それでは、真理は知りえるのか。
>真理について知ろうとする時
この時点で、知りたいという気持ちがあるということですね。
知ろうとするのに 知ろうともしないしというのは、矛盾しています。
http://www.penguinclub.net/nakao/sermons/eph3-14.html
>真理を知りたいと思うなら、聖書をよく読み、よく学ぶことはもちろんですが、その前に「栄光の父よ。あなたとあなたのことばを知るため、知恵と啓示の御霊を与えてください。」と祈る必要があります。祈りなしに、神の真理を理解することはできません。そして、神の真理を知らされたなら、その前にひざをかがめて、祈りと礼拝をもって、その真理に応えるのです。それによって、私たちは真理を自分のものとすることができるようになります。祈りによって真理を知り、祈りによって真理を自分のものとするのです
それこそが真理の1つだといえます。
すべての現象は人間に観測される事によって存在する。という言葉があります。
誰一人として『真理』という存在すら知らなければ知ろうとも思いません。誰かが気づきそして観測する事によって『真理』という存在になり、その存在を知った者がそれを知ろうとします。が、真理を知る事は出来ません。それは、誰一人として同じ真理を観測する事は出来ず、人の数だけ真理は存在するからです
人によって性格や経験の違いによりその人が観測できる現象は違ってきます。真理というものはそれを元に観測するものなのです。
私の書いた上記のことをそのとうりだと思うならそれはあなたの真理の一部です。そうではないと思ったなら私の考えはあなたにとっては真理にはなりえません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%9F%A5
ソクラテスの言う「無知の知」ですね。
真理は人知を超えたものとも考えられます。
そうすると、真理を探究しようとする姿勢、そのものが真理と考えることは出来ないでしょうか。
「発心即到」と言う言葉もあります。
悩むのは、この発語自体が真理の主張であることです。
考え方が極端だからいけないのではないでしょうか。
「知らない」と「知っている」の間には、
かならず「聞いたことあるけどそれって何?」
っていう時間は少なからずあると思います。
真理についても、その言葉を知って、考えてたどり着く、
という状態があると思います。
それが知りえるなんじゃないでしょうか。
真理が彼方にあるのではなく、足元にあるということから出発しなければと思っていますが。
「真理は、知り得る」
「真理は、知り得ない」
「真理は、知り得るものであるとともに知り得ないものでもある」
「真理は、知り得るものでも知り得ないものでもない」
このなかのどれかですよね。
でも、このなかの特定のどれかであると言った途端に、あなたの謂う「真理の主張」になってしまいます。
つまり、あなたの謂う「真理の主張」にならない範囲で真理を語ろうとするなら、「真理とは上記の中のどれかである」までしか行けません。
高校の同級生に真理ちゃんというかわいい娘がいました。
真理ちゃんについていくら知っても、もっと知りたいと思っていました。
冗談はおいといて・・・
「真理ちゃん」のように具体的な対象があればいいのですが、
そもそも真理とは何でしょうか、
真理について知っている、とはどういう状態でしょうか。
あなたは何をを求めているのでしょうか。
この陳述から想定される「真理」とは、「真理そのもの」と、「真理の存在」の二通りであると考えられます。例えるならば、「真理の存在」とは壷であり、「真理そのもの」とはその中身です。壷があることを知らなければ、その中身について考えることもないでしょう。逆に、壷があることを知っていることが、中身を知っているということにはなりえません。
「真理の存在」について、誤解を招くといけないので補足しておきます。例えば「真理」をパンダと置き換えてください。「パンダの存在」を知るということは、「世の中にはパンダという生き物がいるのだな」ということを知るということですね。しかし、それだけでは「パンダ」を知ったことにはならないでしょう。白と黒のツートンカラーで、笹を食べる中国の熊に似た生き物といった情報を得て初めて「パンダ」を知ったと言えるのではないでしょうか。こちらが「パンダそのもの」ですね。
となれば、質問者さんのおっしゃることを言い換えると(質問文から読み取った私の解釈です。間違っていれば補足願います。)、「真理の存在を知らないならば、真理そのものを知りえない」し、「真理そのものを知っているならば、真理そのものを知ろうとしない(なぜならすでに知っているから)」となり、両者は背反しません。よって、命題とされている「真理は知りえるのか」という質問には、「可」と答えることができます。
と言うことが真理であると主張していることにならないでしょうか。つまり入れ子の構造になっていて、結局、真理をかたってしまうことになるのではないでしょうか。