>この言葉に限った事ではないが、本質が汚い物ほど美しい名前が付き、何者かの意図によって意味が曖昧に「され」やすい点に注意すべきだ。
言いたいことはここでしょうか?
確かに「コミュニケーション」と並び「国際化」や「情報化」なども疑いも無くこれまでもてはやされてきた単語ですが、その表面だけを捉えずに本質を見極めることは大事なことです。
ただ文章としていきなり「コミュニケーション」について論ずると何を問題提起しているのか分かりづらかったので、最初に漠然と結論を持ってきて、その具体例として「コミュニケーション」について論ずれば良かったと思います。
これはまだまだ、論と呼ぶべきものではないようです。
先ず論拠となる何物かがない状態で、いきなり二つの面があると書いても、誰も納得しない。その後もそれを補強すべき証明や、論拠を示さないまま、自分の考えをさも事実であるかの如く、書いている。
これはコミュニケーシヨンに関する、個人的な感想であり、それをあたかも事実であるかのように書くのは、初心者が陥りやすい間違いであると言えましょう。
この作者は、先ず論文の書き方を、勉強しましょう。それから自分の意見を発表しましょう。
こんばんは。
mododemonandatoさんもおっしゃっていますが、
なぜコミュニケーションに2つの側面があり、
それ以外の側面がないといえるのか
(あるいは、なぜそれ以外の側面についての考察がなくてもいいのか)
がはっきりしません。
それがこの文章の致命的な欠陥だと思います。
この2つが単なる例にしかならなくなってしまうからです。
というコトは、この2つから確実に言えるコトはなくなってしまうのです。
仮に私が観察した鳥がみな飛ぶからといって,全ての鳥は飛ぶとは言えません。
それと同じコトがこの文章の中で起きています。
「波風を起こさない能力」の中でも同じような事態が起きています。
「「波風を起こさない能力」とは…」と文が始まっていますが、
この文、例示の集まりに終始しているのです。
つまり、「波風を起こさない能力」がこの文で説明されていません
(言い換えが挙げられていますが、これは説明したコトになりません)。
例示は理解を助けるためのモノなので、
例示がなくても文章が読めるようになっていなければなりません。
「腹芸をする能力」のほうは、フーコーの権力論を想起させますね。
ここでは先人の知恵を踏まえ、
それとどう同じなのか、あるいは違うのかを明示させるために
フーコーの議論について言及する必要があると思います。
Hatena寿司での酔っぱらいの戯言
そういえば思い出したが、「波風を起こさない能力」と「腹芸をする能力」て、一昔前の凡庸で陳腐な「日本人論」そのものだな。
ネットの凶暴なヤシどもに身をさらし批評を仰ぐその覚悟は尊重するが、その覚悟の割には、ちと切り口の素材が古すぎやしないか。ネタが古すぎちゃ、喰うものも喰えねえって感じだなぁ。喰い飽きたしな。
このHatenaと言うまな板は、新しいコミュニケーション(Web2.0)の聖地だよ。ここでコミュニケーションを語るならせめてWeb2.0的なワサビを利かせてネタを仕込まなくちゃ。
単純にブログという自分ちの座敷で個人的な日常の思想的断片を握っているのであれば、文句ねえけど、ここに自ら出てきたのは大将だしな。少しは喰ってる連中の顔を想像しろって言うんだよ。
自分の立ち位置をもっと意識して仕事しなくちゃ。それがプロの仕事ってもんだよ。
いま足りないのは、そういうセンスじゃないのか。
もっといろんな美味いもん喰って、センス磨くんだな。喰う量が全然足りないよ。喰って、喰って、喰いまくって、この板にまた戻ってこいや。
んじゃ、上がりね。
確かにそうですね。
文系が理系を権力下に置く、という構図は日本社会のあちこちで少なからず見られるものだと思っています。
ただ、この人が書いている「波風立てない能力」「腹芸をする能力」というのは、今までもこれからも「処世術」ということばで十分に表現しうるもので、昨今流行りの「コミュニケーション能力」ということばを出すのはなんだか不適切のように思います。
「処世術」と「コミュニケーション能力」というふたつのことばが示すところは確かに重なる部分もありますが、まったく同じ意味で使われているわけでもないですし…。
>この言葉に限った事ではないが、本質が汚い物ほど美しい名前が付き、何者かの意図によって意味が曖昧に「され」やすい点に注意すべきだ。
これもよく言われることですし、まったく同意ですね。
ごまかして、だまくらかして、おいしいところを持っていくのが上手な、ごく少数の頭のいい人に、大多数の凡人はそうと気づかずだまくらかされているわけですよね。きっと。(あるいは気づいていても何もできないことを悟って沈黙を守っている、か)
ごちゃごちゃしていて何を論しているのかさっぱりわかりません。
コミュ二ケーションのことをいいたいのではないかと思いますけど専門的になりすぎていますね。一般人には難しいです。
言いたいと思われることにはおおむね賛成できます。
日本独自の周囲に溶け込む、と言う志向性とコミュニケーション能力という言葉をつなげるというのは興味深い考えだと思えました。
しかし、(私の読解力不足かもしれませんが)最後に「言霊の怨霊はいつでも殺意に満ちた目でこちらを見つめている」と言う一文をおいた意図がいまいち分かりませんでした。
感想1 見出しの奇矯さ
一見、まともな議論に見えます。しかし、冷静に考えるとちょっとおかしい。
一般人が通常使うことの無い言葉を使ったり(例:処刑斧を振るった)、そういう言葉で注目を集めたりするあたりの態度は、淋しがり屋で目立ちたがり屋のルサンチマン系ブロガーという印象を与えはしても、学問的誠実さとはおよそ程遠いという印象があります。
なぜこの人はそんな奇矯な見出しをつけているのだろう? そんな奇矯な見出しをつけることによって読む手の信頼を失うことをなんとも思っていないのだろうか? 読む手の信頼を失うようなコミュニケーションに不誠実で無頓着な人物がコミュニケーションについて筆を振るうという態度は自己矛盾しているのでは? などというような疑問がわきます。
感想2 二元論への飛躍
本当ならば多用で多元的な分析ができるのに、「コミュニケーション能力という言葉には2つの意味がある」としてふたつの類型に強引に単純化させようとしている点に違和感を感じます。
「波風を起こさない能力/腹芸をする能力」という二元論は、その中間的な領域や二元論の外にある領域を占めるコミュニケーションを認識から排除するという効果をもたらします。まさにその効果こそが、文を書いた論者の隠された本当の意図・動機なのかもしれません。
感想3 コミュニケーション能力は単なる多数決ではない
たとえば、流通現場で商品の価格を提示するというコミュニケーションについて考えたとき、店は多数の客の気に入る価格を提示すれば多数の客はいつも買ってくれますが、客が受け容れる価格だけを提示するだけでは利益はあがらず現実には商売になりません。
なぜなら、商売は競争であり、どこの店での客の気に入る価格を提示しているので、価格だけで勝負している店は差別化の中で取り残され、薄い利益しかでず、客は差別化をしている他の店に行き、競走に負けてしまいます。
つまり、価格による多数決モデルのコミュニケーションには限界があり、現実のコミュニケーションでは、多数が納得する価格を提示しさすれば多数の客に買ってもらえるというものではありませんし、期待する利益がでるというものでもありません。
論者の頭の中の現実では多数決的な関係性しか存在しないのかもしれませんが、現実の流通の現場はもっと複雑です。
論者の理屈では「100人の人のうち99人が100円で買うと回答しているのなら、100円で売れば客は維持される」ということになりますが、現実の流通はそう単純ではありません。「100人の人のうち99人が100円でなら買い、100人のうち99人が500円では買わない」と回答していても、500円で100人のうち30人が買うという状況が頻繁に発生し、そういう店が発展します。
なぜか。たとえば、利益1円の100円の商品を100人に売る場合は100円の利益しかありませんが、500円で売れば401円の粗利が出るような商品の場合、1個でも売れれば401円の利益になります。
粗利401円の一部(流通現場では5-15%程度)を公告などの販売促進費用にまわして500円でも買う客を0人から30人に増やせば、販促経費を差し引くと350円の実利を獲得できる500円の商品を30人に売ると仮定すると10500円の利益が出ます。
つまり、コミュニケーション能力とは、単純な多数決システムではない場合もあるです。特に商売の場合は、単純な多数決ではない。
かといって100人中100人に対して意図どおりに動かすシステムでもない。コミュニケーションは0か1かという二項選択ではなく、少数を多数に変えるための活動(またはその逆)という分析も可能ですが、論者の議論はそうした中間領域的な現実のコミュニケーションを議論から排除し、0か1かという具合に単純化しすぎています。
感想4 意図どおりの結果をもたらさないコミュニケーション能力もある
感想2でも書きましたが、100人の客の全員に商品を買わせることだけがコミュニケーション能力ではなく、100人中30人だけに商品を買わせ“差別化によって利益をあげること”が現実の流通現場では求められています。利益が一番よく出る30人に商品を継続的に買わせ続けることが店の利益につながるのであって、利益が出ない客を含めた100人全員に買わせることはむしろ継続した利益をあげるという本来の目的から外れることになります。
ところが、硬直化した組織では、利益があがらない努力を延々とつづけて組織を衰退させるということがたびたび起こります。たとえば、継続的な利益をあげるという本来の目的を忘れ「来客数一位の店に賞金を出す」などという短期目標を組織が掲げて実施したような場合、現場の店長や従業員は短期間に客を集めることが絶対的な目標となり、利益を失っても目先の客数だけを確保して個人的な賞金を得ようとします。その結果、利益はどんどん減ってゆき、利益のあがらない客に奉仕するためにますます利益を削って客の確保を図るという悪循環を招くことになります。
つまり、意図どおりの結果をもたらさないコミュニケーション能力というのもあるのです。
賞金を獲得するという短期目標についてだけ考えれば、来客数だけ得ようとする行為は望ましいコミュニケーション能力です。しかし、組織の継続的利益と発展という目的について考えると、来客数だけ得ようとする行為は望ましいコミュニケーション能力ではありません。
これは国家規模でもそうです。古代では、戦争に勝つためにはたくさんの兵隊がいる軍隊が勝利をもたらすと考えられ、たくさんの傭兵を雇った君主が良い君主とされてきました。つまり、職業軍人の数=勝利であり、強い職業軍人をたくさん集める能力が君主に求められるコミュニケーション能力だったわけです。しかし、傭兵は、戦争が長く続けば長く続くほど仕事と利益がたくさん出るため、傭兵たちは戦争をわざと勝利せず少しずつ戦って時には負け、戦争を長引かせようとしました。その結果、戦争は長期化し、戦争に支出する国費は膨大なものとなり、傭兵をたくさん雇って軍事力を大きくした国が早く衰退して滅亡し、外交に国力を注いだ国が繁栄を続けるという現象が起きたのです。(現代社会でも兵器商人が不要な戦争を企画してたくさん兵器を買わせ、使わせ、超大国が衰退していくという現象が発生しています)これはまさに意図どおりの結果をもたらさないコミュニケーション能力の一例です。
つまり、コミュニケーション能力は目的や目標によって変化し得るものであって、なんでも結果をだせばよいというものではありません。
コミュニケーション能力の評価は、目的や目標に依存するのであり、結果が目的や目標から外れていた場合は、どんなにコミュニケーション能力が高くてもそれはマイナス能力となってしまいます。
感想5 現実の具体的な事例から帰納的に分析していない
論者の書いたエントリーは、具体的の現実の事例に欠けており、現実味がありません。
頭でっかちの自閉的な理屈屋が無理な屁理屈をこねまわし、その不自然さや矛盾を隠すために抽象的な言葉をデコレーションし、空中戦的議論に終始している、そんな印象があります。
現実の具体的な事例から帰納的に分析するという作業を論者は放棄しているため、現実味や説得力が無く、二元論への飛躍や奇矯な言葉が出てくるのではないかと思います。
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