小説(特に古典)を読んで「得られるもの」は何ですか?
読解力でしょう。
社会人になっても仕事で文章を読み取る能力が必要なことは多いですから。
それ以外だと感受性とか知識が考えられますが、これは必ずしも小説から得る必要性は感じません。
社会人になり、様々な人生経験を積むときに
失敗や後悔があります。
そのときに、古典の中から人生教訓を得たり、
「こんなに偉い人でも同じ失敗をするんだなあ」
という共感を得たり。
財産と言う捕らえ方として「失敗しない方法を
経験則以外で知る」と言うこともあるでしょうね。
徒然草の中で(教科書にも載っているかもしれませんが)
「狂人の真似だといって大通りを喚き走れば、
これすなわち狂人である。
悪人の真似といって人を殺せば悪人である。
駿馬を真似るのは駿馬。
舜を慕い、集まるのは舜の仲間。
それが単なる上面だとしても、
賢さを真似ようとするならそれが賢さなのである。 」
という話があります。調子に乗って馬鹿な真似をした後で
いつもこの話を思い出し、とほほほほ、という気持ちになりつつ
人の賢さを上手に真似できる人間になりたいと、思い返すことが出来ます。
また、吉田兼好を好きな時、嫌いな時というのも
自分を客観的に評価できる一つの指標になります。
財産ですよ。たくさんたくさん読んでくださいね。
古典はおそらくは素晴らしいことが書いてあるからこそ、現代にも残っているわけです。つまり昔から変わらない人間の普遍的な感動とかがあるのでしょう。
あなたは高校生で恋愛とか失恋とかの経験が無いor少ないかもしれないし、社会とのかかわりもそれほど無いかもしれない。そういう時期に「そんな考え方があったのか」とか、「この主人公の気持ちはすごくわかる」とか読書を通じて疑似体験できるのです。
本は年とってからでももちろん読めますが、今だから感動できる小説もあり、逆に今だからこそ何を言っているかわからない小説もあると思います。(理解できなかった小説は5年後くらいにもう一回読んでみよう。)
読書をする時には色々考えながら読んだりすると思います。でも軽い内容のものは面白いから余り考えずにす~っと一気読みしたりすることがあります。ライトノベルなんか漫画感覚で面白いものが多いですよね。
考えずに読むと「読後感」というのは残りますが、余り心に響く感じがしません。人の書いたものを考えながら読むということは、その文章で表されていることを頭の中でシミュレーションしている、ということに等しいと思います。
高校生にもなると日本語の理解能力も一通り身について、思考もより深められることができるようになります。現代小説でも古典に分類されるものは割りと人の人生を掘り下げたものが多く名著となっています。こういうものを高校時代に考えながら読むと、多感な時期に色んな人の人生を疑似体験できる、ということになると思います。
そして一般的傾向としては人は50代以降も30歳前後に達する前の経験は、比較的よく記憶している、という事実があります。特に十代の頃に経験したことは今の団塊の世代を見ても分かる様に、「青春時代」として素敵な記憶として残ることが多いようです。音楽を聴いたり、本を読んだりしたことも同様ですね。
高校の先生がこの辺りを御存知なら、こんな理由で「高校時代の読書は一生の財産になる」とおっしゃったのではないかと思いますよ。
「古典」と言われるような作品は今現在の基準からいくと「陳腐」と言われてしまうようなモノも多いですから、自分の感性が今の基準に染まってしまう前に古典を読んでおくのはいいと思います。そういう意味では高校時代というのは一番のタイミングなのではないかと思います。
「古典」は長い年月を生き残ってるだけあって感性が真っ白な状態であれば自分の財産だと思えるくらいに感動も出来ると思いますし。
つまり、「古典」を読むことによって得られるものは「感動」だということですか?
「感動」は、読書でなくても得られますよね。
わたしの読書歴 ~ 文学よ、さらば ~
わたしは、中学同級生の母上に「貴男は、もう日本文学など森鴎外を
すこし読むだけでいいんですよ。外国の文学をたくさん読みなさいね」
と教えられました。
その後、同級生のなかでは、誰よりも多く読んだはずですが、とくに
“一生の財産”になるような小説・古典にはめぐりあいませんでした。
あえて挙げれば《ジャン・クリストフ》でしょうか。
紀田順一郎氏は《ジャン・クリストフ》を読破した者は語らない、と
いう趣旨のことを述べています。たしかに、あまりにも集中力を要する
長編なので、安易な議論には加われないのです。
中年になって、息子のために買ってきた《ロビンソン・クルーソー》
を何気なく読みはじめ、一気に通読してしまいました。
文学ではない、オストワルト《化学の学校》にも感銘を受けました。
そもそも《ロビンソン・クルーソー》は、だれもが子供向きの抄訳を
読んだ記憶がありますが、本来は大人のために書かれた最初の近代小説
だったのです。ここに文学的な虚構と寓意が、対決したのです。
やがて、ストーリー(筋書)がヒストリー(歴史)に由来することを
知り、松本清張《昭和史発掘》から、司馬遷《史記》まで遡行しました。
最近は、読むことを控え、もっぱら書くことに専念しています。
古典を読んで「得られるもの」は、実人生を分析する態度でしょう。
西洋古典の技法は、一に韻文、二に対話、三が散文です。
これをすべて網羅した実録に《ゲーテとの対話》があります。
(↓過去回答)
http://q.hatena.ne.jp/1161096750#a622049
(さんざんの不評だった、わたしの読書論より)
こんにちは。「○○時代の読書は一生の財産になる」という○○の部分には、幼稚園も小学校も大学も、社会人でも老後でも全てあてはまると思います。強いて若い内に読書をするメリットがあるとすれば、読む習慣が身に付くということ、速読ができたり、文章のポイントを押さえるのがちょっと早くなるくらいではないでしょうか。
財産ということならば高校時代に限らず、自分の一番必要としている時に読んだ本が一番の財産になると個人的に思うので、高校時代に読書をしなくちゃと思って本を読んでも結局時間がもったいないだけだと思います。音楽なら音楽、プログラミングならプログラミングと、今一番興味があることに時間を費やすのが一番の財産になるのではないでしょうか。
私が高校時代に読んで財産になったと思う本は三木清の『読書と人生』で、これを読んでから自分の読書の指針にしています。若い頃に読書をすることの意義なども書かれているのでオススメします。
あと古典を読んでいていいなと思うのは、漢詩など読んでいていいなと思うことはありますが、それから何か得られるかというと、?です。ただそんな風に読んできた漢詩や和歌が自分の今の趣味やセンスを成しているのだとは思います。
>古典を読んでいていいなと思うのは、漢詩など読んでいていいなと思うことはありますが、それから何か得られるかというと、?です。
僕も何が得られるのかわからず、質問した次第です。
何が得られるのかわからないものに時間を費やすくらいなら、語学などの実用的な学問に時間を費やすほうがベターなのか。
人間の本質的な考え方が学べます。
昔も今も、本質的な考え方は変わってないもんだな、
と思えるところがつまっていますね。
あとは、表現力が身につきます。
多彩な言い回しができると、
笑いを取るという観点でも
キレる人を演じる観点でも役にたちますね。
本質的な考え方って何ですか?
表現力・語彙力が身につくというのは納得できます。
本って言うのは、読む人のその時の物の考え方や、経験してきたことによって、得られるものが大きく変わると思います。
その対象が小説(古典)である必要はないとは思いますが、それを勧めるということは何らかの根拠があると考えて、物は試しで(今は興味がない、意義が感じられないとしても)読んでみるのも良いかもしれません。
もちろん読み始めてみて、やっぱり興味が持てない、意義が感じられないというのであれば、途中で止めるのもありでしょう。
まぁ、あまり答えを求めても出ないときは出ないですし、どうするか、どう考えるかは好きにしたらいいんじゃないですかね。
個人的には、気が向いたときに気が向いたものを読めばいいと思います。
あとは概ね、先の回答者(yuzuriha0724)さんと同じ意見です。
参考になりました。
小説は、どのようなものであれ、リアリティーが必要です。特に、人間の心理描写(世の中の反応なども含めて)が優れていないと面白くないでしょう。
『変身』や『金閣寺』は読んでいませんが、虫に変わっていたり、金閣を燃やしたりすること自体が重要なのでなく、そのような表現でどのような普遍的な心理を描けているか、が大事なことだと思います。
古典と呼ばれる作品は、名作と呼ばれる作品です。時代の流れによって変った価値観、心理などはあると思いますが、このような長い間、たくさんの人に評価されていますので、必ず普遍的な心理があるはずです。
また、高校時代の読書を薦める理由として、学生時代のときが一番自由な時間が多いということがあげられます。つまり読書の習慣
をつける時間をとりやすい、ということです。
「普遍的な心理」が描かれている作品を読むことで、どんな意義があるのでしょうか?
多角的なものの見方。
たとえ自分が賛同できなくても、そういうものの考え方があるのだということを知ることができ、後々、多くの人と接する上で軋轢が生じにくくなるのではないでしょうか。
古典も・・・ということは、時代に関係なく普遍的な考え方もできるようになるでしょうし、そこまでなくとも昔の人はそういうものの考え方をしていたのだという、別の価値観を持つことができるでしょう。
つまり、多様な考え方・価値観を認めるということですね。
読みたくないんですね。
そういう気持ちで読むのなら、何を読んでも自分のためにはならないかもしれません。
(自分も学生の時、そう思いました)
メリットといえば、、そうですね、、
何人かのおっしゃるとおり、読解力・隠喩から、その話の本質をつかむ力が付くのだと思います。
現代文にくらべ、話の展開や、事実情報がズバリ書いていない古典が多いので、そういう「裏の意味」みたいなのを、見極める訓練になるのかもしれません。
読解力は思いのほか、社会に出て働いてから役に立ちます。
むろん、あなたの言うように「そんなの他のモノからも学べますよね」といわれれば、そのとおりです。
1つの事を学ぶのに、手段はいろいろですから、先生も「古典からしか学べない」とは思っていないと思います。
あと、どうでもいいメリットとしては。。。
「平家物語の出だし」「孔子の教え」とか「作家○○の代表作は」
なんていうのは、一般常識として雑談なんかで登場したりします。
そんな時「学生時代に読まされて覚えてた」「1節だけ感動した部分がある」なんて言う人は、ちょっとインテリっぽくて素敵です。
意外な人がそんなこというと、人間に円熟味なありそうな雰囲気にみえます。
あと、大人になってから思ったのは、
その「ゆかりの場所」に旅行とかで行った時に、結構感慨深い。というのもあります。
ああ、あの小説の舞台かあ。。。こんな小さな寺なのか。っていう風に。
なくてもいいメリットだと、言われそうですが。。。
嫌々なら、読まなくていいです。
でも、読んであとで後悔することは殆どないと思います。
時間が惜しいなら、全部読もうとしないで、さわりだけでもいいと思います。
「やっぱりつまんないな」と思っても、読んだ記憶があとで効いてきます。
いいえ。
実は、「活字中毒」と言われる程読書ばかりしておりました。
ところが、ふとしたきっかけから、「読書に費やしてきた膨大な時間に対して、果たして自分は何を得られたのだろうか?」と考えました。
そこで、皆さんの意見を聞こうと思い、質問した次第です。
僕は実際に体験してみる事こそ財産だと思います。
学生なら夏休みなどの長期休暇にボランティア活動とか。
精密に読み、その読み取った内容を記憶に留め、
正確に引用できるなら財産になるんでしょうけど、
僕にはできませんw
私「高校のときさ、●×って授業で読まなかった?」
女性「あー読んだ読んだ!」
私「内容ってさ…」
女性「そうそうええっとそのあと…」
私「ちょっとそこのカフェで話そうよ」
女性「立ち話もなんだしね」
女の子ゲット。
なんてね。知識ってのはそういう時にも役立つもんです。
では、読解力が身についた後は小説は必要ないということでしょうか?