長崎の中華街に関しての歴史やうんちく、

成り立ち等、長崎の中華街に関する情報を教えて下さい。

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  • 終了:2007/03/28 22:27:05
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回答4件)

id:norita34 No.1

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ポイント22pt

http://blog.livedoor.jp/oyuki/archives/50139991.html

長崎の中華街 どの店に入るべきか

id:yuwa11

有難うございます。

2007/03/22 00:06:11
id:ushisuke No.2

回答回数114ベストアンサー獲得回数2

ポイント22pt

長崎新地中華街にある中華料理店「江山楼」のイメージソングは、さだまさしが歌、作詞作曲を手掛けています。

http://www.kouzanrou.com/

ホームページで流れています。

シングルCDは関係者にしか配布していないらしいです。

id:yuwa11

参考になります。

2007/03/22 00:05:53
id:daikanmama No.3

回答回数2141ベストアンサー獲得回数82

ポイント23pt

http://www.maruzen.co.jp/home/pub/chinatown/chukagai/nagasaki.ht...

現在の新地中華街は,1702(元禄15)年に海を埋め立てて建設された島が起源となっている。この人工島には,長崎に入港する中国の貿易船(唐船)の貨物を収納する土蔵が設けられ,「新地蔵所」と呼ばれた。長崎の開港後,華人は唐人屋敷を出て,しだいに新地蔵所に集中して居住するようになり,ここが華人の居留地となり,今日の新地中華街へと発展していった。

横浜中華街や神戸南京町と比べると,長崎新地中華街の観光地化の始まりは遅い。1984年になって,「長崎新地中華街商店街振興組合」が設立され,新地中華街の整備が始まった。新地中華街在住の華人の大多数は,福建省福清市とその周辺出身者の2,3世である。


こちらのページにも、長崎の新地中華街の歴史について詳しく書かれています。

http://www.sanpachi38.com/sanpachi_history/index.html

id:yuwa11

非常に参考になりました。

ありがとうございます。

2007/03/22 00:05:17
id:kosuke2005 No.4

回答回数1351ベストアンサー獲得回数7

ポイント23pt

長崎の中華街は横浜、神戸と並ぶ中華街・新地は、江戸時代中期に中国からの貿易品の倉庫を建てるために、海を埋め立ててできた街。

<新地の歴史>

中国との貿易が盛んに行われた江戸時代(元禄)、出島に住むオランダ人と同様中国人についても居留地が設けられました。唐人屋敷(唐館)は、総面積約9,360坪、役人詰め所や、大門、二の門、住宅、市場、関帝廟、土神堂、観音堂などがあり、高い練塀をめぐらせ、出入りは出島と同様厳しい制約がありましたが、中国人たちの出入りは比較的自由でした。

市内に在住する中国人は1万人ともいわれ、当時の長崎市の人口が6万人でしたから、たいへんな数の中国人でした。

中国船からの積荷は、五島町や大黒町の海岸の荷蔵に納めていましたが、1698年の大火で荷蔵が喪失したので、二度とこのようなことが起きないようにと、唐人屋敷前面の海面3,500坪を埋め立てて隔離された荷物倉所を造り、この場所は新しく築地によってできた場所という意味で、「新地」とか「新地蔵所」と呼ばれました。(中華街の中央に新地蔵(しんちぐら)跡の石碑が建てられています)

明治維新後、唐人屋敷とともに新地蔵所も廃止されたため、在留中国人は港に近い新地蔵所跡地に移り住み、長崎独特の中国人街を作ってきました。

http://www.nagasaki-chinatown.com/annai.html

江戸時代の鎖国下でも長崎は対中貿易港として認められ、最盛時には約1万人の中国人が長崎市中に住居した。当時の長崎の人口は7万人であったから、いかに華僑が多かったかがわかる(参考:オランダ東インド会社が存在した18世紀まで、オランダ船が来航していない期間に出島に住んでいたオランダ人は約15人)。その後、中国人の住居は唐人屋敷に限定されたが、1698年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成した。この地域が新地と呼ばれる。幕末の鎖国政策の放棄により、1859年長崎港は国際開放され、唐人屋敷は廃墟となり、在住中国人は海岸に近い新地に移り住むようになった。これが長崎新地中華街の起源である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E6%96%B0%E5%9C%B...

回は中国由来のこの祭にちなんで「新地」の歴史についてご紹介します。 ここは言わずと知れた横浜、神戸と並ぶ日本三大チャイナタウンのひとつで、「新地中華街」と呼ばれ親しまれています。 この中華街は明治初期の埋め立てによって造られたものですが、 それ以前の江戸時代は中国からの荷物を収納する倉庫地として使われていて、 もともとは出島と同じく長崎港の一部を埋め立てて造った人工島だったのです。

 元禄15年(1702)に造成された人工島「新地」は、その名の通り新しくできた土地を意味します。 当時の地図には扇形をした出島の近くに、明らかに人工のものと思われる長方形に突き出した土地を見ることができます。 総坪数は約3500坪。

唐船が運んで来た貨物を入れる土蔵が当初12棟60戸も設けられたそうです。 オランダとの貿易が行われていた出島のすぐ近くで、中国との貿易も盛んに行われていたのですね。 (・・ )フム、新地ハ中国版出島!?

 その新地が造られたきっかけは、元禄11年春に起きた長崎での大火でした。 この火事は長崎港周辺にあった約22の町々を延焼し、人家2044戸、土蔵33棟を焼失するという大きな被害をもたらしました。 中でも中国からの荷物を収納していた土蔵の被害はひどく、唐船約20隻分の荷物を焼きつくしたといいます。 そこで火災とさらに盗難や密貿易を防ぐために、唐人屋敷にもほど近い現在の場所に新地が造成されたのでした。

 以来、中国からの船が入港すると新地沖に停泊。はしけで新地へ荷物が運び込まれました。 中国人らも必ず新地に上陸し、手回り品だけを持って寝泊まりする唐人屋敷へ移動したそうです。 新地のそういった歴史的経緯の名残りとして現在、新地中華街のちょうど真ん中あたりに「新地蔵跡」という石碑が建てられています。 (・・;)当時ノ名残リハコレダケ?…。

 鎖国が解かれた明治以降、唐人屋敷を出た中国人らは新地に居住し商売を始めるようになります。 そうして今の中華街へと発展していったのです。 ところで中国の船が盛んに来航し長崎の市中に中国人が増えはじめたのは、 元亀元年(1570)の長崎開港以来だそうで、長崎は日本で最初に華僑社会が形成されたところといわれています。 つまりその発端をたどれば400年以上も前にさかのぼり日本最古の歴史を誇るチャイナタウンともいえるわけですね。

 知人に「日本で中国大陸との心情的な近さや歴史的なつながりの濃さを最も感じるのは長崎だ」という人がいました。 確かに長崎を見てみると町には建造物や祭りなど、いろんな中国が当たり前の顔をしてたくさん混在しています。 私などは、もしかして新地中華街はチャイナタウンのほんの一部で実は長崎全体がチャイナタウンじゃないのかなという気もしたりしています。

http://www.mirokuya.co.jp/mlmag/archive/vol74.html

id:yuwa11

なるほど~。非常に参考になりました。

有難うございます。

2007/03/22 00:04:23

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