7巻の106ページ、一度目の後藤との戦いのあと
ミギーとシンイチの会話に
「けど・・・あんなすごいヤツがいたなんてなぁ・・・」
「すばらしい・・・」
「え?」
「何でもない」
というのがあります。
ミギーの「すばらしい」は何に対しての「すばらしい」なのでしょうか。
自分という「種」にあれだけの興味と自己認識への希求を強く持っていたミギーのことですから、自分という生物種が持っていた「種としての可能性」をある種の究極まで突き詰めた「後藤」という存在、その達成、それと同時に自らも等しく持っているポテンシャルとしての可能性に対する感嘆、賛美だと思って受け取っていました。
懐かしいですね。寄生獣。
今手元に本があるわけではありませんが、
僕もその点に関しては妙な違和感を持ってました。
まずミギーは人間ではありません。寄生獣です。
運悪く(?)シンイチの右手だけに寄生していると言う形になったわけですが、
ミギーも元々人間の脳に寄生し、完全体としての寄生獣になりたかったはず。
自分たちが目指していた寄生獣としての目標を
さらに超えた後藤の寄生形態を見て、自然と「すばらしい」と
発してしまったのではないでしょうか。
国語の問題になってしまいますが、考えられるのは
「作られた寄生生物『後藤』の完成度、もしくは能力に対する単純な賞賛」
というところだと思います。
深読みすれば、
「不完全な寄生生物である『ミギー』の『後藤』への憧れ、嫉妬」
とも読めそうです。
「なんでもない」と新一に誤魔化しているので、新一の悪印象を買いそうな『賞賛』の方がそれらしいと思いますが。「寄生生物は冷えた心を持つ」と設定からも、『憧れ』というのは少し難しいと思えます。
「あんなすごいヤツ」に対しての「すばらしい」ということだろうと思うのですが、
どこが「すごい」かと言うと、普通は一頭の寄生獣が人間の「脳」に寄生するわけです。
しかしそうした場合、「脳」以外の部分は生身の人間のままなわけですから、
この、ノーマルタイプの寄生獣と戦う場合、そこが弱点になる、というのは、
新一・ミギーコンビのこれまでの戦いを見れば明らかです。
しかるに、後藤(五頭)は、寄生獣五頭を使って人間の全身に寄生したばかりか、
それら五頭すべてが一頭の人格(獣格?)により統御されているといった、
言わば「完全体」、スーパーサイヤ人みたいなもので、一見弱点はないかに見えます。
それが「すごい」のです。
以下、蛇足です。
ミギーは、人間の脳に寄生するという寄生獣本来の姿になることに失敗し、
右手に寄生してしまいますが、そのことにより、「人類を食い殺す」
という寄生獣本来の本能を欠いてしまっています。
このことが却ってミギーに、「知性」とも言うべき、
自身のアイデンティティーを巡る問題の提起を促し、
自分とは何なのだろう、世界とは何なのだろう、人類とは何なのだろうと、
常に、寄生獣の側と、人間の側の間に引き裂かれた状態を引き起こしています。
だから、もちろんこの「すばらしい」は、五頭(後藤)もの寄生獣が、
一人の人間に寄生していることに対する感嘆を、
寄生獣の立場から漏らした言葉であると思われますが、同時に、
そのあとすぐ「何でもない」と、今度はおそらくは人間の立場から打ち消しています。
後藤(達?)の環境への適応能力に対しての賛辞ではないかと。
自分の種族があのように、ひとつの個体に何体も合体して生存し、なおかつ強さを増している事への驚き。
ミギーは元々は、人間を食い尽くすためにやってきた種族で、感情や仲間意識が希薄で、生き残る事が何よりも大事だと考えています。
生存のために順応している彼らを見て「自分の種族の素晴らしさ」に感嘆したのではないでしょうか?
その余りの素晴らしさに思わず漏れた台詞としてとても自然だと思いました。
ついでですが、シンイチに問い返されて「何でもない」と答えたのは
人間であるシンイチにそれを言えば、少なからず怒りと動揺を買ってしまうことが想像できたため、その時点では、まだ後藤に吸収されるべきなのか、シンイチの右手として残るべきなのか判断がついていないので、先を考えて言葉を濁したのだろうと…。
生物の持つ可能性を目の当たりにして素晴らしいと感じたのでしょう。
脳を乗っ取り損ねた失敗作として自覚しているミギーなので、寄生生物同士の移植はアイデアとして考えていたはずです。(それらしい描写も見られます)想像していたアイデアが現実となって目の前に現れたので、生存戦略としてはともかく、最強の生物として実現された後藤に知的興奮として感嘆したのだと思います。
「自分も脳を乗っ取った寄生生物に移動できるかも」という感想はあまり持たなかったんじゃないかと思います。ミギーは脳の操り方がわからないといってます。なにより、知的好奇心に貪欲な性格からして、知的な感動に浸っていたと考えるほうがミギーらしい感じがします。
ありがとうございます。
皆さんが返答をくれたように後藤の完成度や生物的能力に対しての「すばらしい」、
もしくは能力的には劣っていながらも三木や後藤と何とか戦うことができたミギー+シンイチに対する自画自賛、
を候補として私は考えていました。
>想像していたアイデアが現実となって目の前に現れたので
(シンイチに依存することなく生きたい。)
このミギーの願望の理想形を超えた後藤を見て、「自分にも完全な自由が手に入るかもしれない」と考えることは自然なことではないかと感じた回答でした。
(回答者の結論とは反対ですが・・・)
第58話の戦いでミギーがシンイチから離れて後藤と戦おうとした別の理由(後藤の3番目の頭となる可能性を試したい)。
第62話で毒をきっかけとした叛乱のとき、シンイチに戻ってきた理由(頭となることができなかった挫折と、支配されることへの鬱憤、「この種を食い殺せ」への居心地の悪さ)
個人的にはこの二つの理由と「すばらしい」とをつなげることができました。
5番目の回答の
>後藤に吸収されるべきなのか
からも同じ考えが浮かびました(順番的には先でしたが)。
たくさんの回答が寄せられて良かったです。
個人的には
後藤(三木)を見て考えた頭になることができるかもしれないミギー自身への可能性に対する「すばらしい」だと結論を出すことができました。
新しい結論があればまだまだご返答ください。
自分という「種」にあれだけの興味と自己認識への希求を強く持っていたミギーのことですから、自分という生物種が持っていた「種としての可能性」をある種の究極まで突き詰めた「後藤」という存在、その達成、それと同時に自らも等しく持っているポテンシャルとしての可能性に対する感嘆、賛美だと思って受け取っていました。
ありがとうございます。
上に記したように、同じ結論ですね。
自らの可能性への「すばらしい」。
好奇心旺盛なミギーとして描かれていましたが、
一方で(心の奥底では)独立心も旺盛だったのかもしれません。
ありがとうございます。
上に記したように、同じ結論ですね。
自らの可能性への「すばらしい」。
好奇心旺盛なミギーとして描かれていましたが、
一方で(心の奥底では)独立心も旺盛だったのかもしれません。