人は生まれる環境を選べません。与えられた環境で、与えられた能力や性質、さらにその環境や性質によって与えられるものによって性格や能力が作られていきます。
物心が付いて、自分の意志で動いているように見えても、その意志(価値観や判断力)は環境によって作られたもので、決して自分で選んだものではありません。
人は常に自分にとってよりよい方向を選択して生きています。そしてその方向を決める価値観や判断力は自分で選んだものではありません。
つまり、たまたま自分に生まれて、自分がいいと思う方向へひたすら必死に生きているだけなのに、ある人は善人とされ万人に愛され、ある人は悪人として処刑されるわけです。
麻原彰光の環境に生まれればだれもが麻原彰光の人生を歩むよう人生を選択するのであり、マザーテレサの環境に生まれればマザーテレサになる人生を歩みます。
なのにどうして、ある人は悪人とし、ある人はいい人と言うことができるのでしょうか。誰か教えてください。
私は人の98%は環境によって作られるものと思っています。
1%は脳のデフォルト値。脳は可塑性ではありますが、生まれたときの脳の状態は人それぞれ違っていて、それがその人が唯一生まれながらに持つものであると思っています。
残りの1%はDNA。身体的特徴はその人の人格形成にも影響すると思っています。
従いまして、amjja77様の言わんとするところは私も理解できます。(できていると思います)
人は自分が考えているほど、『自分の考え』というものを実は持っていないのだと私も思っています。
その大元は『両親の考え』であったり『友達の考え』であったり『会社の考え』であったり『日本人の考え』であって、これまでの人生のそれぞれの「タイミング」においてこれらの「入力」があった結果、私という人間が出来上がったのだと思っています。
…
『私がこう思うのは私という人間がこれまで生きてきた環境において獲得した知識・経験により生まれたこの心がそうさせているのであってそもそも私は空っぽであり私は私ではなかったのであり今だって仮に私と言っているに過ぎないのです。
私とは集合知であり人類そのものなのですから。』
“私”とは、言わば人類の叡智(または愚鈍)に基づくメタ的な表出なのではないか。
…
と思っています。
では、他者にとっての私と“私”とは何でしょうか?
他者にとっての私(あなた)とは、むしろ“私”(“あなた”)の方なのではないでしょうか?
そうですよね?
ゆえに私は、人(“あなた”)を指して善人、悪人と言うことはできる、と言えると思います。
ルールです。
人が集まれば、ルールが出来ます。
そのルールにそぐわない場合、悪いと見なされるだけです。
そのルールが違う環境において 悪人とも善人ともなるのです。
たとえば、戦争をしている相手国のボスは、その国によっては 一番偉い人(善人)ですが、こちらの国からしてみれば 悪人ともいえます。
戦争に負けたら 戦争犯罪者として処刑されてしまいます。
>物心が付いて、自分の意志で動いているように見えても、その意志(価値観や判断力)は環境によって作られたもので、決して自分で選んだものではありません。
この前提がすでに間違っているので答えられませんね。
たとえばきょう、あなたがトイレに行ったのは、「自分の意思ではない」のでしょうか。
たとえば、この質問をしたこと自体。「自分の意思ではない」のでしょうか。
あなたが、はてなでアカウントを取ろうと思った事。「自分の意思ではない」のでしょうか。
環境要因は大きな影響であることは否めませんが、だからといって
常に「選択肢が一つしかない状況」になるであろうという前提は
どうかんがえても同意できる事ではなく、
そう信じているとすれば、あなたは何らかの宗教に没頭していて
運命論に洗脳されているとしか思えません。
尿意をもよおしたらトイレに行くという習慣、はてなでアカウントを取って質問しようという判断、これらの行動のもととなる価値観・判断力はすべて与えられたものだということを言っているのですがあまり理解されなかったようですね。残念です。
本質的な善悪というものはないと思いますが。
善と評価されたり、悪と評価されることはあると思います。
あくまで社会的もしくは集団的/個人的な評価なので、評価する対象が望むことをした人が善と評価されます。
すべての人がすべての人から評価される行動を取るのなら善も悪もなくなるでしょうが、同じことしかやらないので生物としての環境適応能力は下がるでしょう。
現在まで生き残っている私たちの行動様式は、個々評価が異なった結果なので、そのほうが(つまり行動にたいして善悪の評価がわかれるほうが)生き残りやすいのだと思います。
前提が正しいと仮定すれば、
人が人の善悪を判断するのも与えられた環境による自分の判断だと思います。
なるほど、そのとおりですね。
す~っと腹に落ちました。
そのとおりだと思います。
amjja77さんがおっしゃるように人の人生がすべて運命で決まっていたとすると、「人の善悪」というものも運命の一部分として最初から決まっているという事になると思います。
そうすると「なんで?」ときかれても「そう決まっているものはそう決まっている。」と答えるしかありません。
shinmuさんと同じく、そのとおりだと思いました。
いい人だ、悪い人だと口にする人は思慮の浅い人と考えていましたが、その判断や口にする行為も与えられたものに過ぎないということにやっと気づくことができました。
ありがとうございます。
前提が正しいとすれば・・・、決まっていたとすると・・・、とのご意見多いようですが、よろしければ私の考えに対する皆さんの意見もお聞かせください。
言ってることすごく分かります。悪人も善人もないと思います。常識的にはあることになっていますが、常識は常識にすぎません。
善悪が言えるのは、都合の良い人を善人、逆を悪人と分類し、歓迎し排除することによって、快適な生活を送りたいからだと思います。
自分に心地の良い感じがする人が、いい人。印象が悪い人が悪い人。でないでしょうか?
犬だってそうです。犬にとって、いい人とは、餌をくれたり、散歩に連れて行ってくれたり、一緒に遊んでくれたりという人が犬にとって心地のよい(しっぽをふって喜べる)善人でしょう。逆に、虐待したりする人は悪人でしょう。
犬はこの単純なことでしか判断できないでしょうが、人間だって根本的には、自分に快適な人は善人であって、快適でない人は悪人なのではないでしょうか?
麻原彰光であっても、オウムの信者から見れば善人であったろうし、サダムフセインであっても、ヒットラーでも、全て、善悪があったと思います。
最近のマスコミでは、犯罪が起こった時点で容疑者をすでに悪人扱いしていますが、本当に悪人なんでしょうか?
理由を聞いてみれば、納得でき、実は善人だった、という可能性もあるかもしれません。
すべての人からみて、悪人っていうひと、善人っていうひとはいないのではないでしょうか?
それをいい人、悪い人どちらに感じるかは、その個人個人の環境、考え方によるかと思います。
難しい問題だと思います。
ただ、こういう人が善い人でこういう人が悪い人という明確な基準はなく、時代の流れや社会を構成しているたくさんの人々の「思惑」で「善い人」というのが決められるんだと思います。
簡単に言えば多数決みたいなものでしょうかね。
ただ、その環境に生まれた人がすべて同じ道を歩むとは限らない気がしますが、やはり何らかの影響はありますしその人自身が全て悪いわけじゃない気がします。
http://nbsakurai.exblog.jp/5857402/
此処のブログみたいな?
この手の話は答えでないですよね。
はっきりしているのは、善悪の感覚がなければ、戦争は起きないと思います。
だって、人間って競争する動物だし。
私も、概ね4のshinmuさんの回答に賛成です。
若干表現を変えると、判断をする人の環境にとって有益なら善、有害なら悪と判断されるでしょう。
また、皆さんが「前提が正しいとすれば」と注釈をつけるのは、この論を素直に受け入れるのは、自分自身や自分自身の環境にとって、有害な可能性があると皆さんが判断されたからでしょう。
質問主さんはそうは思わなそうですが、自分が主体的な存在ではなく、単なる環境の一因子にすぎないという認識は、その人自身やその人の環境にとって、あまりよい結果を生まないと判断する人が多いのだと思います。
昔小学生の頃に「天才や偉人なんていうのは生まれた環境の影響が大きく、
99%は運なのだから、無条件に尊敬するのはおかしい」という作文を書いたのを思い出しました。
その頃考えていたことに本質的な部分は一緒だと思います。
つまり、人は生まれた環境によるところが大きく、
そのときそのときに自分で人生を選んできたように思えても実はそうじゃないんじゃないか。
天才は生まれたときのレールの上に乗っていただけじゃないのか。
そのレールの向かう先が善人行きか悪人行きか違うだけなのかも。
麻原のように周りに持ち上げる信者がいて間違った権力を持てば誰でも同じことをするのではないか。
マザーテレサと同じ状況におかれれば誰でも同じことをしたのではないか。
実はそのことに気づくということが一番大事なことだったりします。
必要以上に善人悪人という情報が一方通行でテレビなどで放送されたりします。
それに惑わされずに自分の基準で判断するということが大事なことです。
他の人を善人や悪人と自分の基準で判断してもいいと思いますが、、
その善人も悪人も環境によって大きく影響されていると認識することも必要なことです。
善悪の存在理由というのは簡単に説明できます。
善悪というのはもともと人の物を取ってはいけないとか、殺してはいけないというきまりがあります。
きまりを破ったものが悪人。
困っている人を助けることはいいことなどの価値観を守る人が善人です。
きまりや価値観がなぜ存在するのかというと、人間がうまく生きていくためです。
突き詰めれば人間という種を残すために他なりません。
人間がなぜ種を残そうとするのかと考えるのは間違いです。
種を残そうとする生き物だから人間が今いるのです。
ということは、善悪の価値基準は人間が存在するのと同じ意味を持ちます。
なぜ善悪があるのかではなく、善悪があるから現在人間が存在するということです。
昔の人は性善説とか性悪説という概念を考え論争したりしました。
性善説は人は本質的に善で外的環境が人を悪にするので礼が必要。
性悪説は人は本質的に悪で、悪だからこそより法が必要という考えです。
(この頃の悪というのは欲望の意味で今の悪とは違いますが)
ただこれはどちらも正しいというのが正解なのでしょう。
子供の純粋さが性善説ならば、子供の無知はときとして悪となりますから。
それで、面白いのは昔の中国の人はどちらにしろ人は生まれたときは
本質が悪にしろ善にしろ同じだと考えていたということ。
その後の行いで人を善にも悪にもすると考えていたことです。
それは運命論とは反する考えでしょう。
ただ、それも逃れられない運命の輪の中なのかもしれませんが。
映画マトリックスの2作目の最後で主人公は実は同じことを繰り返すプログラムの一部だと知ります。
世界の滅亡か一人の女性の命か究極の選択を迫られた主人公は前の自分と違う選択をするというような話がありました。
それは人が意志の力で自分の運命を超えられるかという究極の命題だったように思います。
小学生の自分は自分の運命やレールを飛び越えられる大人になれないかとその頃必死に考えていました。
私の言わんとすることをとてもわかりやすく表現していただいたと思います。ありがとうございます。
種に適さない人間を排除するという行為を、善悪という概念のもとで行っていて、その善悪という概念があったからこそ人間は現在まで残っている、ということですね。(間違っていたらごめんなさい)
私の想像を越えるご回答を得ることができてとても嬉しいです。
私は人の98%は環境によって作られるものと思っています。
1%は脳のデフォルト値。脳は可塑性ではありますが、生まれたときの脳の状態は人それぞれ違っていて、それがその人が唯一生まれながらに持つものであると思っています。
残りの1%はDNA。身体的特徴はその人の人格形成にも影響すると思っています。
従いまして、amjja77様の言わんとするところは私も理解できます。(できていると思います)
人は自分が考えているほど、『自分の考え』というものを実は持っていないのだと私も思っています。
その大元は『両親の考え』であったり『友達の考え』であったり『会社の考え』であったり『日本人の考え』であって、これまでの人生のそれぞれの「タイミング」においてこれらの「入力」があった結果、私という人間が出来上がったのだと思っています。
…
『私がこう思うのは私という人間がこれまで生きてきた環境において獲得した知識・経験により生まれたこの心がそうさせているのであってそもそも私は空っぽであり私は私ではなかったのであり今だって仮に私と言っているに過ぎないのです。
私とは集合知であり人類そのものなのですから。』
“私”とは、言わば人類の叡智(または愚鈍)に基づくメタ的な表出なのではないか。
…
と思っています。
では、他者にとっての私と“私”とは何でしょうか?
他者にとっての私(あなた)とは、むしろ“私”(“あなた”)の方なのではないでしょうか?
そうですよね?
ゆえに私は、人(“あなた”)を指して善人、悪人と言うことはできる、と言えると思います。
私の言わんとしていることを実によくわかってくださっていると感動します。
『私がこう思うのは…』まで深く考えをめぐらされていることに対しては尊敬をおぼえます。
しかし、最後の4行の意味がどうしても理解できません。理解が足らず申し訳ありません。頭の悪い私にでも理解できるように教えていただければ幸いです。
最近風水にハマっているのですが、風水では
「一命、二運、三風水、四積陰徳、五読書」
と言うそうです。
生まれ落ちた場所など運命は換えられませんが、環境を整える(たとえば起業したいなら、社長さんがよく集まるような場所に行くとか。結婚したいなら、独身男が沢山いそうな場所に行くとか。掃除をするとか。)こと、積陰を積むこと(人との縁を大切にする、ということにも繋がりそうですが)、そして勉強することで、いきなり大きくというのは無理でしょうが、運命の方向性は変えられるということらしいです。
開運したいなら気をつけてみられるといいかもしれません(笑)
正直、善人、悪人なんてレッテルって意味ありますか???
本人が幸せだったらいいんじゃないでしょうか。
あまり質問の意味を理解されてないようですね。
上の2つのご回答等を参考にしてください。
ご意見を・・・との事なので二度目の回答失礼します。
私的には運命についての考えは3つあって、
1、一本道にように生まれてから死ぬまでの言動や思想のすべてが何かしらのよって定められている。
2、道のところどころに分かれ道があり選択によってある程度自分で運命の舵取りを行うことができる。
3、運命なんて存在しない。
amjja77さんの考えは1に近いと思います。
確かにその可能性は大いにありますが、正直この考えは自分の環境や境遇を『運命』という得体のしれないモノのせいにするための「逃げ」の考えだと思います。
かの発明家エジソンは「発明は1%のひらめきと99%の努力」といいました。その1%は運命に定められたものかもしれません。しかし、残りの99%はどうなのでしょう?
人の人格や価値観は育った環境に大きく影響されます。しかし、それだけで人生まで決まるでしょうか?一卵性双生児の例もありましたが、同じような環境内にいても必ず他とは違う人達が出てきます。大概そのような人達は奇人変人扱いなのですが・・・
いろいろと説明はしましたが、結局のところ自分のすべてが運命で決まっていると思うと生きていることが馬鹿らしくなってくるのでそうは思いたくは無いわけです。
選択する道があるとしても、その道を選ぶ根拠となるものが、生まれてから選択するまでの環境や経験・生まれ持った能力であり(それは自分で選んだものではないですよね)、人生はその選択の積み重ねなので、結局は自分で選んだようで何一つ選んでないのではないかと言いたいのですが、今ひとつ伝わってないようですね。
12・13のお二人のご回答が私の言いたいことをとてもわかりやすく表現していただいています。少し読んでいただければ幸いです。
id:retorinさんの
1、一本道にように生まれてから死ぬまでの言動や思想のすべてが何かしらのよって定められている。
2、道のところどころに分かれ道があり選択によってある程度自分で運命の舵取りを行うことができる。
3、運命なんて存在しない。
は
1、結果論・過去
2、量子学の多世界解釈(時間の遡及は出来ませんから時間と共に1、へ進む
3、宿命説(過去しか見えていない
選択する道があるとしても、その道を選ぶ根拠となるものが、生まれてから選択するまでの環境や経験・生まれ持った能力であり(それは自分で選んだものではないですよね)、人生はその選択の積み重ねなので、結局は自分で選んだようで何一つ選んでないのではないかと言いたい
過去は変えれませんが過去を元に未来を生かすも殺すもあなたの選択次第ですね。さて、どの未来を選択するのやら
麻原彰光の環境に生まれればだれもが麻原彰光の人生を歩むよう人生を選択するのであり、マザーテレサの環境に生まれればマザーテレサになる人生を歩みます。
結果論ですな。
前半部分は意味がわかりません。
後半部分は残念ながら参考にはなりません。
人は常に自分にとって一番良い選択をし続けています。
経験を生かさない選択を選ぶ場合も、経験を生かさない方がいいという価値観が備わっていた(生かす能力が備わっていなかったと言ったほうがわかりやすいでしょうか)わけで、その価値観(能力)は自分で好んで得たものではありません。
つまりどのような選択であっても、自分で好んで得たわけではない自分の中の選択基準(能力)を通して選択しているわけです。
生まれた環境が選択基準を作り、それを通して選択した先の環境がまた新たな基準を作り、・・・そうして瞬間瞬間で無数の選択をしていった先が今の人生です。
だからその先がどんな人生であろうと、その本人が悪いわけではなく、責めたり褒めたりすることがなぜできるのかと問うているわけですが、なかなか理解されず非常に残念です。
ちなみに善人・悪人の基準は社会によって作られたものです。
私はその基準を借りて、必要であれば他者を善人・悪人と言うでしょう。
ここで重要なのは善悪の基準ではなく、他者の認識そのものにあると思われますので、以降はそっちの方向で。
もし、amjja77様の言う通りの理由からある人をして悪人と言うことが出来ないとするならば、amjja77様はその人をどのように認識するのでしょうか?
果たして認識することが出来るのでしょうか?
まず、先の回答の最後の4行について補足いたします。
私…環境に依らないもの。以後、紛らわしいので『私』と表記します。(なお『私』存在するのかどうかはここでは考慮しません)
“私”…環境によって出来上がったもの。
Beiriiである私は、『私』と“私”を区別することが出来るでしょうか?
残念ながら出来ません。
『私』というものがあるのかどうかさえ確信を持てません。
#ちなみに私は、人が『私』を持ちたいという願望が作り上げたものが、魂(たましい)という概念なのかなと思っています。
では、amjja77様はBeiriiである私の『Beirii』と“Beirii”を区別できるでしょうか?
当然出来ないと思います。
というよりも、amjja77様にとっては“Beirii”こそBeiriiなのではないでしょうか?
人は他者を『人』ではなく、“人”でしか認識し得ないと思うのです。
そこには微妙なジレンマ?が存在することになるかも知れませんが、この社会が「相互に影響しあう複数の人間によって構成された、比較的大規模な集団・集合体・もしくは共同体のことである」(wiki)とするならば、むしろ認識できる他者、即ち“人”こそ人である、と言えることになります。
でなければ、amjja77様は、私はおろか自分以外の人を認識する術が無くなってしまいませんか?
他者をして善人、悪人と言う、ということは、そもそもそれは善“人”、悪“人”を指している(善“人”、悪“人”としてしか指すことができない)、ということになるのだと思うんですね。
ゆえに、私は、人を指して善人、悪人ということはできる、と言えるのだと思います。
深いですね・・・。
上の4行について、ようやく理解することができました。ありがとうございました。
そして、自分で問いたかったこともやっと理解できた気がします。
私は、私には”私”しか理解できず、『私』の存在が理解できません。
しかし大多数の人は、人は”人”+『人』(もしくは『人』のみ)と考えていて、”人”が行った行為を『人』の行いとして認識し、善『人』・悪『人』と評しているとしか思えないのです。
そこに苛立ちを感じていたのかもしれません。
(この苛立ちが、ひょっとしたら『私』の感情なのかもしれませんが・・・)
Beirii さんは大変思慮深い方ですね。もっといろんなお話を聞いてみたくなりました。
人は生まれる環境を選べません。
と言い切れるものでもないと思います。これは考え方次第で、正しいとも正しくないとも言えません。と思います。
人は常に自分にとってよりよい方向を選択して生きています。
「自分にとって」とはどういうことですか?自分の善悪の判断に基づいて方向を選択するということですか?それとも、何か客観的(あるいは絶対的)に「自分にとってよりよい方向」というものがあって、その方向を自ずと選択するということですか?
…どう選択しても逃れられない絶対的な運命というものを想定しても、結局、その絶対的な運命の内容はわからないわけですから、いざ自分が何か選択するというときには自分の判断にベストを尽くせばいいんじゃないかと思います。
どうして、ある人は悪人とし、ある人はいい人と言うことができるのでしょうか。
たぶん、上の回答の中に書かれてしまっていると思うんですが、善人であること・悪人であることと、善人であると考えられること・悪人であると考えられることとは違います。違うので、言うことは誰でもできます。なんか簡単に言いすぎた感がありますが…。
また、運命論的に世界が動いていることと、運命論的に世界が動いていると考えることも違いますね。違うように思えます。
意味不明で蛇足な回答ですみません…。
生まれてから選択するまでに得た環境、経験、能力から作られる価値観がよいとする方向が「自分にとってよりよい方向」です。
つまり絶対的ではなく、『自分』でもなく、”自分”の善悪の判断です。
最初と後半部分ですが、大事なところが抽象化されていて意味がよくわかりません。
残念ながら参考にはなりませんでした。
だからその先がどんな人生であろうと、その本人が悪いわけではなく、責めたり褒めたりすることがなぜできるのかと問うているわけですが、なかなか理解されず非常に残念です。
善悪の判断…当方は全く書いていません。(お気付きになりませんでしたか?
それさえも気付けない程ですか?
宗教学か哲学をちっと齧ってみては如何?
上の質問・回答を読んで意図を理解してください。
わからないのであれば回答しないでください。
>”人”が行った行為を『人』の行いとして認識し、善『人』・悪『人』と評しているとしか思えないのです。
マスメディアの功罪が大きいと思いますよ。
凶悪犯罪が起きるとまずその人間の家庭環境が異質かどうかを調べます。
その家庭環境が我々とそんなに変わらなければ生まれつきその人はおかしいのだとなります。
『人』の部分が自分たちと違うと認識しないと安心できないのです。
そういう理由で”麻原”の犯罪は『麻原』自体に問題があったから罪を犯したとなります。
ノーベル賞受賞者やイチローや松井などの成功者も同じです。
マスコミは子供のころの逸話とか大好きです。
小さいころからすでに人と違ってるということにしないと都合が悪いかのようです。
『人』の部分がすでに違ったんだと思わないと、自分たちの現在の境遇との差に納得できないからです。
かくして”人”が行った行為を『人』の行いと思おうとする、思いたいのでしょう。
その部分は私も普段からジレンマを感じることです。
家庭環境と犯罪を結びつける光景はよく目にしますね。
そして、親なり教育なりのせいにして解決するというのがマスコミの常套手段です。
しかし、その親や教師も、環境や与えられた能力で築かれた”親”であり”教師”であるわけなので、何の解決にもなっていないといつも思うわけです。
その辺りで、私もいつも不条理さを感じています。
「人は生まれる環境を選べません」とは言い切れないと言ったのは、「選ぶ」ということの意味が曖昧なうちに考えたからかもしれません。『人』が選ぶのか、”人”が選ぶのか、あるいは別の何か「人」があって、その「人」が選ぶのか…。
「生まれる環境」というのは「与えられる環境」ですか?それとも「与えられた判断基準で選ぶ環境」ですか?輪廻のような考え方を導入して後者の方で考えれば、与えられた判断基準ではありますが一応選んでいるので、選べないとは言い切れないかなと思ったんですが。ちょっとごっちゃになりやすいですね。
どうして、ある人は悪人とし、ある人はいい人と言うことができるのでしょうか。
に対しての「たぶん……」のところは蛇足です。「言うことはできる」と言いたかっただけです。実際に(絶対的に)善か悪かは誰にもわからないですから。
人に善悪があるのかどうかという問いと、人が善いか悪いか判断していいのかという問いは違うのでこれもごっちゃになりやすいです。言葉遣いの問題かもしれませんが。
運命論的な考え方はあまり好きではないのでこの辺で。
最初の回答において、私は人の98%は環境によって作られるものと思っていると言いました。
そして1%は脳のデフォルト値、もう1%はDNAによる身体的特徴であるとも言いました。
その上で、人は自分が考えている“ほど”には自分の考えというものを実は持っていないのだと思っていると言いました。
この最初の回答は、以前に私が考えていたものを基にしておりました。
amjja77様の疑問は以前私が考えていたことと殆ど同じものであると思われましたので、その当時の考えを書いてみたのでした。
#…のところの文章は、昔の私が立てた質問のコメント(http://q.hatena.ne.jp/1149133668#c58582)から引用したものです。IDが変わっていますが。
で、実は現在では、私はこの残りの2%によって、人は自分の意思と言うべきものを持つことが可能になるのだと思っています。
私は、人が行う決断には、常に感情が伴うのだと思っています。
感情には「身体感覚に関連した無意識な感情と意識的な感情がある」(wiki)のだそうです。
ある決断に身体感覚に関連した感情による影響があるとするならば、それは100%与えられた環境による決断であるとは言えないということになりますよね?
#確かに身体も与えられたものではありますが、意思や感情が身体に依存するものであると言うことは紛れも無い事実であるわけですから、これを否定されちゃうと特定の人を前提とした話ができなくなっちゃいますのでこのまま続けますね。
意思決定に感情が伴う一番わかりやすい例は…「恋」です。
恋の真っ只中で感情に流されずに決断を下すことのできる人間がこの世にいるでしょうか!?なんて。
感情はその人の身体や脳に依存するものではありますが、外界の刺激によっても変化しますよね。
たまたま入った店内でランダム再生されていた音楽によっても、感情は左右されるでしょう。
その感情は、唯一その身体においてのみ感じることのできるものなのです。
そしてそういった様々な感情による影響を受けた決断が繰り返され、その結果得られた私は、もはや100%与えられた環境によるものであるとは言えないのではないでしょうか?
神はサイコロを振らないとするならば、外界は定められた刺激をその人にもたらすことでしょう。
感情、そして「恋」すら、定められたものになりますね。
であるとするならば、やはり人は与えられた環境のもと、定められた運命に従ってのみ生きていくのだと言えるのかもしれませんね。
でも私はそう思わないです。
実際のところ、人もこの世の中も、もっともっと不確定なものなのだと思っています。
またまた興味深いご回答ありがとうございました。
感情はその身体でしか感じることができないというのはBeiriiさんのご回答でとてもよく理解できました。
私が興味を持つところは、その身体でしか感じ得ないもの(感情)によって、決断をコントロールできるかというところです。感情が環境のコントロールを超えることができれば、自分で人生を切り開くことができるということですよね。
この質問の件でいろいろ調べていたときに、「ゲーデルの不完全性定理」というものに出会いました。詳しくは理解できていませんが、「自分(を含めた集団)の真理は自分では証明できない」ということらしく、おそらくこの問いを突き詰めていっても答えはでないのかもしれません。
人生ってほんと難しいですね。
上の質問・回答を読んで意図を理解してください。
わからないのであれば回答しないでください。
環境因子のせいでないならば、その性格はご自身の努力で直してくださいね。
私が運命という言葉を使ったために、問いがメルヘンチックになってしまい本来の質問から少し脱線してしまったことをお詫びします。
私はこの問いを考えたときに物理の不確定性原理のほうを考えてました。
人が生まれた瞬間の全ての物理量を、物質の質量や運動量を全て計れば、その後の人生の全てが分かるのではないか。
人は当然物質で作られ、考えたり選択したりするのは単なる頭の中の電気信号です。
そして私たちを取り巻く全ての事象も物質の運動です。
今仮にサイコロを振っても出る目は最初から決まっていて、Beirii さんの言葉を借りれば神はサイコロを振らないとなります。
ただし、物理の世界ではサイコロの目を知ることは不可能とされています。
サイコロの目どころか不確定性原理では2つの物理量ですら同時に計れないとされています。
私たちは決まっているが知り得ない人生を生きていると言えるのではないでしょうか。
こと物理レベルでは『人』はそれ以外の事象=環境にくらべ限りなく0に近いでしょう。
恋は『人』の本質的な部分によるものと考えるときれいな話になるのですが、
実際は、フロイトの精神分析学入門でもあったと思いますが、人の深層心理は記憶から形づくられたものでしかないと考えると、
恋もまた環境によるものとなります。
まあ、人はそのほとんどが環境によるもの(100%か99%かは別問題として)と考えて間違いないと思います。
それを知った上で「悪い人」「いい人」と言っているということでしょうね。
そうですね。今、人類の知り得るすべての知識から考えれば、やはり人生はほとんど決まっているということになりそうですね。
決まっているが知り得ない人生を、どう感じて生きていくかということなのでしょうか。
SALINGERさんの言葉で、「努力すれば報われる」とか「悪いことをするからバチがあたる」とかいった言葉がどうしても腑に落ちなかった思いが報われたような気がします。
ただBeiriiさんもおっしゃるように、私たちはこの世のすべてを知っているわけではありませんので、今の科学では知り得ないなにかによって人生を左右することは可能なのかもしれませんね。
環境の所為で(笑)性懲りもなくもう一回書かせていただきます。
麻原彰光の環境に生まれればだれもが麻原彰光の人生を歩むよう人生を選択するのであり、マザーテレサの環境に生まれればマザーテレサになる人生を歩みます。
とありますが、それは『麻原』が麻原の環境に生まれたから、結果としてさまざまな事件が起こったとは考えられないのでしょうか。『別の誰か』でも麻原の環境に生まれたら、100%同じ人生になるのでしょうか。似たような人生にはなるかもしれませんが、100%同じとは言い切れないと思います。
100%同じになるとすれば『人』というものがないとするか、『Aさん』=『Bさん』=『Cさん』=……とするかのどちらかだと思いますが、『人』というものがないとすると、その人が生まれてから一番最初に与えられる環境は『人』ではなくて何が受けるのかという問題になるので、『A』=『B』=『C』=…とするのがいいのかもしれませんね。
輪廻のような考え方で、生まれてから一番最初に与えられる環境は、前世(の一部)が受けるとでも考えれば『人』はなくて済むのかもしれませんが、そうすると前世で一番最初に与えられた環境を受けるのは、前世の前世で、そのまた前世の前世の……となって、結局一番最初はどうなるんだという議論になります。まあ、知らないものは知らないということになりますが。
決まっているが知り得ない人生を、どう感じて生きていくか
ということですが、決まっているけど誰にも知り得ないのなら、人間にとっては決まっていないのも同じと割り切って生きるのがいいんじゃないですかね。あるいは、運命を変えるという運命が待っていると妄信して生きていくのもいいかもしれません。
『人』とは、環境や生まれ持ったものにまったく影響しないものなので、私は、『人』の存在はなく、人=”人”であるというのが当初からの考えです。なので、おっしゃる通り100%同じになると考えていたわけです。
後半の部分についてはおっしゃるとおりだと思います。ある出来事があって、それは自分の努力の賜物と受けとってもいいし、決まっていたことと受け取ってもいい。どうせなら後者の方が生きやすいのではないかということですよね。
そういう考えも生きていく上では必要なのかもしれません。
中段の「『人』というものがないとすると…何が受けるのか」の部分、少し意味が把握しずらいのですが非常に興味があります。よろしければ詳しく解説していただけるとありがたいです。
善悪の判定は様々な価値基準により多元的な判断がなされるのでしょう。
池に落ちた子供を発見しても、助けるのを善と思う人もあれば悪と思う人もあると。
一元的な基準しかない場合、種が滅ぶ可能性が大きくなるからではないでしょうか。
「意志は環境によって作られたもの。決して自分で選んだものではない」とのことですが、それは全くその通りだと思います。
「生活環境や生態(DNAなど)環境から生成される基準によって行われる意思決定」を、ある人は「自分で判断している」といい、ある人は「自分では選んでいない」といっているように思います。が、表現が違うだけで、どちらも同じコトを言っているのですよね。
全く同じ人間(組成だけでなく考え方も)が、全く同じ環境にいれば、全く同じ行動をすると考えられます。あたかも映画を何度も見ているように。しかし、現実にはありえないので、似たような行動をするかもしれないけれど「XXしなさい」「XXしちゃだめよ」なんて学習して、種を残そうとするのではないでしょうか。
どちらの種が残るかは判りませんが。
いろんな見地からご意見が聞けてとても嬉しいです。
善悪に様々な基準があるのは、種の保存のためであるという考え方は、いろんな方がこの質問の内外でおっしゃっていて、私もその通りだと思います。
私が興味を持つところは、ずっと先の将来に変わるかもしれない環境のために、今とても生きずらい性質の種をまかされた人間(例えば麻原)が、今の環境に合わせる能力を備えているかどうかということです。
人生は自分で切り開けるという考えなら、この能力を備えているということになると思うのですが、種の保存の原理には反してしまいますね。
少しジレンマを感じるところでもありますが、よろしければご意見お聞かせください。
中段の「『人』というものがないとすると…何が受けるのか」の部分、少し意味が把握しずらい
ということですが、「生まれる環境」というものは、本当にどうやっても選べないとするなら、与えられた環境ということになります。
与えられた環境ということは、その環境を受け取る自分が必要なわけです(受け取るという言葉が適切かどうかはわかりませんが)。「生まれる環境」を受け取るその自分は、輪廻とか魂などの類の考え方を導入しなければ、環境の影響を受けていない自分であるはずですから、この自分は”自分”ではない…ということになると思うんですが。
…というような感じです。
もちろん「産まれる」ではなくて「生まれる」なので、いつから「生まれ」ているのかは判断の微妙なところですが。
最初に受け取るものですか…。
なるほど、”人”は環境において出来上がっているものだから、最初に環境を受け取ったのは誰だと言われれば、確かに人=”人”とは言えないですね。
そのとおりだと思います。
これはまた新しい発見です。ありがとうございました。
その性格はご自身の努力で直してくださいね
必要無い
というか、直すって・・・あなたの価値観を押し付けられる云われは無いと思うがね。
私の言わんとしていることを実によくわかってくださっていると感動します。
『私がこう思うのは…』まで深く考えをめぐらされていることに対しては尊敬をおぼえます。
しかし、最後の4行の意味がどうしても理解できません。理解が足らず申し訳ありません。頭の悪い私にでも理解できるように教えていただければ幸いです。