●古典主義:「古代ギリシア・ローマを規範とし」=わかります。
「理念の完全・明晰な表現、調和的な形式、想的な人間像を重視する」=まったくわかりません。
●ロマン主義:「恋愛、冒険物語のような」=古典主義とどう対比がなされているのか不明。古典主義は<思想・ノンフィクション>でロマン主義は<物語・フィクション>ってこと?
「自然に対する抒情的な感覚をもさす」=美しいものを比喩的にで修飾するってこと? たとえば<妖精の息吹のようにあたたかい春よ>とか、そういうことですか?
★おぼろげでなく、しっかりと掴んでいる方、解説お願いします。各主義のなりたちとか、代表にどういう人がいるとか、そういうんでなく、「どういう内容の作品をそう呼ぶのか」、ここをお願いします。URLのみや辞書的な説明の貼付けのみはご遠慮ください。
Nouveau roman
この質問は古典主義的で、この回答はロマン主義的である。
この疑問は古典主義的で、その解答はロマン主義的である。
その命題は古典主義的で、その結論はロマン主義的である。
>どういう内容の作品をそう呼ぶのか<
スゥイフト《ガリヴァー旅行記》は古典主義、ロマン主義の代表は、
デフォー《ロビンソン・クルーソー》、ともに燦然たる対比を示す。
第一部はノンフィクションと称して、自我を発見し、第二部で寓話と
認め、経済の概念を、第三部では反省録を追記して宗教の対立を論じた。
誰もが第一部を読むが、第二部は研究者、第三部は変り者だけが読む。
古典主義は抽象的思考で、ロマン主義は具体的経験である。
古典主義は比喩的論理で、ロマン主義は統計的推理である。
古典主義は叙情的解釈で、ロマン主義は情緒的告白である。
だれも歴史を見ることはできない。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050706
ヌーボー・ロマン
古典主義はヒストリーで、ロマン主義はストーリーである。
古典主義は過去の分析で、ロマン主義は未来への好奇心だ。
古典主義は演繹的手法で、ロマン主義は帰納的手法である。
私見ですが・・・
古典主義は、ギリシャとかイソップ寓話リスペクト。「神話・宗教の伝達手法」と「フィクション」が切り分けられていない時代を受け継いでいるので、ながらくフィクションを支配していた「予定調和」=「勧善懲悪(その時代でいう)」の心理的影響から抜け出せないものが多いのではないかと思います。
たとえですが、キツネ・狼が出てきたらたいていずるい人間のたとえとして、最後にひどい目に合う。神やその子孫であるヒーローは、周りからみてけっこうひどいこともしてるのに、褒められる(というか誰も咎められないのか)。今から考えると、その正義、間違ってるでしょ!とかご都合主義じゃん!と指摘できる点がありそう(もちろん、そういう欠点を補ってあまりある、その時代における完璧な正義、完璧な愛情etcを体現したような古典主義作品もあるでしょう)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E4%B8%BB%E7%BE%A...
それに比べてロマン主義は、キャラも人間なんだから、過ちを犯すこともあるということを受け入れた上で、フィクションはフィクションとして楽しめばいいんだよ~、とどんどん新たな情報やロマン要素(冒険、恋愛・・・)を組み込んでいそうな気がします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%B8%B...
すこしイメージの輪郭が締まってきました。やっぱ最終的には実際にいろいろ読んでみんとですかね。うわべの教養になっちゃいますしね。うん、ゆっくり、がんばってそうしてみます。おかげさまで興味はじんわり湧いてきました。
この春大学生になる私なんぞが答えてよいものかと思いますが、いっぱしの受験知識だけで書かせていただきます。
まず古典主義とかロマン主義とか、本を読む上ではレッテルを貼ることにはあんまり意味はないと思います(だから回答者が少ないのだと思います)。後世の人がそういう規範にあてはめているだけで、音楽と同様歴史と連動しています。
>「どういう内容の作品をそう呼ぶのか」、ここをお願いします。
ということなので、乏しい知識で答えます。もちろん僕はラシーヌとかコルネイユとかモリエールとか、デフォーとかミルトンとか、読んだことはありません。でも質問されているあなたは作品の内容が分からないのではなく、漠然ともジャンル分けの定義が感覚的に掴めていないよう(ですよね…?すみません)ですので、これに関してはわざわざ古い作品にあたる必要もないと思います。
僕が読んだ本でいいますと、フィッツジェラルドのグレート・ギャツビーなんかは、もう浪漫的心情の傑作だと思います。それは挑んで敗れるのがロマン主義の本質だからです。ショパンや、シューベルトのように。ギャツビーは五年も緑の灯火を…(すみません、熱くなってしまうんです)
シューベルトのソナタに関してもなぜプロのピアニストが挑むのか(彼のほかの歌曲にくらべたらつまんない作品なのに)、それは作品自体に欠陥があって、演奏家はその作品の前に敗れるしかないからです(と村上春樹は著作で語っています)
古典主義といわれるものの作品には、自我の発露が見られません。宮廷社会ですので。バッハの作品といえば一番ですけれども。それがハイドンになると、少しながら自我のほとばしりが見えてくるんです。それがベートーヴェンへ、という流れはたぶん説明がいらないとは思いますが、私に答えられるのはこの程度です。
冗長的な文章で答えになってなかったらすみません。失礼しました。
いえ、いいですよ。ありがとうございます。
意味がないとのご指摘はわかります。ただ、歴史を学ぶといった意味で、知識として「どういうものがそう呼ばれたのか」を知るのが目的なので、人によって解釈が違っていても、定義が曖昧なものであっても、それはそれで構わないんです。
村上春樹訳は評判いいようですね。読んでいませんが。
だいぶむずかしいですが、「ヒストリー対ストーリー」「分析対好奇心」はぼんやりイメージはつかめます。ありがとうございます。
文学における古典主義は1660年代フランスのラシーヌ、モリエール、ラ・フォンテーヌらの作風をさしてボルテールが後年そう呼んだようですね。英国ではドライデン、ポープ、ドイツではゲーテ、シラー。いろいろ読めばわかってくるんでしょうが、もっと手早く知れればいいなーと。