猫殺しは、一般人から見た場合の「理由の無い殺害」と同義である
と考えてよいのではないでしょうか。
理由の無い殺害をしている人。
理由の無い殺害をしない人。
あなたの目の前にその二人がいるとして、
どちらが人として信頼できますか?
どちらの人物とつきあいたいですか?
二人が同じ商品、たとえば肉を売っているとして、
どちらの肉を買って食べたいですか?
二人がそれぞれ別の幼稚園で働いているとして、
どちらの幼稚園に子どもをあずけたいですか?
たぶん世間一般の理解では後者なのだと思います。
人は、その人の言動によって、その人の人格や本質を評価します。
慈悲深い人にはそういう評価が、
冷たい人にはそういう評価が、
猫殺しの人にはそういう評価が与えられ、
それによって人間関係は決定されてゆきます。
かつて2ちゃんねるでキャットキラーを名乗った人がいました。
その人はその後ネオむぎ茶と名乗り、
バスジャックをしたあげく三人を刺し、一人を殺しました。
心の中で考え言葉にした人は、その言葉通りの行動をとるものです。
なぜなら、人の行動は、心の中にその動機が存在し、
心の中にある想いは、すべからく言葉となって現われるからです。
つまり、猫殺しがいけないという理由は、そういうことです。
死ぬまで無人島に住むのなら別に問題ありません。
他者が存在する社会の中で生きている以上、
他者からの評価を避けて生き続けることはできません。
他者からの評価が下がるようなことをして困るのは
結局は自分自身です。
自分自身が他者からの評価を気にしている。
だから猫を殺してはいけない。
そういうことです。
他者からの評価を気にしないのなら、
猫殺しでも人殺しでもなんでもできるでしょう。
八百屋お七のように自分の情念のために町に火を放って
なんの罪もない人たちを殺すこともできてしまうでしょう。
その結果責任を一切引き受けるのならば。
ただ、問題はそう簡単ではありません。
どういうことかというと、他者からの評価を気にしているからこそ、
猫殺しというような奇矯な言動をとるという場合もあるからです。
他者からの評価を異常なほど気にする自己愛の暴走、とでも言いましょうか。
むかし、石原ナントカという政治かぶれして知事選に出て
対立候補の美濃部氏から「ファシスト」と言われて落選した作家が、
精神障害の少女を輪姦し最後に殺してしまうというキチガイじみた
行為を描写し、それを完全なる美しい行為だと評価する小説を書いて
自画自賛していたことがありましたが、
小説家は時にそういう極限状況を描いてみせることで
世間の注目を浴びて満足するという偏執的な強烈な自己愛を持つことがあります。
それは常に自分の内面を世間に曝け出さなければならない小説家特有の
職業環境においてはそれほど奇異というわけではないのかもしれません。
小説という架空の世界の中ではいかなる創作もゆるされるとはいえ、
それを現実に実行するとなると話は別です。
太宰は何度も自殺未遂を繰り返しては他者からの関心と同情をひいていました。
殺害の対象を自分の肉体ではなく愛玩動物の猫を対象にしたとしても
他者からの注目を浴び自己愛を満足させるという点では、
似たような効果を持ちえます。
たとえ悪い評価であっても、注目されないよりは注目されたい、
そういう欲望を内面に持っている限りは、
猫殺しという行為はそれを実行するに値する行為ということになります。
他者からの注目によって至福を得るという“マッチョ”な人は
どの時代のどの場所にもいるものですが、
他者からの注目というものほどあやふやで
自分の思うままにならないものはないのも事実なわけで、
その事実を事実として受け止められない人は、
最後には死ねば誰かが悲しんでくれるという思いにとりつかれて
自分で自分を殺してしまうことになります。
死は生命にとって悪であるという公理から見れば自死に至る選択は悪。
だとすれば、他者からの注目という欲望にとりつかれ、
その究極を求めようとするあるゆる行為は、
猫殺しという他者からの関心を得る行為を含め、
同様に悪であると言うことができるでしょう。
心理学でも指摘されていることだと思いますが、
動物虐待や児童虐待は、
他者を完全に支配したいという強い欲求を持つ人が多いと言われます。
とても可愛くて価値のある生命を虐待することで、
支配欲を満足させ全能感を獲得する、
そのための手段が動物虐待であり、猫殺しです。
それは逆に言えば、自分自身が、肉体だけではなく心さえも
自分以外のなにかに支配されていて自分ではどうしようもない
という被支配感覚、あるいは自己に対する絶望感覚の、
裏返しであるとも言えます。
動物や子どもを虐待する人は、それだけ自分自身に絶望し、
“自分は死んでいるような存在だ”と感じているのです。
死は生命にとって悪であるという公理から見れば、
死んでいるような存在としての自己認識は悪。
だから猫殺しのような動物虐待も悪です。
自分の心と体を自分のものとしてコントロールできている健全な人は、
動物虐待や児童虐待などしません。
猫殺しは、一般人から見た場合の「理由の無い殺害」と同義である
と考えてよいのではないでしょうか。
理由の無い殺害をしている人。
理由の無い殺害をしない人。
あなたの目の前にその二人がいるとして、
どちらが人として信頼できますか?
どちらの人物とつきあいたいですか?
二人が同じ商品、たとえば肉を売っているとして、
どちらの肉を買って食べたいですか?
二人がそれぞれ別の幼稚園で働いているとして、
どちらの幼稚園に子どもをあずけたいですか?
たぶん世間一般の理解では後者なのだと思います。
人は、その人の言動によって、その人の人格や本質を評価します。
慈悲深い人にはそういう評価が、
冷たい人にはそういう評価が、
猫殺しの人にはそういう評価が与えられ、
それによって人間関係は決定されてゆきます。
かつて2ちゃんねるでキャットキラーを名乗った人がいました。
その人はその後ネオむぎ茶と名乗り、
バスジャックをしたあげく三人を刺し、一人を殺しました。
心の中で考え言葉にした人は、その言葉通りの行動をとるものです。
なぜなら、人の行動は、心の中にその動機が存在し、
心の中にある想いは、すべからく言葉となって現われるからです。
つまり、猫殺しがいけないという理由は、そういうことです。
死ぬまで無人島に住むのなら別に問題ありません。
他者が存在する社会の中で生きている以上、
他者からの評価を避けて生き続けることはできません。
他者からの評価が下がるようなことをして困るのは
結局は自分自身です。
自分自身が他者からの評価を気にしている。
だから猫を殺してはいけない。
そういうことです。
他者からの評価を気にしないのなら、
猫殺しでも人殺しでもなんでもできるでしょう。
八百屋お七のように自分の情念のために町に火を放って
なんの罪もない人たちを殺すこともできてしまうでしょう。
その結果責任を一切引き受けるのならば。
ただ、問題はそう簡単ではありません。
どういうことかというと、他者からの評価を気にしているからこそ、
猫殺しというような奇矯な言動をとるという場合もあるからです。
他者からの評価を異常なほど気にする自己愛の暴走、とでも言いましょうか。
むかし、石原ナントカという政治かぶれして知事選に出て
対立候補の美濃部氏から「ファシスト」と言われて落選した作家が、
精神障害の少女を輪姦し最後に殺してしまうというキチガイじみた
行為を描写し、それを完全なる美しい行為だと評価する小説を書いて
自画自賛していたことがありましたが、
小説家は時にそういう極限状況を描いてみせることで
世間の注目を浴びて満足するという偏執的な強烈な自己愛を持つことがあります。
それは常に自分の内面を世間に曝け出さなければならない小説家特有の
職業環境においてはそれほど奇異というわけではないのかもしれません。
小説という架空の世界の中ではいかなる創作もゆるされるとはいえ、
それを現実に実行するとなると話は別です。
太宰は何度も自殺未遂を繰り返しては他者からの関心と同情をひいていました。
殺害の対象を自分の肉体ではなく愛玩動物の猫を対象にしたとしても
他者からの注目を浴び自己愛を満足させるという点では、
似たような効果を持ちえます。
たとえ悪い評価であっても、注目されないよりは注目されたい、
そういう欲望を内面に持っている限りは、
猫殺しという行為はそれを実行するに値する行為ということになります。
他者からの注目によって至福を得るという“マッチョ”な人は
どの時代のどの場所にもいるものですが、
他者からの注目というものほどあやふやで
自分の思うままにならないものはないのも事実なわけで、
その事実を事実として受け止められない人は、
最後には死ねば誰かが悲しんでくれるという思いにとりつかれて
自分で自分を殺してしまうことになります。
死は生命にとって悪であるという公理から見れば自死に至る選択は悪。
だとすれば、他者からの注目という欲望にとりつかれ、
その究極を求めようとするあるゆる行為は、
猫殺しという他者からの関心を得る行為を含め、
同様に悪であると言うことができるでしょう。
心理学でも指摘されていることだと思いますが、
動物虐待や児童虐待は、
他者を完全に支配したいという強い欲求を持つ人が多いと言われます。
とても可愛くて価値のある生命を虐待することで、
支配欲を満足させ全能感を獲得する、
そのための手段が動物虐待であり、猫殺しです。
それは逆に言えば、自分自身が、肉体だけではなく心さえも
自分以外のなにかに支配されていて自分ではどうしようもない
という被支配感覚、あるいは自己に対する絶望感覚の、
裏返しであるとも言えます。
動物や子どもを虐待する人は、それだけ自分自身に絶望し、
“自分は死んでいるような存在だ”と感じているのです。
死は生命にとって悪であるという公理から見れば、
死んでいるような存在としての自己認識は悪。
だから猫殺しのような動物虐待も悪です。
自分の心と体を自分のものとしてコントロールできている健全な人は、
動物虐待や児童虐待などしません。