実際(史実)としては、義士たちの行進時の江戸町民の反応はどのようなものだったのでしょうか?
映画などで見られるように、町民が通りへ出て拍手喝采などしていたのでしょうか?それは脚色としても、行進時の町の様子が分かるようなURLまたは文献を教えて下さい。
詳細は不明だけど全体の様子を見た感じだとある程度脚色されている可能性は高いと考えられます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%8...
町民は夜盗かもしれない集団に対して扉を閉めて様子をうかがっていた、いや表に出て行進を見ていた…などの具体的文献などは無いのでしょうかね…ありがとうございます。
あまり明確に書かれたものは見つからなかったのですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%8...
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews08/news242.htm
http://blog.livedoor.jp/kinnyuuronnsawa/archives/50906836.html
http://www.tokyo-kurenaidan.com/chushingura1.htm
http://csx.jp/~amizako/seishichuushinngura.txt
・事件の終結が朝の6時ごろ。
・回向院に集合の予定が断られて泉岳寺へ移動することになった。
・船で移動しようとして断られた。
・何ヶ所かの屋敷などで「何者だ」と問われたりしている。
・たまたま通りかかった知り合いの店で甘酒をもらって休憩しているなど、個別の店などの記述が多く出てくる。
・大名行列とぶつかることを懸念して主に裏通りを通行。
・泉岳寺到着が8時〜9時ごろで2、3時間しか移動に要していない。道が混雑していたらそんなに早く進めない。
・もちろん(幕府が裏で糸を引いていた説もありますが)これは反政府活動なわけで、おおっぴらに喝采すると間違いなく咎められることはみんな知っていたはず。
などを総合すると映画で見られるようなやんやの喝采を浴びての凱旋行進であった可能性は低いです。
なにより、上杉の調査班が浪士の撤退を確認したのすら7:00。
テレビやラジオがあるわけでもなく、事前に移動ルートが公開されているわけでもないので人だかりができるとは考えにくい。通路沿いの住民にすらば、朝起きて前の道をみたらなんか怪しい血まみれの火事装束の集団が歩いている…!という状況なわけで、普通の反応なら(事情を説明されないかぎり)怖がって出て行かないのではないでしょうか。
参照URLはだいたい見てましたが、それを基にしたコメントありがとうございます。心のこもった回答で嬉しいです。
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/30/7/3024110.html
人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』はお読みになったでしょうか
物語になっているとはいえ、当時の風俗や考え方の参考にはなると思います。
「町民が通りへ出て拍手喝采」はなかったように思えます。瓦版があったとはいえ、討ち入りから間もない泉岳寺への行進時に町民が顛末を知っていたとは思えません。町民が彼らを英雄視し始めたのは泉岳寺入りした後のことでしょう。討ち入りは人知れず奇襲によって行われたので、町民が討ち入りを知っていたとなれば、吉良も知っていたはずです。
また、当時でも許可を得ない仇討ちは死罪に当たる禁でした。夜襲したので許可は得ていないでしょう。となれば罪人。目の前で彼らに対して拍手喝采などしようものなら捕まってしまうかもしれません。
最後に一点、彼らの遺品は散り散りになっています。上野の五條天神社では、年末になると大石の文や討ち入りに使った刀が展示されます。以前はもっと多かったらしいのですが、先の大戦で疎開先に持ち出されてさらに散り散りになっています。なぜ泉岳寺ではないのでしょうか。私は詳しく調べていないので分かりませんが、何か参考になるかもしれません。
仮名手本こそ、当時創作された赤穂浪士よりの脚色本ということであえて参考にはしていませんでした…するどい洞察ありがとうございます。
当時の町の様子を知りたかったのですが…
「行進時の町の様子」を尋ねたのですが、より具体的な回答を頂きたかったです…検索ありがとうございます。