東京の青山、表参道、原宿周辺には、ファション、インテリア、アート(骨董)などの流行・文化を発信する商業施設が集積し、また、CF、コピーライター、デザイン、ファッション等のクリエーターやデザイナーの事務所も集まっていて、1つの特色あるエリアを形成しています。 何故、この地に、このような文化、流行を発信するものが、他のエリアに比べて集積しているのかを調べています。
戦後、表参道に進駐軍将校家族のためのワシントン・ハイツが出来、ハイカラな街が始まったと言われ、その後、同潤会青山アパートにファンション関連の人やお店が入居していったのをきっかけに、文化・流行の発信するものが集積して来たようです。
この説を肉付けするような、1980年以前の関連情報を捜しています。
ご存じの方の情報をお待ちしております。 よろしくお願いいたします。
青山界隈がファッションの街として確立する前史を探っていきますと、エポックメーキングな出来事や事象があることが分かります。オリンピックにより青山通りの拡張工事があり、原宿セントラルアパートにはクリエイティブな若者が集まって文化拠点を築いていました。その後、VANをはじめ「NICOL」「BIGI」「コム・デ・ギャルソン」「パレフランス」「ラフォーレ原宿」などのファッション関係のショップやファッションビルが次々とオープンされていきました。アンアンやノンノなどのファッション雑誌が創刊されて、ブランド商品やショップを紹介することで青山の知名度も相乗効果で高まっていったのです。
http://www.kissport.or.jp/spot/tanbou/0507/index.html
青山の街並みを大きく変えたのは、昭和39年に開催された東京オリンピックです。国立競技場をメイン会場とするため、青山通りの大幅な道路拡張工事が行われ、道幅は22メートルから一気に40メートルになります。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/person/epoch/060227_oh2/
表参道という街は、もともとクリエイティブな人たちが多く集まる場所なんですね。コープオリンピアや、かつてあったセントラルアパートには、多くのデザイナー、コピーライター、カメラマンなどが住んでいました。浅井慎平さんも自伝的な小説『原宿セントラルアパート物語』という本を書いていらっしゃいますよね。
http://www.yomiuri.co.jp/book/author/20060307bk01.htm
職場があった「原宿セントラルアパート」は若いクリエイターらの一大拠点で、1階には芸能人も訪れる喫茶店レオン、地下には小さな洋服屋さんがぎっしり。週末はツイスト・パーティーで盛り上がった。原宿は瞬く間に、新時代カルチャーの発信地となっていった。
http://www.books-ruhe.co.jp/recommends/2002/02/harajukusentoraru...
http://www.fashion-rekishi.com/van.html
アイビー・ルックで一大ムーブメントを巻き起こしたVANが1964年に移転した青山は、VANのファンの若者が集い、VAN関連施設が軒を並べる「VANの街」と呼ばれていました。
http://www.geocities.co.jp/fmcgr918/van1.htm
青山三丁目交差点を中心とする青山通り、千駄ヶ谷・霞町交差点方面に向かう通称
“キラー通り”及び一部の原宿・明治通りなどにいくつもの社屋及びVAN関係の施設が
点在していました。いつしかこの辺りを“VAN TOWN 青山”と呼ぶようになりました。
http://www.orientkosan.com/jp/town_aoyama.html
1963年VANのオープン以来70年代のNICOLやBIGI、80年代のコムデギャルソン、ヨージヤマモトなど時代を代表するブティックが青山にそろったことでもその印象が植え付けられたようです。
http://www.shibukei.com/special/144/index.html
もともと青山・表参道エリアは1970年代に「NICOL」「BIGI」、80年代に「コム・デ・ギャルソン」「ヨージ・ヤマモト」など時代を先導するショップがいち早く出店した場所。
コムデギャルソンは上記に説明されている80年代ではなくて72年説もあります。
http://ameblo.jp/lubys/entry-10020683998.html
http://www5a.biglobe.ne.jp/~wo-house/1960.htm
川久保玲、「コム・デ・ギャルソン」をスタート。’72年に原宿の直営店ができるまで、鈴屋などで売られていた。
http://www.mng.toyo.ac.jp/publication/keieironshu/g200003/09tsuk...
188ページ注47からです。
70年にフランスのモード雑誌『エル』の日本版として『アンアン』創刊、翌71年『ノンノ』創刊、75年には『流行通信』と『JJ』の創刊、77年『クロワッサン』と『モア』の創刊、そして88年に『Hanako』創刊と続く。
その後の注48に「代表的なファッション・ビルの開店」が紹介されています。
http://www.hilife.or.jp/pdf/20015.pdf
19ページからです。
1970年以降、ファッション業界の人がこれに目をつけ、トレンディーな店舗が立地する。併せて「アンアン」「ノンノ」などのファッション雑誌がこれを取り上げ、全国的に原宿が知られていく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1
徳川家康の重臣であった青山家の広大な屋敷にちなんで、この付近一帯の町名に青山を冠した(青山○○町)ことが地名の起こりである。
青山家の末裔には、骨董鑑定家青山二郎(1901年-1979年)やゲランミツコで有名なクーデンホーフ・ミツコ(1874年-1941年)がいる。現今ではブティック・美容室など服飾関係の商店が目立つ。
有名なデザイナーがいて、その人のところにデザイナーや服飾関係のお店が集まってきたようです。
お早い回答ありがとうございます。wikipediaからの引用では、確かに私の質問の
回答にはなっていますが、残念ながらまったく役に立ちません。ちょっと回答者の姿勢
としてひどいと思います。
http://www.tokyoartbeat.com/event/2007/8D67
>1954年5月、岡本太郎は東京・青山、現在の骨董通り近くにアトリエ(現岡本太郎記念館)
>を構えました。坂倉準三建築研究所によるモダンなアトリエ兼住居を、岡本は「現代芸術研究
>所」と称し、自らの芸術運動の拠点と宣言します。彼がここで目論んだのは、戦後の活動から
>一歩広がりをもたせ、丹下健三や柳宗理ら先鋭の建築家やデザイナーらも巻きこみ、より総合
>的に前衛芸術運動を再燃することでした。この時期の岡本は、日本のグッドデザイン運動の先
>駆けである「国際デザインコミッティ」(現日本デザインコミッティー)への参加や、美術家
>同士の連携をはかる「アート・クラブ」で代表をつとめ、アンフォルメル流行のきっかけと
>なる「世界・今日の美術」展を実現するなど、周囲との連携のなかで新たな芸術運動の道を
>探りました。
ご回答ありがとうございます。
確かに、岡本太郎のアトリエが青山にあるということは、
今の青山にとって、キーポイントであるですが、ファッションの
三宅一生も、何故、青山でなくてはいけないかったのか?
その答えがなかなかつかめていません。 関連情報ありがとうございます。
以下の必須文献をご一読ください。図書館にもあるはずです。
(回答にISBN記法はつかえるのだろうか。。)
表参道のヤッコさん
原宿セントラルアパートを歩く
http://www.amazon.co.jp/%E8%A1%A8%E5%8F%82%E9%81%93%E3%81%AE%E3%...
http://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E5%AE%BF%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%...
必須文献のご案内ありがとうございます。当然、必須文献ですから、当然すでに読了
しております。 情報、ありがとうございます。
青山界隈がファッションの街として確立する前史を探っていきますと、エポックメーキングな出来事や事象があることが分かります。オリンピックにより青山通りの拡張工事があり、原宿セントラルアパートにはクリエイティブな若者が集まって文化拠点を築いていました。その後、VANをはじめ「NICOL」「BIGI」「コム・デ・ギャルソン」「パレフランス」「ラフォーレ原宿」などのファッション関係のショップやファッションビルが次々とオープンされていきました。アンアンやノンノなどのファッション雑誌が創刊されて、ブランド商品やショップを紹介することで青山の知名度も相乗効果で高まっていったのです。
http://www.kissport.or.jp/spot/tanbou/0507/index.html
青山の街並みを大きく変えたのは、昭和39年に開催された東京オリンピックです。国立競技場をメイン会場とするため、青山通りの大幅な道路拡張工事が行われ、道幅は22メートルから一気に40メートルになります。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/person/epoch/060227_oh2/
表参道という街は、もともとクリエイティブな人たちが多く集まる場所なんですね。コープオリンピアや、かつてあったセントラルアパートには、多くのデザイナー、コピーライター、カメラマンなどが住んでいました。浅井慎平さんも自伝的な小説『原宿セントラルアパート物語』という本を書いていらっしゃいますよね。
http://www.yomiuri.co.jp/book/author/20060307bk01.htm
職場があった「原宿セントラルアパート」は若いクリエイターらの一大拠点で、1階には芸能人も訪れる喫茶店レオン、地下には小さな洋服屋さんがぎっしり。週末はツイスト・パーティーで盛り上がった。原宿は瞬く間に、新時代カルチャーの発信地となっていった。
http://www.books-ruhe.co.jp/recommends/2002/02/harajukusentoraru...
http://www.fashion-rekishi.com/van.html
アイビー・ルックで一大ムーブメントを巻き起こしたVANが1964年に移転した青山は、VANのファンの若者が集い、VAN関連施設が軒を並べる「VANの街」と呼ばれていました。
http://www.geocities.co.jp/fmcgr918/van1.htm
青山三丁目交差点を中心とする青山通り、千駄ヶ谷・霞町交差点方面に向かう通称
“キラー通り”及び一部の原宿・明治通りなどにいくつもの社屋及びVAN関係の施設が
点在していました。いつしかこの辺りを“VAN TOWN 青山”と呼ぶようになりました。
http://www.orientkosan.com/jp/town_aoyama.html
1963年VANのオープン以来70年代のNICOLやBIGI、80年代のコムデギャルソン、ヨージヤマモトなど時代を代表するブティックが青山にそろったことでもその印象が植え付けられたようです。
http://www.shibukei.com/special/144/index.html
もともと青山・表参道エリアは1970年代に「NICOL」「BIGI」、80年代に「コム・デ・ギャルソン」「ヨージ・ヤマモト」など時代を先導するショップがいち早く出店した場所。
コムデギャルソンは上記に説明されている80年代ではなくて72年説もあります。
http://ameblo.jp/lubys/entry-10020683998.html
http://www5a.biglobe.ne.jp/~wo-house/1960.htm
川久保玲、「コム・デ・ギャルソン」をスタート。’72年に原宿の直営店ができるまで、鈴屋などで売られていた。
http://www.mng.toyo.ac.jp/publication/keieironshu/g200003/09tsuk...
188ページ注47からです。
70年にフランスのモード雑誌『エル』の日本版として『アンアン』創刊、翌71年『ノンノ』創刊、75年には『流行通信』と『JJ』の創刊、77年『クロワッサン』と『モア』の創刊、そして88年に『Hanako』創刊と続く。
その後の注48に「代表的なファッション・ビルの開店」が紹介されています。
http://www.hilife.or.jp/pdf/20015.pdf
19ページからです。
1970年以降、ファッション業界の人がこれに目をつけ、トレンディーな店舗が立地する。併せて「アンアン」「ノンノ」などのファッション雑誌がこれを取り上げ、全国的に原宿が知られていく。
歴史の流れに沿った多数の情報のご提供ありがとうございます。正におっしゃる
通りの筋書で、青山、原宿、表参道の街のシーンが形成されて来たと思います。
私も、この筋書きどおりの流れと考えておりました。 何故、青山に集積しって
いったか?の追補情報となりました。 情報ありがとうございます。
本件、終了後きちっとしたご返礼をさせていただきます。
歴史の流れに沿った多数の情報のご提供ありがとうございます。正におっしゃる
通りの筋書で、青山、原宿、表参道の街のシーンが形成されて来たと思います。
私も、この筋書きどおりの流れと考えておりました。 何故、青山に集積しって
いったか?の追補情報となりました。 情報ありがとうございます。
本件、終了後きちっとしたご返礼をさせていただきます。