浜田「残さず食べ!アフリカの子供等は食べたくても食べられへんねんで!」
松本「アホ!その子らも腹いっぱいになったら残すわ!」
というのがありました。
てんこもり。 【お笑い】松本人志の名言・迷言21
http://tenkomo.blog46.fc2.com/blog-entry-261.html
読んだとき「上手いな!」と感心したのですが、
自分がどういう理由で感心したのか、いまだに理解できません。
誰か僕に解説いただけないでしょうか。
松本氏のこの言葉は、どこが卓越しているのですか?
それとも上手いと思ったのは僕の錯覚で、
何か論理のすりかえをしているのでしょうか?
松本人志の意見が的を射ている、つまり人に「うまいな」と思わせるのは、「そもそも条件の違っているものを比べることが無意味」と指摘しているからだと思います。
アフリカの飢えた子供たちと、食料に不自由しない自分。まず条件が違っているのですから、食べ物を前にしてとる行為も違って当然です。前者が食事をのこすことは稀でしょうし、後者にとっては日常茶飯事かもしれません。ところが、どちらも同じ条件にあったとして(食料に関する諸条件がまったく同じであると考えて)、そのときにとる行為に差異があるだろうか?ということを指摘しています。同じ人間なのだから、誰しもお腹がいっぱいになったら残すだろう、という結論にいたり、「そもそも条件の違うものを比べてどうなるんだ」ということを主張しているのだと思います。
純粋な本能だけを条件として、異なる人々を同じ土俵の上で比較したときに、なお卓越した点があるかどうかを見極めなくてはならない、という指摘の例としては、次のようなものも考えられるのではないでしょうか。
「長者番付にも載ってるようなやつが、100円ごときで騒ぐな」
「アホ!ビルゲイツだって落ちてる100円見たら、ちょっとドキドキするわ!」
松本人志の意見が的を射ている、つまり人に「うまいな」と思わせるのは、「そもそも条件の違っているものを比べることが無意味」と指摘しているからだと思います。
アフリカの飢えた子供たちと、食料に不自由しない自分。まず条件が違っているのですから、食べ物を前にしてとる行為も違って当然です。前者が食事をのこすことは稀でしょうし、後者にとっては日常茶飯事かもしれません。ところが、どちらも同じ条件にあったとして(食料に関する諸条件がまったく同じであると考えて)、そのときにとる行為に差異があるだろうか?ということを指摘しています。同じ人間なのだから、誰しもお腹がいっぱいになったら残すだろう、という結論にいたり、「そもそも条件の違うものを比べてどうなるんだ」ということを主張しているのだと思います。
純粋な本能だけを条件として、異なる人々を同じ土俵の上で比較したときに、なお卓越した点があるかどうかを見極めなくてはならない、という指摘の例としては、次のようなものも考えられるのではないでしょうか。
「長者番付にも載ってるようなやつが、100円ごときで騒ぐな」
「アホ!ビルゲイツだって落ちてる100円見たら、ちょっとドキドキするわ!」
tekenaar様、すばらしい解説ありがとうございます!!
なるほど、「そもそも条件の違っているものを比べることが無意味」という説明は納得がいきました。
ビルゲイツの例もうまいと思います。
ですが、すみません、ちょっと追加で考えてしまったのは、
浜田の「残さず食べ!アフリカの子供等は食べたくても食べられへんねんで!」
という言葉も、世間一般でよく言われる言葉で、みんな普段それほど疑問に感じませんよね。
だから浜田の言葉にも、それなりの正当性があるのでは、と思うのです。
浜田の発言(に代表されるこの言葉)には、やはり正当性は「まったく」ないのでしょうか?
それともある条件のもとでは、この言葉は正当になりうるのでしょうか?
自分(と、たぶん世間の多くの人)が、なぜ今まで浜田の言葉をそれほど疑問に思わず受け入れてしまったのか、その理由をぜひ知りたいです。
質問の主旨とずれますが、最近になってネットで話題になったこれを。
http://dtsm.blog40.fc2.com/blog-entry-6.html
まっちゃんの普段のトークを聴いてても、何がどうおもしろいかと言っても、使ってるボキャブラリーが別に他人と違うわけじゃないですよね。
やはり普通なことがらの中から、ひとには思いつかない少しはみだした考えを、ほぼ反射的に喋れるのがすごいところかなと思います。とは言っても横にはまちゃんがいて初めて成り立つ面白いやりとりも多いですが。
う、みごとにわかりませんでした・・・。
くう、悔しいっっ!!
楽しい記事の紹介ありがとうございました!!
悔しかったのでこちらも対抗。
関暁夫「ハローバイバイ・関暁夫の都市伝説」で
「有名な犯罪心理学のテスト」として紹介されているものです。
「夫婦と子供の三人家族がいて、夫が亡くなってしまいます。
その夫の葬儀に参列していた男に、
未亡人となった妻が一目惚れしてしまいます。
数日後、妻は自分の子供を殺してしまうのですが、
いったいなぜでしょう?」
判定は↓を。
普通なひとでした(笑)
ハロバイの関君とかは、フリーメイソンとか、あまりつっこんでいくのどうなの?ところに手をだしてますよね。
ええ、あの本は後半はちょっと弱いですけど、
前半は面白かったですよ!!
食べ物を残す事に対して浜田さんの出してきた「食べたくても食べられない可哀想な子供たち」という悲惨なイメージが、松本さんの一言をを聞く事で、おなか一杯で食べ物を残しているイメージに変化しています。
たった一言で、脳内のイメージを正反対に書き換えてしまった松本さんにid:lionfanさんは上手いと思われたのではないでしょうか。
flowerhill様、ありがとうございます。
いい答えだと思います。たしかに飽食の子供をイメージしてしまいました。
>浜田の「残さず食べ!アフリカの子供等は食べたくても食べられへんねんで!」
>という言葉も、世間一般でよく言われる言葉で、みんな普段それほど疑問に感じませんよね。
>だから浜田の言葉にも、それなりの正当性があるのでは、と思うのです。
>浜田の発言(に代表されるこの言葉)には、やはり正当性は「まったく」ないのでしょうか?
個人的意見ですが、発言させてください。
「正当性」という観点ではちょっとどうかとは思いますが
この言葉は
「お米一粒の中には7人の神様がいるから、ごはんは残さずきれいに食べなくちゃいけない」
「米粒を残したらお百姓さんに申し訳ないから」
みたいなのと一緒で、要は
「食べ物を粗末にしてはいけない」という"一般常識"(かな?)を
形を変えて表現している言葉であると思うんです。
(誰が最初に考え付いたのかと思いますよ、よく聞きますけど)
だから「正当性」というか、まあ比喩表現ということで
「しつけ」とか「マナー」とかそういった類の話ですよね。
で、このことを否定する人ってほとんどいませんよね。
「食べ物を粗末にしてはいけない」ということ自体に「ホントか?」みたいな疑問を差し挟むなら別ですが
取りあえず日本人は「食べ物を粗末にしてはいけない」という常識には
「そりゃそうだ」と思うし、「んなこたーねーだろ」とは言わないんですよ。
(そう教えられてきたというか、そう思ってるというか)
だからこれに対して疑問をはさむこと自体が
「この人常識ないんちゃうん?」と思われそうで、否定することはしないわけだと思うんです。
でも松本一志のような人だと
「常識」とされることに反するのではないかと思われる発言(実際反しているかどうかは別)も
「自分の方が正しいだろ」と思えば発言するんですよ。
ということだと思うんですが。
mizunouenohana様、ありがとうございました。
[1] 浜田の言いたいこと(食べ物を粗末にするな)自体は「正しい」
[2] だからそれに続く「アフリカの子供・・・」は、実は論理としては危ういのに、普通の人はつい見逃してしまう
ということでしょうか。いいご指摘、感謝です!!
普通の人間は、アフリカの飢餓について知識があり、南北問題の犠牲者や植民地時代の後遺症として認識するため、笑いの対象として考えることに思いが至らないが、松本はタブーを無視して発想を転換できるところに常識人は一瞬はっとするのでしょう。
しかし結局、そのように発想を転換することに対する嫌悪感があるため果たして先ほどの感心は正当であったのかと懐疑的になるのでしょう。
todo_todo様、ありがとうございます。
たしかにタブーを越えて考えられるということは、
知性の特質の1つですよね。
ポール・グレアムが「口にできないこと」でも言っていましたっけ。
松本人志ってどこか脱力系ですよね。
「無理はできない」
「がんばらない」
みたいなところが、気が抜けます。
「無理して食べれない」と思ったんでしょうね。
子どもがよくすっとんきょうな正直な会話をしますが、
それを思い出します。
純粋だからでしょうか。
fhkl様、初回答ありがとうございます!!
それだけでも質問の甲斐があったというものです。
たしかに常識にとらわれない本音、というものの強さを感じます。
tekenaar様、すばらしい解説ありがとうございます!!
なるほど、「そもそも条件の違っているものを比べることが無意味」という説明は納得がいきました。
ビルゲイツの例もうまいと思います。
ですが、すみません、ちょっと追加で考えてしまったのは、
浜田の「残さず食べ!アフリカの子供等は食べたくても食べられへんねんで!」
という言葉も、世間一般でよく言われる言葉で、みんな普段それほど疑問に感じませんよね。
だから浜田の言葉にも、それなりの正当性があるのでは、と思うのです。
浜田の発言(に代表されるこの言葉)には、やはり正当性は「まったく」ないのでしょうか?
それともある条件のもとでは、この言葉は正当になりうるのでしょうか?
自分(と、たぶん世間の多くの人)が、なぜ今まで浜田の言葉をそれほど疑問に思わず受け入れてしまったのか、その理由をぜひ知りたいです。