地元びいき等のさまざまな理由で、観客みんなが疑惑に思う中、判定で勝ち、
チャンピオンになったとします。
そのへんの事情をすべて承知していた芸能人Zが、
「Xは近い将来、必ずチャンピオンにふさわしいほど強くなるから」
とテレビで弁護したとします。
仮に芸能人Zの予測は正しかったと仮定して、それでもなお、
芸能人Zの言うことは、厳密には弁護になっていないと思います。
ですが心情的には、それなりに弁護になっているとも思うのです。
それが僕にはとても不思議でした。
で、みなさんにお願いしたいのは、なぜ芸能人Zの発言が、
それなりに弁護になっている(という錯覚を生む)のか、
説明いただけないでしょうか、というものです。
余力があれば、あなたの説明が、
発言したのがZではなく、XやYが発言していたとしたらどうなるか、
についても考えていただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
こういう、なんか納得いくようでいかないというのは、どこか分かりにくい堂堂巡りが生じているときが多いのではないかと思います。以下に考えたことを書いてみますが、支離滅裂でしたらすみません。
・チャンピョンである・あったということは、とても特別かつ名誉なことで、人が人生の内で一度でもその地位を持ったかもっていないかでは雲泥の差がある。この視点では、名誉への回数、期間の貢献度は補足的なものにすぎない。だが、たとえば八百長試合のようなものを経て得たチャンピョンという地位ならば、名誉にならず、逆に不名誉にすらなりうる。
・人にはポテンシャルがあるが、つねにポテンシャルが最大に発揮されるわけではなく、さまざまな条件によって発揮具合、現実に発現するパフォーマンスは変化する
・上と重複するが、仮にポテンシャルが最高の人間であっても、チャンピョンになれるとは限らない。勝負は時の運という要素がある。それにもかかわらず、スポーツは表面的には結果がすべてで、結果が実力だ、という視点で行われる。
・ポテンシャルの高い人は、チャンピョンという地位を獲得するチャンスが確率的に高い。試合の機会が多ければ多いほど、1度でもチャンピョンになれる確立はさらに増える。Xは今後も多くの試合をしうる。
・Zは少なくとも一般の人より、Xや、ボクシングについて知っている自負があり、マスコミ、一般の人もそのようなものとして受け入れている。また、XやY本人ではないので、ポテンシャルについてはX、Y自身より客観的に判断できると思われる。その上で、ZはXのポテンシャルを他のボクサーと比較し、高く評価し、また、株価予測のように、「こののび具合だと、今後は」と言うように、Xのパフォーマンスのさらなる向上を予測している。
・Xを応援していた人々にとっては、Xのポテンシャルは高く、名誉に値するはずだと思い、信じていたのが、裏切られた。Xに裏切られたと感じるだけでなく、制度や、チャンピョンという地位そのものに裏切られたと感じた。
勝手に以下のように定義します。
a.ポテンシャル(将来的な潜在力)
b.実力(現在発揮できる力、現状のコンディション、体調など不確定さを要素とする)
c.パフォーマンス(試合で実際に力を発揮している状況、環境など不確定さを要素とする)
d.結果(勝敗、これが不確定であってはまずい)
c.d.は観測可能
a.b.はc.d.を基に推測するしかない概念
試合で、不確定さの影響が小さければ、ほぼb=c=dと判断
選手を応援する人にとっては、究極的にはa=b=c=d 、「ポテンシャルが実力であり、パフォーマンスであり、結果であってほしい」つまり「自分のすべての可能性(a)を最大限に出し切って(a=b)、いい試合をし(a=b=c)、勝って欲しい(a=b=c=d)」
試合前 Xの実力がYを上回っているはず
試合中 Xの実力はYを下回っていた
結果 Xの実力がYを下回っていたにもかかわらず、Xが勝った(d>b=c)
dがc=bと一致しない理不尽だ!
Xを応援していた人には、Xさんの見解は以下のように聞こえる(?)
Zさん「Xのaはとても高い。a=bでないのですよ!すごく離れている(a>b)んです、a=b=c=dを理想とするなら、d-cや、d-bの大きさよりも、b-aの大きさのほうが大きいのですから、こっちの方が本質的に理不尽で問題なんですよ!でも、今回勝ったということは、考えてみれば、a=dなんですから、基本的になーんにも問題ないんですよ、本質的な理想に近い状態なんです、よかったですね!」
ここでB美さんならどう語るか、考えてみました。
B美「aやbってさあ、cやdから予想することしか出来ないんだから、aが予め分かってるように語るのはおかしいわよね。トートロジーとか、進化論の適者生存、弱肉強食のパラドクスみたい(強いと生き残る。じゃあ強いって何?生き残ること)。でもまあ、Zさんに、すごく洞察力があって、Xさんのポテンシャルを見抜くことができると信じるなら、信じられる度合いも増すのかもね。でもこれも、ZさんがXさんのポテンシャルを見抜けるかどうかを各自見抜かなければならないわけで、下手をしたら自分でXさんのポテンシャルを見抜くより難しいことよね。だからふつうは、Zさんへの好意とか、人間としての信頼みたいなものに預けてるのよね。結果的には、Xや、試合の公正さやもろもろへの不信感を、Zさんの信頼感で補償しているようなものね。だから、Zさんが、ボクシングのことも、Xのこともよく知らなかったり、人として信頼できない場合はだめね)
なぜ芸能人Zの発言が、それなりに弁護になっている(という錯覚を生む)のか?:同情じゃないでしょうか。
発言したのがXの場合:「話になりません、いい加減にして下さい」とXに言いたいです。
発言したのがYの場合:Y自身がもしそう言うのでは、「八百長したということか?」とYに聞き返したいところです。
cnasneinurewn様、ありがとうございました。
X、Yが誰か容易に想像できてしまうのですが、あえてXYZで回答します。
まず、Zの発言を弁護ととるか否かですが、一概には言えません。これは発言したZの口調とZの発言聞いた相手(自分)の心情によって意味が異なって感じるためです。
「Xは近い将来、必ずチャンピオンにふさわしいほど強くなるから」と言う発言は
A 「今は資格がない」
B 「いずれ資格を満たすのだからおおめにみてよ」
という2通りの意味が含まれます。
Zの発言がXに対して好意的な場合は弁護として感じやすく、否定的な場合は弁護していないと感じやすくなります。これに自分の心情が加味されるとより複雑になります。
あとは、文章のつなぎ方による考え方もできます。
今は資格がないがいずれ満たす → 弁護
いずれ資格を満たすが今は資格なし → 弁護ではない
今回、lionfanさんが両方の意味に感じると思われたのは、前説明の発言者と自分の気持ちにより弁護でないと受け取ったが、文章を冷静に判断すると弁護していると感じたのジレンマによるものではないでしょうか?
また、この言葉をXが言った場合は、自らの力不足をみとめたうえで将来に期待してくれという意味になると思われ、潔いと感じます。
Yが言った場合は、反対に将来、チャンピオンにある力はあるかもしれないが現時点では自分の方が力が上であり判定に不服であると言う意味になると思います。
tamagonokimi様、ありがとうございます。
おそらく芸能人ZはXに好意的で、弁護したものと受け止めておりますが、
正直、芸能人Zや自分自身が好意的かどうかは、あまり問題にしておりません。
僕の感覚では、芸能人Zは
A 「今は資格がない」
B 「いずれ資格を満たすのだからおおめにみてよ」
のどちらも言っていると思います。
興味があったのは、仮にそれである程度の弁明になるのだとしたら、
「チャンピオン」という地位に関して、どんな心理モデルを持っていれば成立しうるだろう、ということでした。
たとえば「試合終了直後の時刻tの時点で最強の者をチャンピオンと呼ぶ」という心理モデルだと、弁明になっていないと思います。
ですがたとえば、「試合終了から数ヶ月間(次の試合まで)、最強である時間がいちばん最長である者こそチャンピオンと呼ばれるにふさわしい」という心理モデルだったら、Zの弁明は弁明として成り立つかも、とか思ったのです。
●弁護になっている(という錯覚を生む)のか。
nano327様、ありがとうございます。非常に深く考えた答えだと思います。
>「将来に向けて努力して欲しいが、Xは現状はチャンピオンにふさわしくなく弱い」
という言い換えをしてみる、というのは鮮やかだと思います。
論理的には同等なのですが、たしかに弁護しているという感が一気に失せますね。
X、Yが発言したときについて聞きたかったのは、彼にZの発言が100%、論理的だったら、言う人によって正しい/正しくないが変わるはずがないと思ったからです。2+2=4は、誰が言ったから正しい、というものではないのと同じです。
質問の要領が、理解できません。
なお、回答者の解放がされず、未読状態のため探ることも叶いません。
弁護ということばですが、正当性、正しさという判断材料となるか、どうかという質問かと思われます。
弁護する必要が、あるかといえば、なにも専門家でないわけですから、聞く必要はないと思います。
弁護そのものには、ならないと思います。
強くなるという表現には、従来の歩み方よりもプレッシャーがあるときことではないか。
当然高い地位といわれる、それだけでも自分で自分にプレッシャーをかけるでしょう。 (・・・・X ラージエックス)
そのプレッシャーを、先輩格である者(相手)が自覚するものではないだろうか。 (・・・・Y ラージワイ)
次に正当か、どうか、ですが・・・それは、タイトルの継続とこれからの戦績に評価されるのではないでしょうか。
imagaichiban様、質問が要領を得ないものですみません。
おおざっぱにいって、感情にかかわる(ズルしたとか負けたのに開き直ってるとか)観点にはほとんど興味はありません。
ただ芸能人Zの言った言葉を、ある程度は理解でき、ある程度は何かおかしいと感じた自分自身に違和感を感じたのです。
これは「反発」とかではなく(「反発」とかだったら話自体はすっきりしています)、もっと微妙なものです。
もしかしたら、ある条件の下では立派な弁明になっており、
ただその条件がはっきり明示されていないために違和感を感じてしまったのかも、
その条件を明らかにすれば違和感は解消されるかも、とおもったのです。
たとえば、「チャンピオン」という概念が一般とはかなり異なるとか、
暗黙の内に非常に特殊な条件を設定しており、
それは一般の感覚では受け入れがたいからダメだとか、
正直、自分にはそれ以上はわからなかったのですが、
もし誰か賢い方が、そこらへんを整理してくれるならばありがたいと思って質問しました。
世間のたいていの言説は、賛成にしろ反対にしろたいして深く考えようとは思わないのですが、
まれにですが妙にひっかかるケースがあって、今回の発言は、そのケースだったのでした。
Zの発言について私は心情的も全く弁護になっていないと思います。明らかにXがYよりも劣っていたというのであれば、まったく理解に苦しむ発言です。
ただ先日の亀田の試合に関していうならば、マスコミを含めて亀田がチャンピオンになることを望んでいたことが、いろいろな思いを交錯させたと思います。親子のドラマやあの強烈な個性をもって亀田を祭り上げたいという心理があったと思います。従って皆が疑問に持ちながらも、一部は変な(理屈になっていない)弁護に回ってしまったと考えられますね。
いまは亀田戦についてはまったく考えなくてOKです。
ただ、それにしても、ある程度は弁明になっているような気がして、そんな自分が不思議ではありました。
「私はボクサーXに同情している。どんな試合内容であれ、Xに勝たせるのが正しい」とか言っていたのであれば、説明としてすっきりとはしています。
ただ、芸能人Zの説明は、反発したというわけではなく、いまいち自分には府に落ちないのです。
たとえばお金をX氏に貸したとき、彼が今月の10日までに返すと言っていたのに、X氏から夜中に電話があり、
「ごめん10日までには返せない。でも一ヶ月以内には必ず返せる。
今日、返せなかった理由はこうこうで、一ヶ月以内に返せると自分が確信している理由はこれこれだ」と言われた場合、
その説明によっては、返済を待つかも、ということがありえますよね。
いわば、どんなときには正当な弁明であって耳を傾ける価値があり、どんなときは言い訳にならないのか、に興味があったのです。
5番です、2回目になります。
6番の質問者の説明で、少し理解できた気がします。
しかし、すこしだけです。
私は、特別かも知れません。
テレビ、PCでも<ながら>をよくします。それほど神経を尖らす性質でもないのですが、反応が強くなることがあります。
K家族が、テレビ・PCに出てくるとスイッチを切ってしまうのです。
非常に、不愉快になります。
この不愉快になる原因は、言葉使いであり、K家族だけではないことを知りました。
邦画業界が、その片棒を担いでいるのです。
もともと私自身は、敬語自体を温存したいとは考えておりません。
敬語そのものも、学ぶ側からすれば使えないと、尋常の人間関係は保てませんよと<差別>しかねないものではないかと思い始めています。
敬語とは、<別の>対処の仕方で、K家族は誤解をされていると思います。
私からは、逆差別の言葉つきではないかと・・・。
話はそれているでしょうが、・・・。
ことばをお互いに交わしている間には、物事に対しての価値の基準が共通であって、はじめて会話ができるものだと思います。
「貸す」ほうの、10万円のお金の持つ感覚と、
「借りる」ほうの、お金に対する扱い方が、粗野であったり、一か八かの勝負を賭ける資金には、使わせないのが・・・・。
お互いが、真摯に付き合うことに繋がると思います。
ことばの上での、価値観が交差しないと会話は成り立ちません。
回答ありがとうござすます。こちらとしては、亀田さんにはほとんど興味がありませんでした。
(じつは今回の騒ぎではじめて彼を知りました)
ただ、芸能人Zのセリフは、もしかしたらきっちり説明すると、意外で面白いのかも、と思ったのです。
念頭には「ポパーのパラドクス」を解説したときの三浦俊彦の説明がありました。
http://www.nurs.or.jp/~lionfan//2004/mainichi_2004_038.html
その本を読んだとき、「あれっ」と思ったときに深く掘り下げると、
予想外の面白い説明が出てくることがあるのだなあ、と思ったのです。
で、今回のケースも、亀田さんのふだんの言動には関係なく、
いわば論理的なクイズとして、自分の感じた違和感を解明できないかと思ったのです・・・。
が、自分が考えついたのは3番さんの回答へのコメント程度でした。
何かもうすこしマシな説明がありそうなのですが、自分では思いつかないので、気になって。
「Xは近い将来、必ずチャンピオンにふさわしいほど強くなるから」は深い言葉であると思いました。質問者は心理学的、とか言葉の妙な説得性、もしかしたら弁護士の勉強的な見地から興味を抱いたのではと思いました。Xは今はチャンピオンとしてふさわしくないことを暗に認めているようでもあり、今、チャンピオンであることを否定している訳でもありません。暗に認めてるようであることで、Xはふさわしくないと思っている人々の反感を買わない発言となっております。チャンピオンになったことを完全否定はしていなく、判定等のラッキファクターでふさわしくないと思われる勝ち方ではあってもチャンピオンになったのだからとにかく今、Xはチャンピオンである事に変わりはないという立場の言葉です。スキーのモーグルとか新体操とか、美術点、表現力とか一般の人々では判定しきれない部分はあり、とにかく運も含めて現時点、チャンピオンである事を否定していない訳です。そして、「ふさわしいほど強くなる。」が絶妙です。実際は実力がないのが後から追っつけで強くなると捉えると、これは弁護にはなりきっていません。しかし、今回はみんなが満足するような勝ち方には見えなかったかもしれないが、実際には実力も伴っていて、皆が納得するような勝ち方を今後はする、そのような強さをみせられるようにする。という事で弁護できているように見えるのではないでしょうか?2つの捉え方が出来る言葉になっている為、違和感を覚えるのだと思います。
芸能人Zが実は、まだXは実力を持っていないと思って発言したとしても、そのように聞こえるという絶妙さがあると思います。
尚、今回、亀田を切り離してということですが、実際論も触れてみたいと思います。亀田ということで、これまで人々には「あいつは強い」と刷り込まれており、なんだ、本当は弱いのか?いやいや確かにこれまで強かったんだから今回は試合運びがうまくなかっただけでチャンピオンのタイトル早めにもらっただけですぐ追っつけるのではと感じてる人も多く、素直に芸能人Zの言葉を受け入れるということもあると思います。ボクシングの場合、1敗しただけでもスターダムから引きずり落とされることを考えると、微妙な勝ちで後から追っつけるのも心情的にはありかと考えるところがあるのではかと。
marlow様、了解です、ありがとうございます!!
これはたとえば
「チャンピオンは今後、確実に強くなるという保証があるのなら、ある時点ではすこしくらい弱くてもOK」派ですよね。
借金で言えば、「1秒でも返済が遅れたら0」ではなく、「ある程度遅れても、返済の見通しがちゃんとあることを示し、結局返済するならOK」派なのだと思います。
まあとにかく自分が知りたかったのは、
この弁明を正式な弁明と受け止めることができる人がいるとしたら、
そのような人はどのような暗黙の条件を仮定しているのか、
それを明示してもらえると、自分の違和感がはっきりするかもしれない、ということでした。
自分でその条件を明示できればよかったのですが、思いつかないのです。
こういう、なんか納得いくようでいかないというのは、どこか分かりにくい堂堂巡りが生じているときが多いのではないかと思います。以下に考えたことを書いてみますが、支離滅裂でしたらすみません。
・チャンピョンである・あったということは、とても特別かつ名誉なことで、人が人生の内で一度でもその地位を持ったかもっていないかでは雲泥の差がある。この視点では、名誉への回数、期間の貢献度は補足的なものにすぎない。だが、たとえば八百長試合のようなものを経て得たチャンピョンという地位ならば、名誉にならず、逆に不名誉にすらなりうる。
・人にはポテンシャルがあるが、つねにポテンシャルが最大に発揮されるわけではなく、さまざまな条件によって発揮具合、現実に発現するパフォーマンスは変化する
・上と重複するが、仮にポテンシャルが最高の人間であっても、チャンピョンになれるとは限らない。勝負は時の運という要素がある。それにもかかわらず、スポーツは表面的には結果がすべてで、結果が実力だ、という視点で行われる。
・ポテンシャルの高い人は、チャンピョンという地位を獲得するチャンスが確率的に高い。試合の機会が多ければ多いほど、1度でもチャンピョンになれる確立はさらに増える。Xは今後も多くの試合をしうる。
・Zは少なくとも一般の人より、Xや、ボクシングについて知っている自負があり、マスコミ、一般の人もそのようなものとして受け入れている。また、XやY本人ではないので、ポテンシャルについてはX、Y自身より客観的に判断できると思われる。その上で、ZはXのポテンシャルを他のボクサーと比較し、高く評価し、また、株価予測のように、「こののび具合だと、今後は」と言うように、Xのパフォーマンスのさらなる向上を予測している。
・Xを応援していた人々にとっては、Xのポテンシャルは高く、名誉に値するはずだと思い、信じていたのが、裏切られた。Xに裏切られたと感じるだけでなく、制度や、チャンピョンという地位そのものに裏切られたと感じた。
勝手に以下のように定義します。
a.ポテンシャル(将来的な潜在力)
b.実力(現在発揮できる力、現状のコンディション、体調など不確定さを要素とする)
c.パフォーマンス(試合で実際に力を発揮している状況、環境など不確定さを要素とする)
d.結果(勝敗、これが不確定であってはまずい)
c.d.は観測可能
a.b.はc.d.を基に推測するしかない概念
試合で、不確定さの影響が小さければ、ほぼb=c=dと判断
選手を応援する人にとっては、究極的にはa=b=c=d 、「ポテンシャルが実力であり、パフォーマンスであり、結果であってほしい」つまり「自分のすべての可能性(a)を最大限に出し切って(a=b)、いい試合をし(a=b=c)、勝って欲しい(a=b=c=d)」
試合前 Xの実力がYを上回っているはず
試合中 Xの実力はYを下回っていた
結果 Xの実力がYを下回っていたにもかかわらず、Xが勝った(d>b=c)
dがc=bと一致しない理不尽だ!
Xを応援していた人には、Xさんの見解は以下のように聞こえる(?)
Zさん「Xのaはとても高い。a=bでないのですよ!すごく離れている(a>b)んです、a=b=c=dを理想とするなら、d-cや、d-bの大きさよりも、b-aの大きさのほうが大きいのですから、こっちの方が本質的に理不尽で問題なんですよ!でも、今回勝ったということは、考えてみれば、a=dなんですから、基本的になーんにも問題ないんですよ、本質的な理想に近い状態なんです、よかったですね!」
ここでB美さんならどう語るか、考えてみました。
B美「aやbってさあ、cやdから予想することしか出来ないんだから、aが予め分かってるように語るのはおかしいわよね。トートロジーとか、進化論の適者生存、弱肉強食のパラドクスみたい(強いと生き残る。じゃあ強いって何?生き残ること)。でもまあ、Zさんに、すごく洞察力があって、Xさんのポテンシャルを見抜くことができると信じるなら、信じられる度合いも増すのかもね。でもこれも、ZさんがXさんのポテンシャルを見抜けるかどうかを各自見抜かなければならないわけで、下手をしたら自分でXさんのポテンシャルを見抜くより難しいことよね。だからふつうは、Zさんへの好意とか、人間としての信頼みたいなものに預けてるのよね。結果的には、Xや、試合の公正さやもろもろへの不信感を、Zさんの信頼感で補償しているようなものね。だから、Zさんが、ボクシングのことも、Xのこともよく知らなかったり、人として信頼できない場合はだめね)
moonan様、ありがとうございました。
この答えでとても満足しましたので、これにて終了させていただきます。
moonan様、ありがとうございました。
この答えでとても満足しましたので、これにて終了させていただきます。