恐らく、昔は今ほど川の整備も当然されていないので、氾濫が起きますよね
その対策として上流にいい家柄の人が、下流にはそうじゃない人が住むようになったのではないでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B8%82%E8%A1%9...
詳しくはWikiにも書いてあるとおりでいいでしょう。現在、多摩プラザや青葉台を中心に起こっている現象が都内で起こったのです。
東海道53次の第一の宿場町が品川だったことがどういう意味かご存知でしょうか。品川は江戸時代は漁師町でもありましたが、遊郭でもありました。高杉晋作などは吉原の女は高いからと品川まで歩いていって女を求めたようです。
神田周辺を歩いているとその頃の名残が地名として残っています。
現在下町とされている場所でも、江戸時代はむしろ高級武士の住まいであった所は多いのです。さて幕末・明治維新の争いで勝利した薩長・土佐から大量の武士が流れ込んできましたが、そこには江戸庶民が住んでおりまだ郊外であった地域にその住まいを求めるしかありませんでした。その頃の住宅地に住めたのは既に権力を握っていた一部の藩閥だけで、若手の出世株がまずそういった場所に住まいを求めたのです。
そういった新居住者は年を経るにつれて、旧居住者の上に立つようになりました。さらに震災や東京大空襲の際にも混乱の最中いち早く郊外に免れる術を持っている人々は後に新興勢力として栄えていきましたが、古い土地に住みつづけるだけの術しか持てない人々は落ちぶれていったのです。
日本の都市の典型は、城下町と門前町。殿様や寺社仏閣は山や丘の上。庶民はふもと。社会的地位の高い人が高いところから順番に住んでいったというロジックだと思います。
また、移動のコストが高かったことを考えると丘の上に住むには人や物を上まで運ぶコストがかかるので貧しい人は住めない・・・だから金持ちが集まる、集積効果が加速される面もあったのではないか。
これは日本に限ったことではなく、ブラジルでも山の手は金持ち、谷には貧民街という傾向があって、町自体に丘と谷が入り組んでいるからサンパウロは治安が悪いという説明もあります。
高いところにすむのが上流の人(あるいは人間としての)の欲求なのでしょうか。そこが知りたい。
例えば江戸の初期、武家屋敷はどこにあってもよかったはずですが、山の手に出来ました。これは都市計画でしょうか?それとも大名のわがままでしょうか?
逆に庶民はすめるところにすむしかないので、仕事のあるところか安いところにしか住めないのはわかります。
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なかなか面白い情報を頂きありがたいのですが、wikipediaからは、山の手には上流が、下町には庶民が住んだという以上の情報はえられませんでした。山の手に武家屋敷があった理由、下町に商工業が集積した理由が明確ではないです。