私自身料理が好きで、友人知人恋人etc...に手料理をふるまうことがありますが、口に合わないときはそう伝えてほしいし、マズければ無理に食べてほしいとは思いません。みなさんはどう思いますか?
私が、作った(あなたの為にした)料理(行動)、を何でも、『おいしい!』って言って食べてくれる(誉めてくれる)、人が好き。
と言う事なのでしょう。
見方によっては、あなたの為にやった事だから、どんな結果でも誉めて欲しい。
悪い結果でも批難されたくない、などと言った自分勝手な考え方なのかな? とは考えてしまいますが。
ポイントは、「わたしの作った料理を"何でも"『おいしい!』っていって食べてくれる人が好き」の"何でも"の部分にアリ、ですね
一緒にゴハンを食べることを、コミュニケーションとして楽しめる人、という意味で「作った物を何でも美味しいと言って食べてくれる人が好き」という心理は分かる気がします。
作ることを当たり前に思わないで欲しい、という意味だと思います。中には「料理をけなされるなんて絶対イヤ!」という人もいるとは思いますが(^-^;まあ「何でも美味いと言って!」というのはちょっと無茶な話ではありますね。
味の良い悪いはちゃんと言って欲しいですが、作っていることや、一緒に食べていること自体を当然のことと捉えるような人には、作る意欲も下がります。
自分が大人になり料理をするようになってからは、母の料理も「これ美味しいね」と努めて言うようになりました。
> 自分が大人になり料理をするようになってからは、母の料理も「これ美味しいね」と努めて言うようになりました。
わたしも自分が料理を作るようになって、他人の料理をけなすことができなくなりました(代金を払って食べる料理屋の料理は別です)。
自分の作った料理は、できの悪い子どものようなもので、失敗しても「この餃子、餡はいまいちだけど皮はぱりっとしているな」とか、どこか1つでもよいところを見つけて誉めてやりたくなるものです。
そんなふうに他人の料理でもどこかよいところを見つけて誉めてやりたいという気持ちになったとしたら、その人が自分と同じように大切な人になった、ということかもしれません。だとしたら「わたしの作った料理を何でも『おいしい!』っていって食べてくれる人が好き」というのは、案外、的を射た見方になりますね。
「わたしの作った料理を何でも『おいしい!』っていって食べてくれる人が好き」とは、料理を味わった本当の感想にこだわった言葉ではないのではないでしょうか?
つまり、味の良し悪しや好みはともあれ、“私と私の行為を丸ごと肯定して受け止めてくれる”気持ちを持っている人が好き、という意味だと思います。