私は大学教員をしていますが,指導している学生には小飼弾さんのいう「バカ」になって欲しいとつくづく思います.ちなみにここでの「バカ」というのは,激しい情熱を持って何かに取り組むといったような,ある種の挑戦,非常識な取り組みのことだと理解しています.その結果,貴重な経験を得たり,視野が広がるといった,プラスの効果が期待できることは間違いないと思います.
どのようにしたら学生諸君に「バカ」になるための取り組みをはじめてもらうことができるでしょうか.
弾さんは気軽に「『バカ』になれ」とおっしゃいますが,同じことを学生に伝えても,それだけではなかなか難しいです.もちろん私の指導力不足が一因であることは承知しているのですが,それを補うなにかよいアイディアがあればぜひ答えをお願いします.
私の10年以上前の思い出からすると、学生時代というのは、
お金もないし(ある人も居たけど)
時間もなかった(ある人もいたけど)と
非常に足かせを感じる状態でした。
彼女・彼氏のゲットばかりに情熱を費やしてと嘆かれることが
多かったのですが、打算的だ利己的だといわれながら
彼女・彼氏を必死でゲットすることにより
学生にとってどれだけの時間と光熱費・食費が浮くのか
(逆に費やすことも多いけど)、
社会人は計算したことがあるのかヨと
思ったものでした。
心理的・社会的な枷があると「バカ」にはなりにくい。
というか、とてもなれない、なりたくないです。
では「情熱」はというと、これも心理的に
無駄にどんどん発揮することはできないですね。
たぶん、まずは「要領の良さ」ばかりを
追い求めてしまうのは仕方がないことなのです。
(それに社会人になってみると
要領が良いことは決して悪いことではないです。
誰でも払ってる税金をはじめとして、
要領をわかっていることでどれだけ得するか。)
ただ、今になってみるとそのくだらないけど必死な
「要領のよさ」が最終的に「バカ」だったということは
ありえます。
バカへの忌避感で、とっちらかった何でもありな未来への道を
追い立てられるようにじりじり進んでいるのが彼らです。
だから、「バカ」=「悪くない」を伝えるより
「「要領がよい」のなかに、後で見れば「情熱」になるものと、あとでみれば「バカ」になるものがある、その区別を今から大事に考えろ、人生は1つを失うことで一つを得る取引(ジャンプの漫画で有名な等価交換の原理。化学系なら質量保存則)の連続だが、
自分の人生の最終目的はなんなのかよーく考えろ、
卒業時の自分がどうあるべきか考えろ」と伝えるほうが
先決なんじゃないかなと思うんです。
よくあるノートのコピーにしても、サボりにしても、
最終目的とか順位がしっかりしていれば情熱ですよね。
逆にインターネットで情報収集してしっかりしているように見えても、
情熱が間違った方向にいって、怪しい掲示板の魅力にひきこまれて
夏休み中ずっと一日中張り付いているようになってしまっては
本末転倒です
10年ぐらいたつと,学生時代の貴重さがわかってきますよね.
>自分の人生の最終目的はなんなのかよーく考えろ、
これはそのとおりかもしれませんね.
長文の回答ありがとうございました.
「バカ」になる、というか、とりあえず、動機付けをさせなければならないのかな、と思います。
そこで、当方の経験ですが、以下の二つの手法をおすすめします。すでにやっておられたら申し訳ないのですが…。
また、対象とする学生の人数、専攻、学年によっても変わってくるとは思います。
(1)相互教授法
http://www.beatiii.jp/beating/017.html
簡単に言ってしまえば、「教えることによって学ぶ」ですが、グループの中で役割を明確にすることにより、立場が違うと見方がちがう、ということを実感させるものです。
社会人になると、こうした立場の違い、見方の違いというのは自ずとわかるのですが、学生の間は、同じサークル、同じ専攻、同じ出身などで固まるケースが多く、わかりにくいのではないかと思います。
最初は、教員と学生の間の相互作用(コミュニケーション)が大切ですし、それがないと成り立たないのですが、学生同士が慣れてくると、学生同士の相互作用でも、そして、自分自身のなかの相互作用(自問自答、自分で考える)でも、学習が成立することが期待されます。
(2)グループワーク
すでにされていると思いますし、また、前提条件として無理な場合もあるかもしれませんが、できるだけ、違う専攻、違う学年でグループを構成することをおすすめします。
これは、(1)とも関連するのですが、コミュニケーションを積極的に行わせるためには、「え?知らなかった」「そういう考え方もあるんだ~」と、ある意味びっくりさせることも必要です。
日々の学習の中で、こうした驚きを教員が与え続けるのはやはり、限界もあるので、これを学習者同士で行う、という方法です。
同じ事象でも分野が違うと切り口が違いますし、学部生と院生ではやはり「年の功」で、その分野に対する基本的な知識量が違う場合があります。また、社会人などが混ざっていれば最高ですね。
このグループワークにおいて、教員は、学生同士のコミュニケーションが活発になるようなテーマを作り、もしくはテーマを作らせ、環境を整え、たまにはカンフル剤で介入し…ということが必要になってくるでしょう。
参考になれば幸いです。
教えることは自分にとって最大の教育だったりします.私はゲームを研究分野の一つにしていますので,ご提案の取り組みの有効性もよくわかります.切り口を変えるというのはやはりポイントかもしれませんね.ありがとうございました.
http://blog.livedoor.jp/tomsatotechnology/archives/50067272.html
「バカ」になれないっていうのは、実はちょっと逆説的ですが、「視野が狭い」からなんじゃないか、と思ったりします。
「バカ」になる、っていうのは、ある意味、それまで自分の積み上げてきた分野での業績、知識、常識、パラダイムなど一切合財を捨て去る、ということは、自分にいま見えている視野を絶対視せず、相対化して、別の見方にシフトすることができる、ということですから。
そういう意味で、なんだか「バカ」から若干離れてきている感がしなくもないですが、哲学、思想、文学、芸術、宗教、文化人類学、民俗学、外国語(翻訳)など、おおまかに括ると、「比較~学」といわれる分野を学ぶことは、自分の視野を相対化するひとつの有効な手段かもしれません。
jobsのスピーチはいいですね.相対化する視点も大事ですね.特定分野の研究をしていると,つい忘れそうになります.
「一切合切を捨てる」というフレーズがぐっときた感じがします.教える方法についての質問だったのですが,やっぱり自分が得してるかもしれません.
旦那さんのようにならないか心配です..
http://icofit.net/library/training/prog.html
単純なところで、スポーツが一番ですが、時間が取れるかどうかが問題ですね。「エクササイズ ハイ」がお求めの精神状態に一番近いでしょう。昔は体罰紛いの教練で校庭50周とかありましたが、あれを効果的かつ無理無くやれれば理想的です。今の学生だと精々3周ぐらいで15分もあれば足りそうですが、後始末が大変でしょう。
運動でバカになれると言い切るとあらぬ方向から怒られそうですね(笑)
http://www001.upp.so-net.ne.jp/mori/essay/essay6.html
10年たっても、貴重というよりか、
なんであんなに忙しかったのか?
ところどころ記憶がないです。
たぶん、親の保護をはずれて一人暮らしをし始めるという
大事業にとりかかった時期でもあるからとおもいます。
私の場合は「要領が悪く」て
就職後まで自己管理未完をひきずりました。
有名な大学教授といえば私は森さん(数学のではなく、建築の)を最近思いつくのですが、彼は大学院へいってこそ
研究に情熱を傾けられるというようなことを言っています↑
学生にただバカになれというより
大学院へ行けといってみるのも
より具体化された言い方であるかもしれません。
自己管理能力は本当に個人差がありますね.
後半ですが,大学院にいってバカになれるのは,それこそ研究に情熱がある場合だけです.現実には逃避代わりの進学が多いですから,現実は難しいかもしれませんね.
ある意味「バカ」になって大学をエンジョイしていた人間として、
(もう十数年前の話ですが)
体制側ではなく、学生側に立って指導しようと考えてくれる教官が大学にいるということは、
とても嬉しいことだなぁと思います。
実際、自分(達)の大学生活の何割かは、そうした学生側に立ってくれる教官にこっそり守られていたことで成り立っていたと思いますし、
(もちろん体制側の教官も多かったですから)
長い間そういう教官に見守られていた先輩たちのパカっぷりを直接手本にしていたところもありますから、
基本は「多少のことは俺が責任取るから好きにやれ」的なスタンスを、
学生を裏切らないように継続して取り続けて頂けると安心してバカができると思います。
そうした中で、更に「バカはイイ!」と思ってもらうには、
やはり環境ではないかと思います。
それがバカをエンジョイしている先輩であり、教官自身だと思うのです。
正直私の担当教官は愉快なくらい「バカ」な方で、
ゼミそっちのけで自分の好きなことばかりしていて、
ゼミ内容より教官の世話ばかりしていたような気がします。
けれど、その教官と一度共通の話題が生まれれば時間も忘れて議論したり、
いきなり「じゃあ○○行ってみるか」と実地に行ってしまったり…。
そういう人に「好きにやれ」と言われていたので、
本気で「好きにやっていいんだ」と思っていました。
学生には「バカになれ」と言って、ご自身が堅実なことしかされないのでは、
あんまり説得力がないと思うのです。
ただ、これはある程度学生に「好きなこと」「やりたいこと」がある場合には有効ですが、
自分探し中の学生には全くすすめられません。
恐らくいきなり「好きにやれ」「バカになれ」といわれても、
教官に見放されたとか、放っておかれていると思ってしまうでしょう。
そういう学生に対しては、逆にいろんなモノや、考え方の切り口や、場面を経験してもらって、
自分がバカになれるものを掴んでもらうしかないと思います。
後は背中を押して、背中を見せて、背中を見守ってやってもらえると嬉しいです。
(調子に乗り過ぎない程度に…)
ちなみに私の通っていた所は他にも変わり者が多くて、
およそ大学の授業とは思えないような講義がたくさんありました。
某哲学系の講義の初回、簡単な哲学問答を提示されて、
「これに回答できたらもう来なくていい。秀をあげます」と言われたので、
本気で答えたら本当に秀をもらったことがありましたが、
その後講義にはいかないけれどもその教官の教官室でコーヒー飲んでは話をしたりするようになってしまいました。
大学の再編が進んで、就職率などの実績が伴わない教育を切り捨てようとする反面、
今までにない新しい教授法が求められる矛盾もあると思いますが、
本来大学は研究する場所であり、
教授が大学経営ばかりを気にして学生の顔色を伺うような講義よりは、
教授自身が心の底から自分の専門を楽しんでいる姿を見せてくれる方が、
私は従来の専門バカな学生が少しずつでも戻ってくるような気がします。
尚、コミックで恐縮ですが、こんな教授がいたらおもしろいなぁという教授が出てくる作品をいくつか。
(実際ここまですごいのは無理ですが)
もやしもん―TALES OF AGRICULTURE (1) (イブニングKC (106))
以上長文ですが、ご参考まで。
大変面白そうな先生ですね.参考になりました.