今回の教師は極端な例かもしれませんが、教師としての自覚、資質がない人は教師になるべきではないと思います。
教育に対して高い志を持って教師をやっている人が多いと思いたいのですが、そうでない人がいるのも事実です。
個人的には高校時代から疑問に思っていたことなのですが、教育学部は、医歯系はもちろんのこと、理工系、法学系よりも概して偏差値が低いですよね?(教育学部の方には失礼な言い方になってすみません。)
つまり、例えば理工系を目指していたけど、偏差値が届かなくて、妥協して教育学部に行く人だっていると思うんです(実際いました)。そういう、「教育学部でいいや」的な考えは良くないと思うので、教育学部はむしろ他の学部より難易度を高くして、「教師になりたい!」という志が高い人だけ教師になれるようにしたらいいと思う(もちろん「高学歴」=「教師の資質がある」とは思っていませんが)のですが、どう思いますか?ご意見お聞かせください。
※他学部でも教員免許の取得は可能ですが、今回それは除外してください。
結論から言うと、偏差値を上げれば教師の質がよくなるのではなく、
教師の質がよくなれば偏差値が上がるのだと思います。
偏差値はmataxjamさんも書いておられるように、大学側が設定したりするようなものでなく、
志望する学生の量と質で決まるものですから、
まず「なりたい」と強く思う学生が偏差値の高い学部に比べて少ないことに起因します。
ではなぜ「なりたい」と思う学生が少ないのか。
色々と要因は考えられますが、
といった感情的、打算的なことも大半だと思いますが、
一番現実として大きな要因は就職率、教員就職率の低さだと思います。
http://daigakujc.jp/c.php?u=00059&l=03&c=00020
http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/kyoiku/shinro-sanko.html
http://book.jiji.com/kyouin/cgi-bin/exam.cgi?20061013-2
近年こそ全国平均5割を超えるようになりましたが、
私が在籍していた頃は(年がバレますが)3割が普通でした。
たとえ志がどれだけあっても、学力がどれだけあっても、教師になれない人はたくさんいます。
また、教育学部自体の就職率も低いですし、
教師ほど潰しのきかない仕事もありません。
(職歴に「教員」と書いて途中入社が有利になる企業がどれだけあるでしょう)
教師になれれば安定した生活がある程度保障されますが、
今は「問題教師」を見張る動きも強くなり、それも安泰とはいえなくなっています。
つまり、「教師を目指すことはそんなにおいしいことではない」のが自明の現状です。
また、昭和初期頃まではあった保護者の教師への信頼や尊敬、子どもの教師への尊敬が失われ、
親が平気で子どもの前で教師を罵倒したり、見下すような発言をしたりするようになり、
教師を「聖職」と捉えられない風潮になっていると思います。
(ここに学力の問題は内包していると思いますが。自分の偏差値を出して「(教師に向かって)あなたなんてどこどこ出のくせに」と平気で言う親もいますから…)
これらの問題をクリアしなければ、本当に良い人材が「教職」に求めるのは難しいように思いますし、
正直学力の問題ではないように思います。
また、それならば志のある人格的に優れた人間だけを採用すればいいと考えるかもしれませんが、
これは入試時点ではなく、教員採用試験の問題になってくると思います。
未だに縁故や学閥がまかり通る地域もあるという話も聞きますし、
安定を手放せない教員たちが辞めない上に、少子化の影響もあり、採用枠にも限界があります。
地域によっては新任は僻地赴任を暗に強要、示唆されたり、
未だに特殊教育専任の教師枠をつくっていない地域もあります。
(つまり特殊教育用の学習をしていない教員が特殊教育の現場にいきなり赴任させられることがあります→意欲があっても疲弊して辞めてしまう)
それでも近年は面接重視の傾向が強まり、学力だけでなく、実践力を求められるケースが増えているようです。
(ただし、実際のところは試験内容が基本非公開なので…)
こうしたことから、私はむしろ教員採用試験を公開してきちんと討論すべきだと思っています。
ちなみに教師の質に関わる問題として他には、
講師制度(企業で言う派遣社員・契約社員のような位置づけ)や、
教師自身の社会経験の乏しさがあると思います。
(企業勤めをすれば誰でも知るような一般常識を知らない人が多い)
結局のところ、教員の資質を保つための勉強がされていないことが今の現場にあると思います。「忙しいから時間がない」ということは理由になりません。
しかし偏差値を上げてという事は全く関係ありません。教育学部の中にまず教員としてというか人間として、次世代の子供たちにどう教育をしていくかという事を実践していくしかありません。
心の偏差値を上げなければ何も生まれません。
ということは、「理工は無理だったけど、教育なら」という考えで教師になった人でも教育学部での実践内容次第では、教師としての志が高くなる。ということでしょうか。
難易度というのは、誰かが決めるものではない。行きたい人が多ければ上がる、少なければ下がる。
簡単に難易度を上げる方法は、教師の給料を上げることだ。
「難易度=倍率」だとは思えないのですが・・・。
http://passnavi.evidus.com/tokushu/bairitsu04/univ/0010.html
そもそも人の上に立ちたい、他人を思い通りに動かしたいというような意思を持った人が教師になりたがる傾向があります。
私は30代ですが、今思えばとんでもない人格だった教師が何人もいたことを感じます。
採用時の偏差値が問題なのではなく、性格を判断基準に入れてないことに原因があると思います。
とはいうものの、現実には性格の良さを客観的に示す試験を行うことは困難です。
なので問題教師はすぐに辞めさせるようなシステムを採用するべきだと思います。
例えば、
・生徒の悩み相談がしやすい環境を整え、問題教師が発覚したら、すぐに処罰する。
・教室にカメラ、マイクを設置し、抜き打ちで教育委員会が監視する。
これくらいのことを実行しないと解決しないと考えます。
>人の上に立ちたい、他人を思い通りに動かしたいというような意思を持った人が教師になりたがる傾向
すみませんが、私はそう思いません。
そう思って教師になる人がいるかもしれないとは思いますが。
性格も判断基準の一つになればいいというのは賛成です。
私もそう思います
教師というのは職業ながらも、とても重要な位置にいるものと思います
普通の職業と違う点が多く存在し、仕事をするという感覚では出来るものではありません。
ぜひとも、偏差値を上げることには大賛成です
それは、能力をあげるためではなく、本当になりたいと感じる人のみが、頑張って目指すものとしたいですね
>本当になりたいと感じる人のみが、頑張って目指すものとしたいですね
私がこの質問で問いたいのは、安易に教師になれるシステムでいいのか?ということでしたので、全く同感です。
志が高い教師が増えて欲しいという考えは同じです。
そのためには、教師個々人に自由な教育を認めると同時に高い報酬を出す必要があるのではないかと思います。
現在の公立学校のように県や教育委員会という教育の現場すら見ていない人たちの言いなりになるような職場を、志の高い人が目指すでしょうか?
(「人に言われたとおりにやります。」なんて言う人を志が高いとは思えません。)
教えるべき最低ラインさえクリアしていれば、「私はこういうことを教えたいんです!」という想いを実行に移せるような職場であることが第一条件だと思います。
それが達成できれば報酬が低くてもある程度人は集まるでしょうが、やはりそれでは不十分です。
優秀な教育者がそれに見合う報酬を得られるような環境も必要でしょう。
難易度の問題ですが、なりたいと思う人が多くなれば自然と難易度は上がるのではないかと思いますよ。
最終的には相対評価でふるい落としが出来ますから。
>現在の公立学校のように県や教育委員会という教育の現場すら見ていない人たちの言いなりになるような職場
そうですね、ニュースなどを見ていると、どうも教育現場(関係者)は閉鎖的な感じがします。
教育現場こそ開かれるべきだと思います。
偏差値はそもそも大学側でなく人気で決まるものなので変えようがないですね。人気がないのに難易度が高いとますます人気がなくなって、弱小な大学は経営の危機に瀕してしまいます。なので、大学入学でスクリーニングをかけることは、実際問題として難しいことと思います。
また、今、小学校や公立の教員になるのは、結構大変で採用試験にうかるのに2、3年かかる人もたくさんいるという話を聞いたことがあるので、それなりに難易度が高い職業なのではないでしょうか。
教師の質を高めるべきだということには賛成です。
問題は、動機と採用の方法だと思います。
教員はこれまで夏休みや冬休みなど自宅や休養先にいながらにして、
研修とかなんとかという名目で給料を払われていた(る)らしいです(だんだん改善されているようですが)。
きっと、ほかにもいろいろうまみがあるのだと思います。
しかも、給料は一流企業並みで一見おいしい職業に思われます。
そのような動機で教師を目指す人は少なからずいるのではないでしょうか。
このような不純な動機の人を取り除くことがよいのではないでしょうか。それには、動機の原因をなくすか、採用で見極めるかしかないと思います。
ただ、メディアで扱われるような一部の教師のせいで全体が悪く見られるのは忍びないですね。私のであった教師はたいてい良く見えましたよ。
>採用試験にうかるのに2、3年かかる人もたくさんいる
その人たちは本気で教師になりたいと思っていないのでは?と思ってしまいますが・・・。
>給料は一流企業並み
そうなんですか?
難易度の割には高給。ということでしょうか。
昨今の子どもをめぐる事件の多発には、親として大変心を痛めています。日中の大半を学校で過ごす子どもを、安心して預けられない、教師を信頼できないというのでは本当に困ります。
国際的な学力比較調査(PISA)で3部門1位をとったフィンランドの話ですが、教師の質の高さには驚かされます。教師というのは、フィンランドでは職業としてとても尊敬され、信頼されているそうです。決して高給ではないけれど、子どもたちからも人気の職業で、大学の教育学部の倍率も、かなり高いそう。また、総合教育学校(日本の小中学校)の教師になるのにも、修士まで勉強しなければならず、専科の先生になるには、さらに専門課程・教育学を学ぶことになっていると聞きました。ということは、例えば数学の教師になるには、7~8年もかかるということになります。意識も学力も高い学生が、最低でも大学で5~6年学び、実習を重ね、さらに6倍と言われる採用試験を経て、初めて教師になれるというのですから、気の遠くなるような話です。またその採用試験も、適性検査が大きなウェイトを占めているそうです。私自身、大学で教育課程をとり、2週間の実習にも行きましたが、専門学科4年+多少の教育学関連の勉強だけで免許が取れてしまうのとは、大きな違いです。
教師の養成を含め、教育改革といっても特効薬などというものはなく、10年・20年といったスパンで取り組んでいく覚悟がないと、成果は出ないのではないでしょうか?しかしながら、教育学部の難易度を上げるというより、実習を含めた教育の充実、適応検査を含む採用試験を厳しくするとか、教壇に上がる前に研修をしっかり受けさせる、また問題のある教師の再研修・解雇など、すぐにでも着手できることはあると思います。
他国との比較、有難うございます。
興味深かったです。
確かに、入試を難しくするよりも採用試験を厳しくした方がいいかもしれませんね。
教育学部を出ただけでは教師になれません。
それは分かっている事だとは思いますが。
教員試験に合格しなければ教師にはなれないのです。
ただし講師にはなれます。これは免許がなくてもなれますから。
教員試験は勉強だけでは受かりませんし、いくら努力をしても
その人のセンスがないと受からない資格なのです。
自分の知り合いにも何度も受けてようやく教員試験に合格した
人がいます。
なので偏差値を上げる、上げないは関係ないと思います。
ただ、このような事件が起こっていることは事実・・。
なんとかしなくてはいけないと思いますが、偏差値だけでは
解決できない問題だと思います。
なんだか質問の主旨と違うような・・・?
偏差値だけで解決できるなんて、全く思っていません。
教師の質を向上させることに賛成です。
しかし教育学部の偏差値を上げるの方法ではなく、教育学部で学ぶ内容を変えていくことが大切だと思います。
学校の現場と大学と間ではあまり連携はありません。教育実習で現場に下りてきても、5週間足らずです。(2週間の場合もあります)
大学で学ぶことより、実習の中から、教師の自覚、教育の現場の現実などを学ぶ機会を増やした方がよいと思います。
カリキュラムの変革が必要だと思います。
また、教師間の職場環境も見直さないといけないと思います。
福岡のいじめの件はどうして他の教師が気づきとめられなかったのかと悲しくなります。
中学は教科担任制なので、たくさんの大人の目がその子に注がれていたはずなのに。
自分の同僚にも意見できることが必要です。
1の回答者の方がおっしゃていた、人間としての心の偏差値をあげなければいけないと思います。
そうですね。職場環境の見直し、重要だと思います。
かつて、「葬式ごっこ」をされて自殺した生徒の場合、教師4人が加担していたことがありました。
誰か1人でもそれを止める事は出来なかったのだろうか。と思います。
結論から言うと、偏差値を上げれば教師の質がよくなるのではなく、
教師の質がよくなれば偏差値が上がるのだと思います。
偏差値はmataxjamさんも書いておられるように、大学側が設定したりするようなものでなく、
志望する学生の量と質で決まるものですから、
まず「なりたい」と強く思う学生が偏差値の高い学部に比べて少ないことに起因します。
ではなぜ「なりたい」と思う学生が少ないのか。
色々と要因は考えられますが、
といった感情的、打算的なことも大半だと思いますが、
一番現実として大きな要因は就職率、教員就職率の低さだと思います。
http://daigakujc.jp/c.php?u=00059&l=03&c=00020
http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/kyoiku/shinro-sanko.html
http://book.jiji.com/kyouin/cgi-bin/exam.cgi?20061013-2
近年こそ全国平均5割を超えるようになりましたが、
私が在籍していた頃は(年がバレますが)3割が普通でした。
たとえ志がどれだけあっても、学力がどれだけあっても、教師になれない人はたくさんいます。
また、教育学部自体の就職率も低いですし、
教師ほど潰しのきかない仕事もありません。
(職歴に「教員」と書いて途中入社が有利になる企業がどれだけあるでしょう)
教師になれれば安定した生活がある程度保障されますが、
今は「問題教師」を見張る動きも強くなり、それも安泰とはいえなくなっています。
つまり、「教師を目指すことはそんなにおいしいことではない」のが自明の現状です。
また、昭和初期頃まではあった保護者の教師への信頼や尊敬、子どもの教師への尊敬が失われ、
親が平気で子どもの前で教師を罵倒したり、見下すような発言をしたりするようになり、
教師を「聖職」と捉えられない風潮になっていると思います。
(ここに学力の問題は内包していると思いますが。自分の偏差値を出して「(教師に向かって)あなたなんてどこどこ出のくせに」と平気で言う親もいますから…)
これらの問題をクリアしなければ、本当に良い人材が「教職」に求めるのは難しいように思いますし、
正直学力の問題ではないように思います。
また、それならば志のある人格的に優れた人間だけを採用すればいいと考えるかもしれませんが、
これは入試時点ではなく、教員採用試験の問題になってくると思います。
未だに縁故や学閥がまかり通る地域もあるという話も聞きますし、
安定を手放せない教員たちが辞めない上に、少子化の影響もあり、採用枠にも限界があります。
地域によっては新任は僻地赴任を暗に強要、示唆されたり、
未だに特殊教育専任の教師枠をつくっていない地域もあります。
(つまり特殊教育用の学習をしていない教員が特殊教育の現場にいきなり赴任させられることがあります→意欲があっても疲弊して辞めてしまう)
それでも近年は面接重視の傾向が強まり、学力だけでなく、実践力を求められるケースが増えているようです。
(ただし、実際のところは試験内容が基本非公開なので…)
こうしたことから、私はむしろ教員採用試験を公開してきちんと討論すべきだと思っています。
ちなみに教師の質に関わる問題として他には、
講師制度(企業で言う派遣社員・契約社員のような位置づけ)や、
教師自身の社会経験の乏しさがあると思います。
(企業勤めをすれば誰でも知るような一般常識を知らない人が多い)
長文回答有難うございます。
おっしゃること、納得できました。
就職率はそんなに低いんですね。知りませんでした。
回答内容を見ると、確かに、教師になりたいと思う学生が減るのもうなずけます。
教員としての資質を上げることは、大学だけで行うことではないし、大学時代だけでどうなることでもないと思います。教師は変化する子供たちのまえで、常にその変化に耐えれる研修の場が必要であり、それの基盤を作るきっかけを提供するのが、大学であると考えます。決して大学での学習だけで出来るものではありません。したがって、理工学部・・・etc、学部格差はないと思いますが、教育学部での教育実習の経験の差はおおきいと判断できます。
二回目の回答有難うございます。
教育実習の経験がモノを言うということですね。
言っている事に対しては賛成です。私の私感を。
・昔は頭のいい人が教師になっていました。他に良い就職先が無かったからです。(戦前の話)。しかし、今では頭のいい人が付く職業はたくさんあり、それらに比べ教師は見入りの良い職業ではなく教師のレベルが落ちるのは仕方の無いことだと思います。
・教師自体のモラルが下がっているのではなく社会全体のモラルが下がっていると思います。教育学部のみやり方を変えても、その方法がつらければ学生は他へ逃げてしまうと思います。教育全体で何とかしないといけません。
教育全体に関わる話は短期では難しく、また多方面に渡るためここでの議論には難しいと思います。そこで、考えるべきは今の現状で教師のレベルを上げる方法です。
・知り合いに教師がいますが、彼らの話を聞いていると正直甘いです。まず、授業等に対して、第3者(これは学校外の人を指すのではなく、単に同僚の教師も含みますが)のチェックが殆どされません。レビューみたいなものがほとんどされず、他の先生がおかしいと思っても中々言い出す機会が無いようです。これは教師の管理の仕方に問題があると思います。民間の企業では結構こういうレビューの機会は多く、一人で仕事をする事は無い事もありますが、改善の余地はたくさんあると思います。マネジメントの問題になるので校長、もしくは教頭のマネジメント教育が必要だと感じます。仕組みの問題ですね。
なるほど。最後の部分はへー。って思いました。
一度教師になってしまうと結構ほったらかしにされちゃうんですね。
確かに、マネジメント、私も必要だと思います。
他の職種より給料を上げない限り、教師のレベルは上がらないと思います。今でも国家一種が人気あるのはこういった理由だと思います。
すみませんが、教師のレベルを上げるためにはどうすればいいか。という質問ではありません。
同じ大学内で教育学部が他の学部に比べて入学時の偏差値が低くても、特に関係がないと思います。というのも、例えば、理工学部に行きたい人がどうしても理工学部に行きたければ、自分の入れる偏差値の大学を目指すと思います。教育学部なら入れるので入るという人は、あくまでその人の選択だと思います。
しかし私が以前からずっと問題だと思っていることは、本当は自分は教員には向いていなく、教員になりたい強い意思はないのだけれど、教員採用試験に合格したので教員になってしまった、という教員が少なからずいるということです。実際に教員に不適正な人でも教員採用試験に合格してしまうので、これは大きな問題だと思います。
なお、福岡のいじめ自殺の発端となった教員は、一日も早く辞職して、退職金はすべて返納してください。そして、一生、砂漠で働いて緑化の仕事をしてください。
確かに、conduct_1_1さんがおっしゃっている事は問題ですね。
いやいやながらしょうがなくやってる教師は結構多そうですね。
私も小学生の時、教師にいやな思いをさせられました。その教師は、黒板の前に一人の問題児を呼び出して、顔の脇に手をつきながら大声で怒鳴り続けて授業を潰したり、すこしからかわれるだけでいきなりキレて、あとから親への口封じに来たりと、今思えばかなりの問題教師だったように思いますが、今や校長になっているらしいです。本も出版しています。
私の知人で、そんな教師ばかり見てきたから自分が教師になった、という人がいますが、やはり毎年カリキュラムが勝手に変わったり、いまだに講師待遇だったりと大変な思いをしているようです。
私も教師という選択肢を考えはしましたが、あの教師の様な人々を同僚として選択するのが嫌で、なりませんでした。結局、先賢の方のフィンランドの例のように、子供のころから教師という職業の素晴らしさを体験しないと、なかなかそうはなれないのではないかと思います。
私はイギリスの教育を少し学んだのですが、イギリスでだったら教師になりたいです。2年生くらいのクラスでは、教室に机はなく、じゅうたんの上に自由に座り、先生は「今日駅でこんな財布を拾ったの(ウソ)。あとで届けるんだけど、いったいどんな人が落としたのかな?」と自由な設問を投げかけていました。そこではわれ先にと答えを争う活発な子供たち。机に座って教科書を読んでいる私たちとは大違いです。学校経営の裁量も大きいです。
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/education/education013.htm
知人のように「あえて」教師になった人や、高い志を持って教師を目指す人もいらっしゃるとは思いますが、むしろ教育に関して問題意識があるからこそ、このシステムではダメだ、この状況では自分のやりたい事は何も実現できずにストレスばかり溜まってしまうに違いない、という、逆の判断を下してしまう志のある人もいるのではないでしょうか。一部の賢明な人は、文科省を目指しているかもしれませんが。
質問の主旨とは少しずれていますが、ありがとうございます。
たしかに今は大学全体が、志望動機ではなく偏差値で振り分けられる形になってしまっていますから、難度の高い大学の難度の高い学部以外は全て、言っちゃ悪いですけどカスの吹きだまりなんですよね。偏差値的には。
そして昔から教育界には「デモシカ教師」という言葉があります。教師に「でも」なるか、教師に「しか」なれない、といった学生のなれの果てを揶揄した言葉です。既にこれは大学が70年代安保で揺れていた頃からあった言葉らしいですから、実に教育を取り巻く環境は深刻です。
しかしまだ70年代は「師範出」の教師達が先輩として学校の最前線で教鞭を執っていましたから、その先生方の働きで、何とか現場は一定のレベルを維持できていたんです。
師範学校出の教師には、概ね次のような特徴がありました。
このおかげで、カスの吹きだまりから巣立っていったデモシカ教師の卵たちも、学校という現場での「卒後教育」によって鍛えられ、叩き直されていったんですね。だから昔はそんなに問題は起こらなかったんです。
しかし今は、そうした学校現場での「卒後教育」を担える老練な教師は影を潜め、デモシカ教師がデモシカ新卒の面倒を見る時代です。
おまけに教室というのは一種の閉鎖社会ですから、そこにお山の大将として誤った君臨の仕方をしている教師がいたとしても、往々にしてそういう学級経営は子供を押さえつけて従わせるわけですから、表面的にはいい子ちゃん揃いに見えやすく、問題が起こるまではむしろ他の教師から受ける評価は高かった、などという困った実情まであるわけです。
昔ならそういう隠れた問題も、老練な先輩教師が鋭く見抜いていたと思うんですけどね。
そんなわけです。とにかく今は大学の募集段階で、本当に教師に適した志望を持つ学生を集めるしかありません。そのためにはたとえば、教育学部は全て6年制とし、他学部で教職課程を取る場合も必ず教育学での修士課程を修め、それからですければ教員免許は取得できない、といった制度に改めていくことが必要かなと思ったりします。つまり教師を選べば他の就職が困難になるくらいの道にしてしまう、ということですね。
学部時代には、まずしっかりと人格形成の基礎となる科目を修めさせ、高い教養と高潔な人格を形成させ、そして他学部にない実社会に密着した経験などを養っていくことを重視していきます。ここで、うわー、教師なんてとても俺には無理だよという学生は、途中で他学部へどんどん移行させていきます。
そうして5年次から、教育学の専門課程に入っていくと。これできっと教師の質は飛躍的に高まります。
医者だって最低6年大学へ行かなかったらなれないんです。そして医師免許を取得した後も、ずっと卒後教育が続いていきます。「先生」と呼ばれる立場の人間には、そのくらいの厳しい制度が必要です。
質問を理解してくれて有難うございます。
なるほどです。納得しました。
確かに、先生と呼ばれる職種のうちでは比較的簡単になれ、若干22~23歳ぐらいで親からも先生と呼ばれるのですから、勘違いしてしまう教師も多いと推測します。
12の回答者さんのいう管理職のマネジメント教育の必要性に同感です。
管理職は現在、一般の教職員が試験を受けてなるようです。
民間からの管理職も現在いますが。
一般の教員であった人が、今度は学校全体を動かすことは大変なことだと思います。
優秀な管理職によって学校が教師が変化した例はたくさんあります。
仕方なく教員になれるほど数年前は教員採用試験に受かりや状況ではありませんでした。
きっと熱い思いや志を持っていたの人が多くいたと思います。
しかし教職について、その思いが消えてしまった人もいるのではないでしょうか?
教師になってから、教師をどう育てていくか。職場の環境、管理職の能力、研修のありかたなどが大切だと思います。
その管理職登用試験(?)は受験資格みたいなものはないんでしょうか?
例えば、教員歴○年やある一定評価以上とか。
もし厳しい受験資格が無いのだとすればそれは大変な事ですね。
能力が無い人が教員になるのも恐ろしいですが、それが管理職となるともっと恐ろしいです。
2回目回答なのでオープンポイントを送信させていただきます。
http://item.rakuten.co.jp/book/1108695/
この本を持っているので読み直してみました。
アメリカのスタンフォード大学では試験が終わると教師を生徒が採点するそうです。
この教師の教え方は何点かということです。
ここまで極端ではなくとも、何か授業の質を判断する仕組みはなくてはならないと思います。
頭のいい教師が教え方が上手だとも、人間性が優れているとは限りません。
私の父は高学歴で優秀な技術者でしたが、「自分の子供を幸せにさせたくない」という考えを本気で持っていました。
偏差値と教師としての質とは無関係だと思います。
東京大学へ入学した生徒はお金をかけて学校以外の教育を受けた人がほとんどだとテレビ番組で先日いわれていました。
塾や家庭教師のように民間の企業は同業者との競争があるために授業の質を上げなければ、生き残れません。不適正な講師はすぐに排除されるなどの事情があります。
やはり現在の教師は授業の質を上げることを考えず、事務的に教えているだけという印象があります。
それは教師を指導するシステムがないからだと思います。
私としては、不適正な教師をすぐに辞めさせる体制があれば必然的に質が上がると考えています。
オープンポイントというものがあるのですね。
気を遣って頂いてありがとうございます。
塾には売上(生徒数)確保などの要素もありますから、単純に比較は難しいでしょうけれど、教師の質を監視するような、何らかのシステムは必要でしょうね。
ただ、学校には塾とちがって人間関係の作り方や情操教育という重要な側面もありますので、教師がコロコロ変わってしまうというのでは、授業以外の部分での生徒へのフォローが心配です。
僕も、今回の事件は本当に許せません。
先生と呼ばれていると、だんだん自分が偉い人のように思ってしまうのではないかと思います。大きな勘違いなのに。
まず、一度先生になってしまったら安泰だ。というところが、大して先生になりたいという熱意のない人が持つ、教師という職業の魅力なんだと思います。
まず、5年契約とかにしたらいいんじゃないかと思います。5年たったら採用試験を受けなおすとか。5年教師をやった経験があるなら新卒の人より普通なら合格する確率が高いわけですから、よっぽどでない限り5年ごとに更新していけるはずです。それができないような教師は教えてはいけないと思います。
教育学部の偏差値が低いというお話ですが、5年更新の制度を導入すれば、その対策をきっちりできない大学の教育学部は廃れていくだろうし、対策のできる教育学部は人気がでて、偏差値もあがるのではないかと思います。
教育学部って大学による特色が出しにくいので、選ぶ基準があればいいところだけが残っていくかもしれないと思いました。
更新制度を導入したとして、大学が対策をとっていても、教育現場がそれに追いついていかなければ無意味になりそうな気がします。
義務教育の教員に限定した話ですよね?
教室を監視して、リアルタイムで父母がアクセスできるサイトで公開。
生徒と父母による、教員の評価を義務付ける。一定水準以下の評価が続いた教員には、強制的に講習なり指導なりの処置を行う。運転免許みたいにね。
学校とは別の機関に雇われたカウンセラーと、警察官を自由に巡回させ、生徒と自由に、学校の介入なしで会話できる機会を与える。
これでかなり改善されると思う。
人材を作ることも重要だけど、現場を管理したほうが早い
警察官??
この質問は、安易に教育学部を選ぶ事の是非について聞いています。
私自身小学校低学年で同じような「いじめ」を担任の女教師から受けたことがあります。楽天的な性格だったせいか、思い詰めるところまでは行きませんでしたが性格に暗い陰を付け加えてしまったようです。尤も同級生からあれほどの「いじめ」は受けませんでした。当時の事を考えるに彼女の責任感と想像力、注意力の欠如が原因に思えます。小学生の担任といえば実質的に期間限定ではありますが小さな王国の指導者として集団を指導しなければなりません。当然、指導者としての義務や責任もありますが、この場合に問題なのはタブーを踏み外してしまった、あるいは「これくらい良いだろう」とタブーを安易に犯した事、と言えます。もしかすると当然知っているべきそれらの基本を知らなかった事さえあり得ます。安直な事案の処理が致命的な結果を引き起こすかもしれない典型例です。逆に言えば、その辺りの基本を教えていない、あるいは軽んじている、現在の教員の養成および管理のシステム。その根幹を成す基本理念ではなく、理念を実行するシステムそのものの内部に甘い体質、教員同士の内部の争いをなし崩しにするシステムが原因だと感じます。業務の報告や公開が行われないのが民間との最大の違いでしょうか。そのために内部に甘い管理体制が許されているようです。件の「いじめ」を誘発してしまった教師も、思いもよらなかった事で反省している旨コメントしているようですが、基本さえ知っていれば故意でなければ行わない言動であることは理解していません。
ありがとうございます。
http://q.hatena.ne.jp/1160963842
ダミーです。
私の経験からすると、教師で本当に良いと思える人は一人いるかいないかでした。
教師になる人は挫折をしたことがあまりなく順調に人生を送ってきた人が多いと思うので、やんキー先生のように、だめだったけど今は教師というほうがよいのかもしれません。
知識は豊富でも、人の気持ちがわかっていない、教師はそれほど立派でもないのに偉そうにしていてそういう考えが間違いにつながります。
すみません。質問の主旨と違います。
質問とは少しずれるのですが、
皆さんが言っている『教師の質』と漠然といっていますが『質』とは何なのでしょう?
教師の質といっても千差万別です。問題を分かりやすく教える教師もいれば、生徒の相談を的確にに解決できる教師もいます。どちらも備えていれば最高ですが、そんな人滅多にいません。
それをすべての教師に求めるのは無理な問題です。教師だって人間ですからすべてをうまくこなせる訳はありません。それなのに生徒が問題を起こすと教師のせいにする社会風潮はどうかと思います。
ニュースを見ていつも思うのですが、いじめられた生徒にも絶対に問題があります。私は両方の立場を経験したので分かるのですが、周囲の責任にするのは親の責任逃れです。
質問の趣旨からずれたのでポイントは要りません。
後、
『>採用試験にうかるのに2、3年かかる人もたくさんいる
その人たちは本気で教師になりたいと思っていないのでは?と思ってしまいますが・・・。』
というコメントがあったのですが、教師の採用試験はほとんどコネで決まります。本気で教師になりたくてもコネが無い人は採用されるのに何年もかかります。
コネですか?
にわかに信じがたいのですが・・・。
私も今回の事件、断じて許すことはできません。
何のえらい職業に就いているからと よく言われるじゃないですか、
「人間だから過ちはある」とか・・・
多額な授業料を払ってすごく立派な国立大学を出たからと言って 公務員等の優秀学歴を得ていないと 資格をもてない職業。
一般に取れない資格なんだからこそ 夢を持ってその職業につきたい人は 自覚というものをしっかり認識していただきたいです。
今に始まった事件ではないでしょうが、過去から あんないい人がなぜ?と周囲で話しに出てくるような人が殺人、という事件も最近はもっぱら少なくない。
小さな命を預かり、これから夢と希望を持つ子供たちを預かる職業に就くことに自身を失わせないよう、個人的には 毎年更新された試験をパスしていくという形でもとっていいものだと思います。
小さな命にどんな未来があっただろう、本当に許してはいけない忘れてはいけない事件のひとつです!
教員免許は一般的に取れない資格ではないと思います。
みなさん、多数の回答、有難うございました。
長文回答有難うございます。
おっしゃること、納得できました。
就職率はそんなに低いんですね。知りませんでした。
回答内容を見ると、確かに、教師になりたいと思う学生が減るのもうなずけます。