この問題の個人レベルでの判断を集合して、社会的な規模にまで拡大した時に、更にそれを国の単位で見た時に面白いものが見えてきそうな気がしたが・・
未だに整理できないでいるが時間切れだ。
今日書いた僕のブログの書き出しです。
http://d.hatena.ne.jp/glucklich/20060720
題材を整理する知恵をお貸しください。
日本人には難しいテーマでしょう。まとめられる方が不思議です。
愛のファミリー -- キネマ旬報DB/ Walkerplus.com
学生時代にバイトで、「愛のファミリー」という映画に絡みましたが、アメリカでこの映画が何故話題となったかを聞くと、
「(養子になった)黒人と白人の子供が一緒に風呂に入っているのが信じられない」
という理由なんですね。日本人には銭湯というものもありますから、そういった感覚は無い。むしろ、障害のある子供が将来自立できるようにと、足の悪い子供が一人で階段を上りきって、それを称えて黒人の子供が抱きついたシーンに感動して涙する。アメリカ人にしてみれば抱き合うことも異常だそうです。
大沢親分も張本さんもあのシーンを見て遠慮なく喝を入れていましたが、現時点の報道を見る限り海外はジダンに好意的ですよね。母親が相手の局部を切り取って料理して食ってやると言っても海外はそれ程悪くは言わない。
これを日本人がやったらどうなるか。まずそこら辺を調べるというか、そういった感覚を身に付けてください。
まず前提として、ジダンが吐き掛けられた言葉の内容についてですが、私は日本が負けた後ほとんどサッカー見てないのですけれども、ただ「お姉さんに関する極めて差別的な発言」だったとニュースで見たように思います。ですので、これを前提として回答します。
もう一つ前提として、昨今日本はともかく特にアメリカなどでは、大リーグ選手、アメリカンフットボール選手などの著名なスポーツ選手については、子供の見本たる姿あるべしと、そういう認識が広まり、プロスポーツはじめ民衆に影響力のあるスポーツについてもこのあたりが話題になることも多いかと。私はですが、これはこれで大変評価に値することであるという認識です。ましてワールドカップともなると…。
さて、そこで社会に関してですが、
①そもそも社会とは、何のためにあるのか?
社会とはトラフィック&ルールであるという説。もう一つには、社会とは人間のためにあるという説。この2説を例に取ります。
②社会とはトラフィック&ルール
社会というのは、経済活動を筆頭として、自動車の運転や、ボランティア活動、社会への予備軍としての学生、そして、もっと年齢の幼い義務教育の教育現場、警察が担当するような刑事事件の世界などなど、多岐膨大なものですが、これは無謀に大雑把な言い方をすればですが、多数の人間が経済活動やその他活動としての行動をする際に、膨大なトラフィックが生まれますが、ここにルールや規範を設ける、という視点です。そうなると、少し警察が担当する刑事事件の世界は当てはまりませんが、ここはそれはそれで良いかなと思います。無謀に大雑把な話が続きますが、ジダンの頭突きという行為は、そういう意味において、社会規範に逆行する行為な訳です。よって処罰対象なのか、或いは、彼を英雄視することは問題ありやなきや、と。
③社会とは人間のためにある
上の説は、社会を社会行動の側面のみグローバルに捉えた話ですが、今度はもっと大きなくくりで見てみると、社会とは、地球上のあらゆる家庭を基盤として、その上に乗っかっている存在です。
家にはおばあちゃんやおじいさん、子供がいて、お母さんがいて、そして社会で働くお父さんがいますし、これが家庭なのですが、これは物理的な存在ですね。例えば、地図を見れば、都市経済区が中央にあり、そして周辺は巨大なベッドタウンです。さらにその外は農村地帯が広がります。いかに、社会というものが家庭という基盤の上に乗っかった存在か、が有る意味ではですが、無謀な論述ではありますが、証明されている訳です。物理数として。すなわち、無謀な理論ですが、社会とは、家庭を維持するため、個々の人間全員が生きる為、個々の人間を幸せにする為に存在し、そのための社会ルール・規範でなければならない、という事にもなります。
例えば、蟻。我々は、蟻の巣を語る時に、「蟻の社会では、○○なのです」という語り方をします。しかし蟻に本当に人権意識があるものなのでしょうか。あるかもしれませんが、人間の社会が蟻の社会と同様の社会規範で良い訳はありません。
例えば、太古・古墳時代。王族が死んだときに、王族の墳墓を工事し、なんらかの儀礼的な価値観から、王族の墳墓の周辺に多数の穴を掘り、生贄として、若い人を多数打ち殺して一緒に生めるとしましょう。こういう社会だった訳ですが、これも「社会」です。こういう社会で良い筈はありません。
つまり、社会が、個々の人間全員のために良い、とは、必ずしも限らない訳ですね。
ちなみに現代社会のルールとして最も分かり易いのが法律ですが、法律というものには谷間や抜け穴というものがあります。常に多数あります。これは例えば、社会として、Aという利益を守ることは最低限必要、そして、同時に、Aに対抗するBという利益を守ることも最低限必要、そんな場合などなどなどにしばしば発生しますが、通常、この相反する利害がぶつかる部分を、包括的に規定する法律では明確に、快刀乱麻には、断ち切って解決は出来ない為に、こういうものが発生するのだと思うのですが、こういう例は非常に多くあると考えます。ですので、法律のように、膨大な数に昇るものだって、全く万能などではないと考えます。
極めて大雑把で無謀な論ですが、要するに、社会、人間、社会ルール・規範、ですね。社会ルールというものはいつの時代も不完全さを無くすことは出来ないし、そして、社会とは個々の人間のためにある、というものです。
④人間のためにあるルール。人間とは何か。
人間とは、無謀な論を振り回して言うならば、敢えて言えば、哺乳類の動物です。ですので、社会のために死ね、と命令されると、社会のためには死にたくない、と考えますし、それで当然です。例えば、社会ルールに従って、お前とお前の家族は飢え死にしろ、王様は肉やメロンを食うのだ、と言われれば、反乱します。それで当然なのですね。これは分かり易くするための極論ですが、社会とは個々の人間のためにある、という側面についての本質であろうか、と考えます。
⑤結論
不測の事件、不測に発生した紛争、これらを考えるときに、社会規範・社会ルールで割り切れないことなどは日常茶飯事ではないでしょうか。そういう動的なものがそもそも社会であろうと考えます。そういう不測の事件、不測に発生した紛争、こういうものを処断する際には、必ず、上の対抗するふたつの社会観において、その調和と、その個々の社会観に対する理解とを、備えて、処断・解決に当たらねばなりません。でなければ、片手落ちということでは、社会という大きくて膨大なエネルギーを秘めたものの、たずなを取ることは、歴史上出来ていないからなのですね。
つまり、上に挙げた無謀な例ですが、人間が本質的に怒ること、怒らねばならないこと、こういうことに対しては、それに相応しい見方をせねばならない、ということは、常にあるのですよ。
⑥ジダンについて
私はジダンの頭突き事件の内容を良く知りません。上に挙げた話は社会とはという話であって、ジダンの一件ではないのですが、ただ、上に挙げた部分において、結局ジダンについてどう処理するのが妥当であるのか、というような雰囲気が全般にあるように思えます(少し情報不足なのでなんなんですが)。
ですので、こういう点について、ジダンの怒りを、感情に任せた
反社会的行為なのか、それとも、人間として正しい行為だがやや問題があった程度なのか、を判断することで、或いは、ご質問の解を導くことが出来るのかもしれませんね。
乱文お許しください。
そうなのですね。おかげで、ご意見に触発されて一部まとまりかけています。
家庭も国家も所属する個人の生命や財産を守る機能があるのですね。仕来りや慣わし礼儀や作法、長幼の序、先祖伝来の行事や掟、家訓や先祖からの話、それらを守り伝えて次世代に躾をする仕組みだった。それらは自由を束縛する事にもなるが目的は混乱することなく争議や紛争を起こさないため、家庭人が幸せに暮らせる為の機能だった。
その機能は家父長制によって家長が采配して家人を守る責任と義務を全うするよう努めた。これらの営みが長い歴史の中で培われる間にも、多くの間違いや争いから事故や事件がおきて、その都度試行錯誤して、みんなが知恵を出して色んな決まりごとが出来ていったのでしょうね。
これらの社会的な掟や規範は地域が離れるほど違ったものになる。宗教でも民族でも違ってくる。明治になり海外に門戸を開く事になってこれらの社会規範を調整する必要に迫られた。その結果、これらの民事に関する法律を主にフランスとドイツを参考にして急遽作成したらしい。
ついでながら、この時に変わったのは医療制度、学校制度、兵役制度、宗教、税制、地方自治、貨幣と金融制度など、ほぼ全ての社会制度の改定が短期間で行われた。
これらの制度は明治から半世紀ほどは十分に機能したのだろう。以降はすでに機能不全を起こしていたのだろうが、そのまま第二次世界大戦に突入してまい破綻する。戦後もその古びた機能を騙しだましマイナーチェンジしつつ今日まできたのだろう。しかし、いよいよニッチモサッチモ行かなくなったのが現在なのかもしれない。
金融制度が医療制度が、学校制度が地方自治が、変わり始めている。少子化も晩婚化も離婚率の上昇も因果関係を単純な関係線では結べない。いろんな事が複合して訳が分からなくなっている。そしてこれは日本だけの問題でなく欧米で起きている先進国共通の悩みかもしれないですね。
glucklichさんが求めるアドバイスをとはズレていると思いますが、わずかでも考えの助けになれば幸いです。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/headlines/20060721...
http://sports.livedoor.com/article/detail-3641409.html
http://sports.livedoor.com/article/detail-3639978.html
この問題の扱い方は、以下の4つに分けられると思います。
FIFAがジダンにサスペンションを与えたのは、単に試合中に暴力行為を行ったからです。規則にのっとった罰則と言えるでしょう。しかし、マテラッツィにもサスペンションを与えたのは、これは4を意識しているからとしか思えません。また、3も当然意識しているでしょう。
ジダンを非難する側(≠マテ擁護)は、2や3を問題視しているように思います。W杯の決勝を汚した、あるいは英雄であるジダンの引退試合にケチがついたことに、半ば失望しているのではないでしょうか。
マテラッツィを擁護する側(主にイタリア人?)は、まずこのような行為がサッカーではありふれていることを強調しています。事実、口汚い挑発やそれに対する報復などはサッカーでは日常茶飯事です。
マテラッツィに限らずイタリアはダーティな戦いを好み、相手の精神をすり減らすような試合運びをすると聞きます。普段のジダンなら聞き流すような言葉でも、長い試合の中で苛立っていたからこそ聞き流せなかったのかもしれません。
そして、ジダンを擁護しマテラッツィを非難する側(主にフランス人?)は、1と4を重視していると思われます。イタリアの精神性として「何をしても勝てば許される」といったところがあり、そのあたりもフランス人の癪に障るのでしょう。「家族への冒涜はいくらなんでも許されない」ということですね。
ただ、イタリア人も決して家族愛の乏しい民族ではない。むしろ、大切な人のためなら命を懸ける民族です。マテラッツィ自身も「自分は幼いときに母親を亡くしたので、ジダンの母親の悪口だけは言っていない」(という言葉が嘘かもしれませんが)と発言しています。
「マテラッツィが口にしたのはイタリア語ではありふれた言葉だ」というような話も聞かれます。もちろん私にはイタリア語の知識は無いのですが、イタリア人が日常的に使用する言葉が、フランス側で非常に重く捉えられてしまった可能性もあります。
個人的な意見ですが、今回の事件は規律に厳しいフランス人と手段を選ばないイタリア人の対立なのではないかと思います。それがW杯というレンズを通して拡大されているだけではないでしょうか。
ありがとうございます。ジダンの頭突きをきっかけに当世の家族とか家庭のありようを考えて見たのですが、ジダンの問題はやはりサッカーの世界での出来事に留めて置いた方が良いようです。ひょっとしたら若者にはすでにそのような意識が実感としてないのかもしれない・・・
そうですね。ありがとうございます。日本に置き換えてみることも大切ですね。考えて見ます。
昔の日本人の場合、個人よりも所属する社会や国家を優先したのでしょうか、それは現代でも同じでしょうね。
きっと、ジダンもそうだったのかもしれませんね。彼の意識では所属する国がフランスではなかったのかも・・