日本においては、「農家や漁師などの、食べ物を確保してくれた人に失礼である」「人間に食べられるために命を絶たれた生物に対して申し訳がたたない」というような、<食べ物自体への敬意・感謝>が、怒られるという事の根底にあるように思います。
さて。日本以外の国では、ご飯を残した子供に対して、どんな理由でいけないことだと怒るのでしょうか。
宗教的な理由、地理的な理由、何でも結構です(この国では残しても怒られない、というのも情報としては貴重です)。
できるだけいろいろな国の実例をお待ちしています。
これは子供に対してではありませんが、有名どころでは中国では、もてなしてもらった際にご飯を残すのがお作法だったと思います。
"食べきれない程の料理を出す=相手に満足してもらえた"という感じで…。
だからレンゲでチャーハンなんかを食べると、最後まで綺麗にすくえなかったりするんですよね。
日本だと、全部食べなきゃいけないって思うのでちょっと逆ですよね。
http://q.hatena.ne.jp/ URLはダミーです。
http://blog.mag2.com/m/log/0000110636/106341906.html
南ドイツでは、子供が食事を残すと
「お残ししたら雨が降っちゃうよ」
と言うらしいです。
ドイツ人も日本人と同じく物を大切にすることを重んずる国民性ですが、日本のような汎神論的な「物に神が宿る」といった考え方はありませんから、良くないことをすると自分に不都合が起きるよ、という論法で教えていくわけですね。
http://www.wfp.or.jp/activities/
しかし、実際には世界の子供たちの圧倒的多数は飢えており、食事を残せる状況にはありません。世界規模で見れば先進国ではどんどん残飯が捨てられていきますが、世界で毎日およそ24,000の人々がただ食べられないという理由だけで亡くなっています。そのうちの75%は5歳未満の子供たちで占められています。
悲しい事実です。確かに、食べきれないほどの食事を日常的に供給できる国は、現状では限られていますね。
南ドイツのお話は分りやすいですね。躾の方法としては納得できます。
ただ、なんでいけないのか、ということについてはどう考えているんでしょう。
基本的に、中国の文化圏では残すことに対する罪悪感はないと思います。たっぷり食事を要して、それを残すことができるのが豊かさであり、メンツであり。
だけれど、日本では残すのは悪いと教わるので、やはりマナーが悪いと思ってしまうんですけれど。
となると、やはり家庭でも残すということですかね?
両親と一人っ子3人で囲む食卓でもそうなんでしょうか。
ちょっと違うかもしれませんが、中国ではちょっと残すのが礼儀だそうです。
全部平らげてしまうと、もっとほしかったのに、、、という意味になってしまうようです。
いや、質問の意図とは違いません。
ただ、これってやっぱりおもてなしの席ですよね・・・。
↑ダミーです
私の判る範囲内では、ガンガン残していましたよ。直接的な意味でお金がない=食べものが買えないから今あるものを全部食べる、を除いた場合ですが。
タイではあまり怒られてなく、好きなものばかり食べていました(だから肥満児が社会問題になってるんだけど)。思うに、南国の方は元々が作物は豊富なので、残すことにためらいはないのかと。それと、ひとりづつご飯の乗ったお皿を持って、皆で真ん中に置いてあるおかずの皿をつつきながら食べるというスタイルがお残しを目立たなくさせているんだろうと思いました。
栄養素として子供に必要だから、という理由で食べさせたい場合は「大きくなれないわよ」とか「残さず食べないとゲームさせません」とか「親の言うことは聞きなさい」とかをよく聞きました(北米)。
基本的に「いただきます」「ごちそうさま」という言葉や「食物に感謝する」という日本の風習は神道から端を発したものだから、世界的に見ては稀な方じゃないでしょうか?(フランス語の「ボナペティ(いただきます)」以外聞いたことない←これもニュアンス違うし)
米国人なんかケチャップを掛け合って遊ぶは(大人が)、ろうそく立てに小麦粉使うわで、最悪だと思いました。
食に感謝の心がもっと世界的に一般化すればいいのにとおもってしまいます。蛇足ですが。
なるほど。
たしかに、自分ひとり用に盛られていなければ、残すも何もないですね。
食べ物が豊かな土地では残すことに対する罪悪感がない、という説も納得です。
日本の食物に対する考え方がオリジナルなものであるという認識はあるのですが、ではキリスト教やイスラム教や仏教やヒンズー教では食べ物に対してどう接しているのでしょう。生きるための基本的なことなので、何らかの戒律なり何なりあってもいいように思うのですが。
http://blog.mag2.com/m/log/0000110554/75893121
中国では、十分頂いたときは少し残すのがマナーです。
全部平らげると、まだ足りないという意思表示になります
はい。そうですよね・・・。
大変申し訳ありませんが、以後、中国のマナーについては、家庭内での食事の席での子供に対する説明に限定させていただきます。
ごめんなさい。
一口残す作法
すこし変った(わが国の)実例ですが、つぎの映画では、股旅渡世の
作法がくわしく考証されていて、とくに一宿一飯について、飯の残し方
が(うんざりするほど)几帳面に再現されます。
── 「望んで入ったやくざの道は、つらく、みじめな長い旅路・・・」
颯爽としたヒーローが賭場から賭場へ渡り歩いて活躍する〈股旅もの〉
とは趣向を変え、実際の渡世人の旅はこんなふうであったはずだという
視点から、市川崑監督が封建社会からはみ出した若者たちを独特のオフ
ビート感覚で描いた異色作。 (萩原 健一/尾藤 イサオ・出演)
https://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4988102633813.html
── 市川 崑・監督・脚本《股旅 19730407 崑プロ=日本ATG》
要約すると、一粒のこさず平らげるのではなく、最初の飯の真ん中に
凹みを作り、さらに飯を盛りつけることを三度くりかえして、ようやく
満腹したことを主客ともに確認するというものです。
この作法の名残りは、つい最近(数十年前)まで伝わっていました。
他家で飯を出されたら、一膳目は一口ほど残して、箸を置きます。
これが、お代わりを要求するサインと見なされるのです。
二三杯お代わりして満腹したら、最後には一粒残さず平らげます。
ところが、この作法を知らずに、飯粒を残したまま箸を置くと、すぐ
お代わりが盛られ、永遠に繰りかえされることになります。
そして幼い客が帰ったあと「あの子は行儀しらずや」と非難されます。
このような見聞は京都・滋賀におけるものでしたが、東京都内では、
とくに経験しませんでした。いまでは全国的に絶滅しているはずです。
面白い! 質問の趣旨とは違うんですが、これはこれで興味深いです。わんこそばみたいですね。
でもやっぱり最後は全部綺麗に食べる、というところが日本風。よっぽど小さなお茶碗でない限り、私は3杯も食べられないので、カタギでよかったです。
>となると、やはり家庭でも残すということですかね?
>両親と一人っ子3人で囲む食卓でもそうなんでしょうか。
家族が一つのお皿をつっついて食べるというスタイルが多いです。中華料理店で、丸い回転するテーブルがありますよね。あれと同じ要領ですね。自分が必要なぶんだけ取り分けるので、自分が食べれる範囲だけとるというところです。誰も大皿からとらなかったら、残っちゃいますよね。
香港や台湾などでは、レストランなどで食べれば、食べ残しを「おもちかえり」できたりする店も多いですよ。その点、見栄はってたくさん頼んで、残しても、やっぱりもったいないという意識も多少あるのかな、とも思えますが。あるいは、食事にこなかった家族の誰かにもってかえってあげるとかかな。
そうなんですよね。確かに。
大皿で出てくる料理については、「子供が残す」という概念が通用しませんから難しいところです。
それなら、一度取り分けたものを残す、ということについてはどうでしょう?
アジア(特に東南)について、
(子供のしつけについては書いてありません)
ご飯を残すことに「罪悪感」はないと思います。
「しつけ」としてご飯を残すなというものも希薄です。
だからと言って、皆が残すわけではありません。
貧しければ必然的に残しません。
貧しくなければ満腹になった後は普通に残します。
私個人はご飯を残すなという日本の家庭で育ちましたが、上記のアジアでの感覚は、ある意味で自然なことだと感じています。
私は東南アジアを中心に25ヶ国くらいにいきました。それぞれ比較的長期の滞在でしたが、どこの国も日本のような理由(質問内容に記載)でご飯を残さない国は見たことがありません。
仏教(特に本来の仏教)では、殺生をしてはいけないという考えから、自分のために死んでくれた動物に対する感謝というものはあるのと思いますが、農家の人や、漁師の人に申し訳ない的な感覚は日本独特のものではないでしょうか。
キリスト教では食事の前に神に感謝をしますが、
これも死んでくれた動物に対する感謝というよりも、今日もご飯が食べられることに対する「神様への」感謝ですので、
日本の感覚(質問内容に記載)とはそもそも根本的に違うものだと思います。
イスラム教、ヒンドゥー教、ユダヤ教などの情報は分かりませんので他の回答者様に答えていただきたいと思います。
少し話がずれてしまいますが、
日本の「ご飯を残すな」感覚だけにとどまらず、
日本には西洋的なロジックで考えるとナンセンスな理論が多いと思います。
世界に貧しい人が居るからという理由で
豊かな国の人が目の前のご飯をすべて食べるということは、
直接的にはなんの意味もありません。
ユダヤ教では食べていいものと悪いものがあり、
食べてはいけないもの以外はすべて食べてよいという(西洋的には当然な)集合の理論があります。
昔、中国では皇帝に対して家臣が自分の妻を料理して献上したという話があります。(つまり食べてはいけないものはなく、すべてのものを食べてよいということ)
倫理的な問題はさておいて、
どちらも(西洋においての)論理にかなっています。
質問内容にあるような理由で「ご飯を残してはいけない」という感覚は、
おそらく(十分な検証をしていませんが)非常に日本的ではないでしょうか。
もし、その日本の感覚を海外に持っていく日本人が居たら、
なかなか理解してもらえないと思います。
つらつらと書いてしまいましたが、
日本以外の国に、日本においての「ご飯を残すな」という感覚はない、もしくは希薄ではないかと思います。
ダミー
わかります。本当にそうだと思います。
これはどうも、私の中の日本人的な感覚を理性から分離できていないのではないかという気がしてきました。
食べて良いものと悪いもの。食べられるものと食べられないもの。あとは、食べなければいけないものと食べてはいけないもの。世界的に見れば、その区別しかないということですかね・・・。
実際に聞いたわけではないのですが、途上国では「大きくなれないよ」でしょうね。
アフリカのサバンナ地帯では少しの旱魃で作物が取れなくなり、すぐに飢えてしまいます。農業で生計をたてている人たちは、売る物もない、自分たちが食べるものもないという状況になりやすいのです。そのような状態になったとき、幼い子を抱えた母親はどうするかというと、まずは自分が食べるんだそうです。母親が子どもより先に参っちゃったら、1人も子どもが救えないからです。
今でこそUNISEF等もあり、いよいよ最悪の事態が広がると、援助の手が入りますが、そういったシステムができる以前は、庇護する大人なしでは幼児の成長は、かなり困難だったわけです。
この話しをした友人、当時20代後半の男性でしたが、
「自分は、母親というものは自分を犠牲にしてでも子どもを助けるものだと思っていた、この話を聞いたときは、なんてひどい連中だと思った」
と、とても暗い表情で話しました。
「すぐには納得がいかなったけれど、周りの大人も、よその子まで救う余力がなく、すぐ水がなくなってしまう土地で水の汲みてがいなければ子どもは一日ともたない。つらい話しだが、自然の摂理にかなうのは母親が生き残ることでしかない」
子どもを犠牲にしても母親が生き残る。この件に関しては、私も含め、日本という豊かな国に生まれて育ち、究極の危機的状況に立たされたことのないものには理解しにくいと思います。
そこまで苛酷な環境ではなくても、昭和20年代くらいまでは、日本でも経験や記憶の中に同じような状況があったのだと思います。
まだ、乳幼児の死亡率は高く、食が細い子の成長は難しかったのではないでしょうか。このくらい食べないと、育たないよという『量』があったのではないでしょうか。
だから残すなと、残してくれるなという、親の切なる願いがあったのではと思うのですが。
蛇足ですが、昭和20年代生まれの小父、小母は関東地方ですが、お変わりのさい、一口分のご飯を残していました。このごろはやらなくなってます。
農文協・・・参考になることがあるかも
母親が生き残る、というのは、私は納得できる気がします。冷たいようですが、母親が生きていれば子供はまた産めます。
男性がこの話を聞いて悲しい気持ちになった、というのもなんとなくうなずけますが。
農文協はじっくりみてみます。
>キリスト教やイスラム教や仏教やヒンズー教では食べ物に対してどう接しているのでしょう。
有名所でヒンズー教徒は牛を食べない=神様のお使いだから。
ユダヤ教ではちゃんとカシュルートという食事規定があって、ひずめのある4足動物、鱗のない魚、子を育てる為に親が供するものを一緒に調理してはいけない(バターステーキ等)などなどものすごく沢山の制約があります。でもユダヤ教は他にも日常において山のような規約もあり、食事規約は「食事への感謝」というよりその一端といった印象です。修行ぽい。遥か昔に国を追われた恨みを忘れないぞ!という臥薪嘗胆ってイメージです。食事は毎日の事だからここに制約を入れる事でその思いを色あせさせない、みたいな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%...
アミニズム信仰ならいざ知らず、キリスト教を含め一神教ではそういったものは望めないでしょう。
仏教の場合、日本神道と入り混じった大乗仏教には見られますが、オリジナルの小乗仏教には出家中には若干ありますが、それも修行の一環としてです(しかも建前上)。日本のそれに相当するものはありません。
日本人は世界で一番繊細な人種なんだとおもいます。
宗教的に食べてはいけないものがあるのは分ります。私が気になるのは、食べてよいものを残すことについてです。
例えば、私の知っている範囲で言えば、キリスト教は日常の糧を得られたことを神に感謝しているはずです。それを踏まえると、せっかくの糧を「もういらないよ~」とかいって残すことは神への冒涜ととられても仕方がないのではないか、と考えてしまいます。でも、そのような話はあまり聞きません。
その辺りに、いったいどのように折り合いをつけているのかということが気になるんです。
・・・これは、もしかして宗教問題として掘り下げたほうが良い問題なのかも知れないですね。
アメリカの家庭でのホームステイを通して気づいたこと。食事を残す件は『しつけ』として教えられているようでした(中流家庭)。 大皿から銘々皿へ母親が幼い子供へ取り分ける時『これくらい?』と子供の意思を確認。『もう少し下さい』『もう充分です、ありがとう』とpleaseやthank youという言葉を語尾につけるよう教えられ、自分の食べる量を把握させる。それでも残した場合。食べるまで食卓を離れてはいけません!厳し型(自分が言ったことに責任を取らせる)と、作ってくれたお母さんへ『ごめんなさい』を言わせて(結局捨てる)パターンがありました。大きな子供達は自分で適量を取り分けることでテーブルマナーを学習してました。人前でみっともないこと(沢山残す)をしない作法としての意味合いが強いですね。 北欧のスモーガスボード(日本で言うバイキング)の例からも自分の食べたい量だけ取り分ける習慣があるので、多量に残しているテーブルを見て『アメリカ人だ!』と北欧人が陰口を叩いていました。
東南アジア、特に貧しい地域は年上の子供は最初からわざと少し残すことがありました。自分の分を食べ終わっても空腹そうな年下の兄弟へ分け与えるためです。自分も空腹だろうに『小さい子は我慢できないから』とけなげに答えました。
モンゴルで子供達にお菓子を配ろうとしたら年上のお兄ちゃんが小さい子供順に並ばせます。お菓子が途中で途切れても小さい子から行き渡るように、、だそうです。兄弟の多いところはまず幼い子からお腹一杯にしてあげる、残ったら年上の兄弟が頂く習慣を見ました。
シンガポールで下記URLにありますが、『美人のお嫁さんが来ないよ、ハンサムなお婿さんが来ないよ』の例が出ています。これがすべての階級に当てはまるとは思いませんが。 皆さんがおっしゃっている用に中国系では残すことが当然『お腹一杯までいただきましたよ』という感謝の気持ちと『貧乏人』と思われない、『全部食べるとお金がたまらない』というジンクスは家庭でも教えているようです。 この例はスペイン・ポルトガルでも体験しました。こちらも中流以上はレストランや御呼ばれした時のマナーとして子供にもちゃんと教えており一口、ちょこんと残してました。『お腹すいてるから全部食べていい?』と聞く子供が。マナー違反だと自覚してる?
オーストラリアで日本では食事を残した子供にどうするのかと尋ねられたので『お百姓さんが泣いていますよ、と言って少しでも食べさせます。』と答えたらひどく感激して自分達も今度からそうしようと言ってました。それまではその家(中流)は『お行儀がわるいよ、サンタさんが来ないよ。食べないとデザートが出ませんよ』でした。
ご飯を一口残す作法、趣旨は違いますが(茶)懐石に見られますね。 さすが京都やなと感心しました。茶懐石では一口の残りご飯にお茶を注ぎ、おしんこでお茶碗を撫で回すようにして残飯を落とし頂きます。
詳しいお話、ありがとうございます。
アメリカの、「単純にマナーとして」というのは成る程です。でも、作ってくれたおかあさんに謝る、というのは意外にお百姓さんに感謝するのと通じる部分のような気がします。これなら、世界中で理解してもらえそうです。
スペイン・ポルトガルでも残すことを豊かさの象徴とするのは初耳でした。
この習慣は、はじめからお金持ちだった人(日本人で例えれば徳川家光)が始めたのか、それとも貧乏から脱出してお金持ちになった人(こちらは豊臣秀吉)が始めたのか、その辺も興味があります。(この質問とは関係ありませんが・・・)
オーストラリアの方は良い人!育ってきた文化が違っていても、分かり合えるという可能性を感じます。
でも、今のとことは我々の感覚が世界的には稀だからこそ、マータイさんは「mottainai」を日本語でそのまま使うんですね。きっと。
ドイツの友人宅:
大鍋に茹でられたじゃがいもや大量に焼かれたお肉を自分の皿に好きなだけ取って食べる、というスタイルなので、残すと
「自分が食べられる量も分からないのか」
と怒られていました。「残すなら次からは食わせん」て。
自分で成したことに対しては責任を持たないといけない、という感じですかね。
権利・義務とか責任・自由という概念を感じたりして。ちょっと大げさかもしれませんが。
この件に関して自分は
別に他国に干渉するような話では無いと思う
中国の作法がこうだから別にいいとか
そういう問題じゃないと思います
今は確かに裕福に暮らせますし
食べ物はいくらでもあります
だからと言って残してもいいという話はありません
他国を貶すわけじゃありませんが
日本のような文化水準の高い国へ
外国から色々な文化が大衆化すると
勿論日本の文化水準もモラルも低下します
だから昔から大切にされてきた、ものを大切にする心
これを逆に思い出していくものだと思います
自国で大切にされてきた文化は
これからもずっと残されていく必要があります
食べ物を残して怒られるのは当然で間違いのないものです
別に他国に干渉しようとはしていません。
単純に好奇心の問題で、井の中の蛙が大海の様子を知りたいと思ったものです。
お作法を含む文化には、歴史や地理的な要因や宗教などが影響を及ぼしているんだと思っています。
その中で、食べることという生きていくための基本に対する考え方が、日本は他の国とちょっと違うらしいとハタと気づき、どうしてなのかを考えたくなりました。
個人的には、食べ物を残すのが良いことだとはもちろん思えませんが、だからといって中国の人に残すなんてナンセンスだ、と、頭ごなしに言っても聞いてもらえるはずがありません。
まずは、差異を確認するところから、というかんじです。
禅宗開祖の空海さんは中国留学したら、
中国のお坊さんは腐ってる!と思って、
日本で独自の哲学理論を展開した人ですが、
その人が禅宗をひろめるにあたり、
「五観の偈」という食前食後の祈り?を考え、食は修行であることをきっちり教えています。京都で食後のお茶碗にたくあんとお茶をつかうのも、仏教の教えそのものだと思います。
で、アメリカも建国当初は貧しく、感謝祭(インデアンがくれた食に感謝)があったし、食前の祈りもあるようです(若草物語とか、大草原の小さな家とか)。
現在は小野不由美さんの「図南の翼」という小説にあるように、今ここで食べ物をたくさん持っている自分が残さずたべたからといって、または残しても、代りにどこかのだれかが助かるわけでもないという現実に即した認識が出てきました。
子供にとってみれば、たくさん食べるとおなかが重くなって動きづらいとかもたれて気持ちがわるいなどの弊害がでるので、豊かだからって消化能力を超える食料を与えられるのは災難ですね。
残したときになって初めて叱るという一面的なものではなく、最初に食べられる量を聞く、宴会でもない普段は少なめにつくる、おやつや牛乳を減らす、取り分け皿で共有する、家族が代りに食べて証拠隠滅(アメリカの小説などでは犬にあげたりしますが・・)、食べきれるまで冷蔵庫で待機など、それぞれの家庭の工夫が存在すると思います。(育児雑誌は毎号かならず離乳食の作成と保存といった食の工夫にページを割きますね。)
ただ、おっしゃる話で思い出したのですが、日本では、もともと食は修行で、花見くらいしか食のレクレーションがなかったところに飲食物とおしゃべりを楽しむパーティーという習慣が入ったときに食物をおもちゃにしているようだという否定的意見と、それはものすごくうらやましいという考えがあったようです。
今ではビールかけ、宴会で気の抜けたビールを残す、好き嫌いをいうなどモッタイナイことをオトナがするほうが多いのではないかと考えられます。テレビ番組でも子供が見る番組に食材を残すシーンがでると最後にスタッフが食べたかどうか、気にする人も多いですね。
日本人のお坊さんが日本で展開した禅宗で、日本的な食事の作法を入れ込むというのは、なんというか仏教の日本化であるんではないかと思います。
アメリカも、確かに大草原の小さな家ではいつもお祈りしてましたね。あのときから現在にいたるいったいどの辺りでこの習慣(?)は一般的に消失したんでしょう。信仰自体は基本的に変わってないはずだと思うんですが。
日本もアメリカも、食が急に豊かになったという状況はあまり変わらない気がしますが、残すことに対するもったいなさの感覚が違うというのはどの変に理由があるんでしょう。不思議です。
さて、ここまでみなさんにいろいろと聞いてきましたが、どうも質問の仕方がまとまっていないのではないかと思われてきました。
ちゃんと疑問に即した質問を練り直して、また改めて質問をさせていただきたいと思います。
皆様、ご協力ありがとうございました。
私も聞いたことがあります。ただ、この話はおもてなしの席での話ですよね。
家族だけで食事をするときでも、やっぱりこうなんでしょうか。その辺り、つっこんで知りたいです。