとか不幸になればいいとは思っていないです
他人の不幸は蜜の味という言葉がありますが、
st004jさんは、そうではないようですね。
それならば深く悩む必要はないと思いますよ。
>>大きな悩みもなく、そこそこ幸せなのですが
>>失敗すればいいとか不幸になればいいとは思っていないです
この文面にあなたの性格が表現されているかも。多くの方が多少の悩みを持ち、多少の不幸せ感を感じて生きています。誰もが人が失敗すればいいとか不幸になればいいとか、心の中に思ってしまう時も時にはあるはずです。それが無いと自己診断しているあなたは、自分は良い人でありたい。人に良い人だと思われたい。と無意識に思い。良い人を演じているのではないですか?あなたは、肉親の幸せを共感出来ていますか?本当はそれも演じているのかもしれませんよ。
自分を演じたりしないで、言い訳せずストレートな心を持てば良いと思います。
人は多かれ少なかれあなたと同じように感じているものです。
それを考えない人が圧倒的に多い。
ただそれだけのことです。
相手の状況をできる限り理解し、自分の中にその相手を住まわせることができたとき、喜びを共感することもできるでしょう。
人の精神というのはとても複雑で高度な情報処理の過程です。
ですので人によってその働きは様々です。
感動しやすい人、しにくい人。
優しい人、冷たい人。
幸せを感じやすい人、感じにくい人。
ある事を幸せに感じる人、感じない人。
同じ話、もの事を目の当たりにしても、その反応は千差万別であって当然です。
質問の内容からして、失礼ながら質問者様の精神はまだ発達段階であり、知能が発達してる割に感情が未発達な方によくみられる現象です。
あまりあわてることなく、いろんなものを見聞きし、いろんな人たちと交流しているうちに、いろんな感情が芽生えてくるのを待てばいいと思います。
そのうち、今度は逆に、人の言う事にいちいち感動してしまって困る、なんてことになるかもしれませんよ。
これはおそらく、他人と喜びを共有した経験が少ない、
ということなんだろうと思います。
「他人の事をわが事のように喜ぶ」という感情は、
たいてい「他人と一緒に何かをやりとげた喜びの共有」、
といった経験が土台になって現れてくる感情だと思うんですよね。
「一緒」の喜びを何度も体験していくから、
その延長として、自分には直接関係のない他人の喜びも、
自分の喜びとして感じられるようになってくるわけです。
学生なら学園祭とか、社会人なら何かの地域活動とか、
そういうのを何度か経験していくといいと思います。
そういう活動の中には、皆で一つの思いを分かち合う、
喜びや感動の共有というシーンが満載です。
そんな経験の積み重ねが、他人の成功や幸せを
わが事のように感じる感受性を育てていくのではないかと思います。
特に気にする必要はないと思いますが,そのことを気にすることが出来るということは素敵なことだと思います.
私は周囲の人間が幸せになってほしいと思っています.なぜなら,自分が幸福感を感じるには,周りの人間も幸せそうであることが必要だからです.
すごく神経質なのか、嫉妬心があるからではないでしょうか。
他人と比べてもキリがないので、
他人を励ますときは励ます、自分がガンバルときは頑張るで、
いいんじゃないのでしょうか。
多分、無意識にどっかしら嫉妬心があると思うので、
他人と自分を比べるのを止めてみてはいかがでしょうか。
私も先に関係性ありきだと思いますよー?単なる知人、友人なら、心の底から共に喜べなくても、相手の不幸を願ったり、妬んだりしていないなら、それだけで十分だと思います。
また、すごく仲の良い友人であっても、その「幸せな出来事の状況」にもよるのではないでしょうか?私事になりますが、学生時代の友人Aの結婚は素直に喜べませんでした。通常「結婚報告」というものは、喜ぶべきものだとは思いますが・・・結婚に至る経緯にて起こった問題を私が知っていたため不可能でした。詳細は申し上げられませんが、結婚しても引き続き問題が続発したり、苦労したりしそうで、大切な友人であっただけに共に喜ぶ前に心配が先立ってしまったからです。なので、質問者さまが心配性な場合には、そういった理由も考えられるのでは?
無理はしなくても良いと思います。心の底からの共感というのは、お互いに共鳴しなくては無理ですから。「共感出来ない」というのと「相手を貶める」のとは全く違いますし。
それでも、どうしても、とおっしゃるなら、まず波長の合う相手を見つけるところからではないでしょうか?恋人でも友人でも、価値観を共有出来て、心をさらけ出せる相手。あるがままの自分を互いに受け入れ合える同士なら、きっと共感できると思いますよ。
その場に酔う的な(その場を楽しむ的な)感じにならないと、色々考えてしまいますねー。自分が満たされてないと心から本当によかったねーなんて、言えない気もします。やはり羨ましかったり悔しかったりすると思うから・・・。
親友の幸せも心から祝福できないのでしょうか?
肉親以外の幸せを共感するためには肉親に近い距離感を持たないとわが身のように喜ぶことは出来ないと思います。
祝福するにも相手によってその度合が違ってくるように知人全て心から祝福なんて出来ません。付き合いの距離や時間も関係してくると思いますし自分の環境でも変わってくるとも思います。
例えば自分が結婚をしていて、とても幸せな状態の時、今度私も結婚するよって友達から聞かされたら素直に喜べ共感出来ると思いますし。その逆に離婚寸前の時にそのような幸せな話を聞いても全然よかったねーなんて心から言えないと思ういます。
基本的に私は喜怒哀楽の表現が苦手なのですが、その場に酔う(その場を楽しみ方を知っている)方は心から祝福出来ているように思える気がします。
私も概ねあなたと同じように感じます。ただ、他の方も書いている通り、友人や知人の幸せを心から祝福するというのは余程のことがない限りない気がします。本当に親しい友人・知人で尚且つその幸せの出来事が自分にとって利害関係が全くない場合にしか、起こり得ない気がします。
でも人間関係を今よりもう少し深くしてみると、もう少し一緒に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。
質問の内容を見る限り、st004jさんは肉親の朗報であれば一緒に喜べる人のように見えますが、その前提で書いてみますね。
肉親の朗報が嬉しいのは、「血がつながっている」からではなく、実際に近い距離にいるせいで心も近くなっているからだと思います。
そして、一度近くなった心はそう簡単には離れないですから、今は遠い位置に住んでいても、肉親の朗報は嬉しいものなのではないかと。
心が近ければ、その分共鳴しやすいですから、心の近い人の感動は共有できる(ことが多い)ものです。
そういう意味では、ただの友人・知人レベルでは、同じことを達成でもしない限りは感動は共有できないものだと思いますよ。
逆に、親友(心の距離が近い)が、涙を流して歓喜している(心の動きが大きい)状態であれば、きっとst004jさんも感動を共有できると思います。
普通、知人や友人レベルであれば、口先だけで祝福する(それでも十分な祝福なんですよ?)だけですが、親友の大きな感動であれば、きっと心から一緒に喜べると思います。
特に、その人が「喜ぶ」過程でどれだけ苦労したかを見てきたり、それをともにできるとなお良いと思います。
ただ、祝福って言うのは「態度」が大事なものなので、なにか良いことが人にあったとき、「おめでとう」「良かったね」と言ってあげられさえすれば、それで良いと思います。
そのままでいいんですよ。
誰もが、自分大好きです。
自分の幸せ以上に誰かの幸せを喜ぶというのは容易ではありません。
誰かを憎むわけではないのなら、いいのです。
他人の幸せを妬んでいるわけでは無いというだけで、既にあなたは、ステキな心の持ち主ですよ
この問題は男でも女でも関係ないと思います。
ちなみに私は男で、全く私といっしょです。
これははっきりいって治らないと思います。
それはなぜと私はよく思いました。
それは自分が本当にそこそこ幸せといっているが
幸せでいるのでしょうか?
もうひとつききたいのは人の言葉を
さかなでにとりませんか?
<今日はかえるよ。>とただいった言葉が自分には
遊んでてもつまんないからかえるといったととらえたり
(結構勉強できるじゃん)といわれたら
自分より頭いいからバカにしてるとか・・・・
もしそうとらえてしまうのであれば、
ほかの人といっしょに喜びをわかちあえる人ではないです
上記のことが違っていたら本当すみません。
これはある意味、病気だと思います。
何もかも悪くとってしまう傾向
どうしても、自分が本当に幸せになっていないのではないのでしょうか?
自分が本当に幸せならそこから、
ほかの人の幸せも喜べてくるのではないでしょうか?
自分が幸せであると思っていても、
実は、そうではなく、その他の方がよりよく見えてしまっているんではないですか?
私はそうでした。
今もほとんどなおってません。
でもなんとなく、そう自分で思えました。
身近な方にでさえ、なにかとむかついたりすることもあります。
本当に自分を大切にしてくれている方が、
そういう気持をわかってくれる方であれば、
おのずと道は開けるような気が私にはします。
まずは自分を好きになること
これが大事ではないでしょうか?
自分が好きではなくて、相手の幸せを喜べないと思います。
あくまで私の同じ病気みたいなものでしたので
いわせていただきました。
何か自分に闇のようなものが感じますが、
自分がこうしたいから直したいという
簡単なものではないと思います。
このことは私は、中学時代くらいから
おもえてきました。
10年以上たった今でも全くかわりませんが
さきほども書いたように、
自分を好きではないからと私は思います。
お互い頑張りましょう^-^
本当人の幸せを喜べない自分が嫌いなんです。
難しいっすよね。!!!
こんばんは。「そこそこ幸せ」とはどのような幸せの事を言っているの?私は、普通に幸せかなぁ~?何事もなく家と会社の往復。飲みにも誘われず。で、会社の中で働いてお金貰って・・・。だからときどき「自分自身は幸せなのかな?」って思っちゃう。
他人の幸せは、例えどんな嫌なやつでも「良かった!」って心から思っちゃうですよねぇ。なんか不思議とね。性分なんでしょうかねぇ。朝、信号で青でスムーズに駅まで行けたり、エレベータが、丁度、きていたりしたら直ぐに「らっきー!やったね!」と思ってしまう。
だけど、お友達は少ないし(会社の中にはちょっぴりいるけどといっても、ランチ行く程度)知り合いはめちゃくちゃいます。(この私の考え方もどうかと思うけどね)でも、心の持ちようだと思うのですが・・・。どうだろう。
私が、単純なんですね。(笑)
答えになってるかなぁ、それも疑問ですが、「心の持ちよう」だと思う。[By:あいだみつお]なーんちって。
コメント(1件)
他人の不幸を願うわけではありませんが、やはり自分の幸せ以上のことには嫉妬を感じていたんだと思います。
(ちっとも羨ましくないことに「いいな~羨ましい」とも言いますが)
人と距離をおいて接するので、ますます共感することができなかったのでしょうね。
冷たい淋しい人間と思われたく(なりたく)なかったんです。
でもそれは、あたりまえのことなんだと自分を受け入れて、感情に捉われないことなんだと思いました。
社交辞令って嫌いでしたが、見方を変えると便利なものなんですね。