有難うございました。すごい…御博識にただ驚きです。
愚君についてですが、すべて大学の日本政治思想史の授業で聞いた話です。決して叡君ではなかった…という文脈だったかもしれません。どんな君主にも絶対的についていかなきゃ…という文脈で引用されたのが例の短歌です。
必ずといっていいほど、その時代、その瞬間の背景と生き方が反映します。その部分を深く読み取ることが詩歌の意味を考える一番の早い方法です。
葉隠武士道にはむちゃな部分があるように思えますが、鍋島藩たるものがどういう存在であったかをよく理解できれば、いろいろな解釈がとれておもしろいと思います。
物事は外から内へながめてみる訓練を今からされていたら、きっとやくにたちます。
ですが、この歌に興味をもたれたことはたいしたもんです(^^ がんばってください。
説明はja3sjさんが上手くされていると思います。
森川さんとおっしゃるのでしょうか?
鍋島光茂公が”愚君”かどうか?光茂は1632年に江戸屋敷で生まれていますね。つまり関ヶ原の戦いの32年後ですか。
そして彼が治世をするようになったのは、1657年ですから、戦後約60年ですね。泰平の時代を謳歌したのは、戦後の今と全く同じと言って良いでしょう。
彼の側近は石田一鼎(儒学者)、はじめ僧の湛然などですがこれらの方々は藩祖直茂、初代の勝茂をよく存じているものばかり、気骨にあふれたそうそうたる者ばかり。
一方光茂公は、気の優しい文人肌、何かと肌合いのしっくりいかないところがあったのでありましょう。
光茂公は1662年、追腹禁止(殉死を禁止する令)をだしています。幕府が武家諸法度で殉死を禁止したのはその翌年ですから、まあ、時の最高権威者の決定以前に、ある種の法令を設定し施行するということが当時としては如何に画期的なことかを考えると、愚君と呼ぶのはどうかと思います。
つまり、殉死などと言うことはするな、命を大事にして長生きをせよと言うのですから、いまの時代には受け容れられやすい思想と思いますがどうでしょうか?
一方、石田一鼎の流れをくむ、山本常朝らは『葉隠』にもあるとおり、”ツベコベ言わずに、ややこしかったら腹を切って死ね。”とこの方は、いささか短兵急なところはありますが、ある種の人間的弱さの克服の極意を述べていますから、まあ、両者は意気投合とは行きませんでしょう。
『大学の日本政治思想史の授業』云々ですが、ワシのH.P.座右の銘にもあげているが、
物無非彼、物無非是。
(読み)物、彼に非ざるはなく、物、是に非ざるはなし。
(訳)どんなものでも、見方によってすべて、ああでもあり、こうでもあるものである。 荘子 内編 斉物篇
最近は使われなくなった言葉に
『群盲象をなでる』と言う俚諺がありますね。『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』と言う言葉もあります。
人の思想を簡単に論ずることはできません。
最後に光茂公の和歌のことですが、この和歌を詠んだのが
14歳、率直で素直でよいじゃありません?これが40歳、50歳の人が詠んだというのなら、面白くありません。
詩の話をするのなら、万葉集があり、中国の詩経があります。私にはどちらの詩にも共通して言えるのは、実に素朴でホノボノとした心の安らぎを覚えると言うことであります。現代風には山頭火の詩を読んで見て下さい。きっと納得がいかれると思います。
『ワイは短歌つくったデー』、『エッ、ボンどんな歌出来ましたんや?』
”さむき夜にはだかになりてねたならば明くる朝はこごえ死ぬべし”
そのとおり、鍋島家は庶民の貧困、粥も食べられぬ者に善政をしいていることは枚挙に暇がない。
葉隠研究家 81歳の爺から
ご質問のこと
『分類・註釈、葉隠の神髄』P304 に記載されております。
念のため、そこを写し書きしておきます。
金丸氏話。光茂公御14歳の時御詠歌
さむき夜にはだかになりてねたならば
明くる朝はこごえ死ぬべし
以上でありますが、ご質問文中 ”愚君とされる彼”とありますが、何故愚君か、その出典をお教え下さい。-葉隠研究者 清水-