ご意見をお聞かせください。
http://www.j-cast.com/2006/08/21002622.html
「殺すくらいならば飼うべきではない」
それは正論であり前提です。
ではどうして坂東女史がこのようなエッセイを寄稿されたのか。
それを考えると、やはり我々が行っているような議論を喚起したかったからと思わざるを得ません。
自分が糾弾されると知りつつ、それを覚悟した上で狭義には不妊手術の倫理性、広義には他の生命との関わりに至るまでを議題にしたかったのではないでしょうか。
そうだとすれば既に成功を収めていると言えるでしょう。
私見ですが、生まれたばかりの子猫を殺すことと、飼い猫に対して不妊手術を施すことと、どちらが残酷で倫理に悖ることか比較は難しいでしょう。
どちらも他の生命に対し、暴力的に干渉する行為だからです。
坂東女史は飼い猫の生と性(さが)を尊重するが故に不妊手術を拒んだのでしょう。
同時に地域社会に対する責任から、生まれてくる子猫を殺してきたのでしょう。
飼い猫を尊重しつつ、社会への責任を果たす坂東女史の行為は我々に重要な問いかけをしているようにも思えます。
「殺す覚悟が無いなら飼うべきでない」
あのエッセイはそう語っているのかもしれません。
坂東眞砂子氏の云うように猫の「生」を考えるのなら、そもそも「飼う」という選択そのものが間違っていることになる。そのことについて彼女はどう考えているのか、知りたい。
避妊手術する権利も子猫を殺す権利もない、飼うことも間違ってるけどそれでもわがままを通したい、猫を飼いたいってことでしょう。
わがままの社会的責任を取ることとして、避妊手術と子猫殺し、坂東氏はそのうち子猫殺しの方が納得できるということで選択した。
子猫を殺すことの痛み、悲しみは引き受けられるのに、猫を飼いたいというわがままはなぜ我慢できないのか?
今飼っている猫たちが死んだらもう猫は飼わないで欲しいと切に思う。坂東氏の責任の取り方は納得も理解もできない。
殺すなら、何故飼うのでしょう?殺したいから、飼いたいんでしょうか?飛躍しすぎですかね。
そもそも何であんなエッセイを発表したのかもよく分かりませんが。
私も「殺すぐらいなら飼うな」に賛成ですが、飼えなくなる(=殺す)可能性があっても飼うのは坂東眞砂子氏に限ったことではなく、世の中に腐るほどいます。
保健所に持って行っても結局殺されます。
自分の手を下したかどうかの差でここまで批判されるのはちょっと違うような気がしますね。
>飼えなくなる(=殺す)可能性があっても飼うのは坂東眞砂子氏に限ったことではなく、世の中に腐るほどいます。
おっしゃるとおりです。無責任な飼い主はどこにでもいるものです。その無責任な飼い主達は何匹のペットを殺しているのでしょうか?
彼女の異常性というか特出している点は、その夥しい数の子猫を殺し続けているという点にあるのではないでしょうか?
猫の発情期は年に3~4回、そして一回の出産は3~6匹(この辺は大雑把です)ですよね。そして雌猫を3匹飼っているのですから年間に生まれる子猫の数は
3回の発情期×4匹×3匹の親猫=36匹の子猫
もし、発情期を4回としたら48匹です。
坂東氏が何年、子猫殺しをし続けているのか、エッセイからこの辺の事情ははっきりとは解りませんが、2、3年だけでも100匹を超えますからもの。すごい数の子猫を殺していることになりますよね。
なのでここまでの批判が生まれたのではないでしょうか?
まぁ、これだけが批判の的ではないでしょうけど。
この件に関しては既に炎上中で、多くの方が似たようなご意見をお持ちだと思います。よって、多くは語りません。