正義と悪も存在しない
教育と洗脳は同じ意味の言葉である。
給食を残さず食べることはいいこと
嘘をつくのは悪いこと
ものを大切にするのはいいこと
戦争は悪いこと
どれもなぜそれが、いい事なのか、悪い事なのか説明ができない。
立場等によってそれは反対の意見にもなる。
例えばものを大切にするという概念が徹底されると日本経済は麻痺します。
麻痺したら駄目なのかと言われれば、私個人的にとっては不都合ではありますが、
駄目なこと、悪いことだとは説明ができません。ただし不都合ではあります。
一時的に正義とされていることでも時代、国、人種、宗教など様々な
要因によってそれは悪にもなるという事から普遍的な正義は存在しない。
学校で行われる教育は時代、国、人種、宗教など様々な
要因によってそれは洗脳と言うこともできるので教育と洗脳は同じ言葉である。
例:北朝鮮での金正日を褒め称える内容の教育
私はこのような考えを持っています。ご意見をください。
倫理観はどのようにして形成されるかを調査されたらどうでしょう?
>例えばものを大切にするという概念が徹底されると日本経済は麻痺します。
そんなことはありません。経済を活性化する方法は幾らでもあります
ありがとうございます。調査というか、世の中はこのようになっているのではないかと以前から思っていたので、こちらで発表してみました。
それについてご指摘などをいただきたいと思っています。
ものを大切にするという事を徹底する。
どのレベルで、どういう意味でという事は色々あるかと思いますが、冬物のコートは毎年買い換える必要はなく、穴が空いても使い続けることが道徳的なことだということになれば、アパレル産業は壊滅的な打撃を受けると思います。
老若男女問わず去年きたTシャツを今年も、来年も、その次の年も
原型をとどめないほどに、例えばアフリカの貧困層の子供のレベルで着られると、困るわけです。
まだ、使える電化製品を捨てるという文化が日本にはありますが、
使えなくなるまで使う、使えなくなっても自力で修理し使うことが道徳的だと言う事が徹底されている状態になれば
電機メーカーは大打撃を受けることになります。
車の買い替えにおいても同じことが言えると思います。
経済を活性化する方法とは具体的にはどのような方法でしょうか
もちろん、教育は国家による洗脳です。
物事の価値観は時代によって変わります。
その時代、その国家が国民にどのような価値観を植えつけたいかによって教育の方針が全く変わってきます。
何がタブーか、何がマナーか、何が「やってはいけないこと」なのか…全てがその時代・その集合体による価値観があり、それを「教育」することによって、その集合体にとって必要な人材を育てていきます。
なぜそれが、いい事なのか、悪い事なのか、はその集合体全体にとって利益になることが「いい事」で不利益になることが「悪い事」です。
それは集団生活をする「人類」という生物にとって必要な物です。
倫理・マナー・法律……呼び名は違えど皆これらはその集団を円滑に規律していくためのルールです。
それを理解して自分に植えつけられた価値観が「絶体普遍の真理」ではないという事を知っておく事が人には必要だと思います。
ご意見ありがとうございます。
いいこと、悪いことを、国や団体や権力者が設定している件について
それは、それらのコミュニティが考える安定と秩序と利益を守るためにやっていることだというのが私の認識です。
どうもありがとうございます。
ポイントは3つですね。
1.教育は洗脳である。
2.道徳は国や地域、個人により異なりまた徹底することで弊害も生じる。
3.善悪は一定ではない
これらは別に意見でも何でもなくてただ物事の一面を切り取っただけです。なので否定することなど出来ません。
1は洗脳であるというのはまぁ極端な言い方ですがそういう面があるのは確かです。そして、そういう面を考慮するのが先進国の教育です。(日本もある程度は実行している)
例えば教科書検定であれだけ問題になるのはこういう事に起因している部分もあります。
教育というのはそもそも勉強を教えることと動議ではありません。一般社会において生活上で大切なことを教える場です。これを洗脳というのならば洗脳でしょう。
2も当たり前のことですね。道徳というのはうがった見方をすれば円滑に生活するためのルールです。そこには理由は存在しません。
例えばスープ(味噌汁)を飲むときなんかは日本では音を立てる物だし、外国(欧米)では絶対にたててはいけません。どちらも意味はありません。
しかし、生活する上でそういう「良いこと」をすることでスムーズな人間関係を築くことが出来るのです。
また、道徳というのは同じようでいていくつかの段階に分かれていると思います。
①守らないより守った方が良い道徳
②他人に迷惑をかけないために守った方が良い道徳
③人間の根幹にかかわる道徳
といういくつか分類できると思います(ここでそれぞれの道徳を同区分していくのかも千差万別でしょうが)
①は味噌汁、②は電車で形態の電源を切る(正確には微妙だけど)③嘘をつかない、人を傷つけない
こうしてみると明確な理由があるのは②が多いでしょう。そして①、③は守るのに理由はありません。
あとこの項目の最後になりますが「物を大事にすること」で日本経済が麻痺するなんて書かれていますが、そりゃ詭弁です。
どんなに物を大事にしてもいつかは壊れます。また、昔は現在よりももっと物を大切にという道徳は徹底されていたけれども今よりよっぽど経済が成長していたでしょう?
(自分より親の方が物を大事にしていませんか?)
そして、私は物を大事にしないという事を守らなくなることで現在この国はおかしな方向に向かっていると思いますよ。つまり目に見えない物を大事にしないと言うことです。
それこそが日本の美徳なのにやれグローバルスタンダードだ、負け犬理論と・・・
そりゃお金が大事じゃないとは言わないけどただあらゆる手段を使ってお金を稼げば良いというのは反対ですよね?別に成長していくことには反対しないけれども良い成長の仕方をすべきだと思います。
3については「わかっちゃいるけどやめられない」です。世界中一人一人に「善悪は一定ではない?」と質問すればおそらく大体数は「YES」と答えるでしょう。(私はそれぐらいは人間の善意、良識を信頼しています)
けれども現実はいろいろな理由でこのことに目をつぶり「聖戦」をします。(一体全体どこにそれぞれの教義に人を殺して良いなんて言うことが書かれてるんだ?)
これは平和と同義だと考えても良いかもしれません。おそらく現実的には永遠に解決することはないけれども本当に実現しようと思えば(認めれば)たった1秒で解決できてしまう問題。
最後にまとめ。冒頭にも書きましたが質問者さんの意見はほとんど間違ってはいないと思います。なぜならそういう見方も実際に出来るからです。これは善悪が一面的な物ではないというのと同じです。全ての物事は多面的なものです。
質問者さんに意見するとすればそれはあくまで一面的な物の見方なんだということを強調したいです。(一面的な物の見方の危険性は質問者さんは理解しているはずです)
ご意見ありがとうございます。
なるほど、参考になります。
ものを大切にすると経済が麻痺するというのはいいすぎだと思いました。
経済が停滞するという事は言えるかとは思いますが。
ただ、GDPが下がるから悪いとは思いません。
お金を稼げばそれでいいかというと私はそれが全てではありませんが、
個人的にはお金を稼ぎたいと考えています。
それは仕事をしなくても生活することが可能になるからです。
仕事をしていると嘘を付くことが色々な場面で発生します。
朝、決まった時間に起きることも必要でなくなります。
好きなこともできるでしょう。
仕事では嘘とまでは言わなくても大げさ、紛らわしい、意図的に不適切な説明をする事が
求められる事もあるかと思います。
私は嘘を付くことが嫌いな人間です。
私のこういう部分は社会不適合な部分で不都合な事がよくあります。
と、まぁそこは別に今回の件とは関係ないですね。
>善悪が一面的な物ではないというのと同じです。全ての物事は多面的なものです。
こういう事を私は言いたかったのだと思います。
「物事は多面的に見ることもできるんだよ。」という考え方は
ある事柄ではタブーとされています。
うまくまとめる事ができませんが、とても参考になりました。ありがとうございました。
正義と悪のわかりやすい境界線のひとつ。
「レジスタンスとテロリスト」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%82%B...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%82%B...
勝てば官軍、といいますか、それぞれの立場や結果によって、
選択や行動はいつも正義だったり悪だったりします。
だから、正義と悪は存在する、と言えましょう。
主義主張がなければこそ、自分の立場がなければ、正義と悪は存在しなくなります。
なんでもかんでもどーでもいい人、もしくは全てを超越しちゃった無我の境地でなければ、
そうはならないでしょうね。
でも、人は痛みや悲しみを避けたいと思うし、
自分自身だけではなく、近しい人、あるいは全く知らない人でも、
そうした苦痛から避けてあげたいと思うのです。
だから、人が人であるがゆえに正義や悪は、それぞれの価値観の上に存在して然るべき物。
その多種多様な価値観の仲介や統制を取る為に法が存在します。
しかし当然人が作った以上完全ではありません。
「ものを大切にするという」という概念が法に準じない内容である以上、y7ujmnhyさんが賛同できず、実地しなくても誰も何らかの強制力を持ちません。あなたにとって、それは善ではないだけの事です。
「大切にしすぎて使わないんじゃ本末転倒」という事もありますし、「消費の拡大=経済効果」を良しと思う人も多いでしょう。
ならばこそ、物事を紋切り型に考え、捕らえる事が一番の間違いだといえるでしょう。
多種多様な事柄があるからこそ、正義と悪と切り分けられないならばこそ
そこには個々の価値観や、理由、結果からそれがある事も受け入れなければならない。
ありなし、ではなく、何故善なのか、悪なのか、どういう時に、誰がそう感じるのかを考え、知る事こそが善悪の存在よりも大切なのではないでしょうか?
給食問題では、アレルギーなどの問題で「残す=悪ではない」という知識が育ったのと同時に「嫌いな物を強要する=悪」という思想的な主張が出てきてしまいました。
そこで近年注目されているのは「食育」
児童だけではなく、親や教師に対して、何が何の為に必要なのかを「知り、考えさせる」プログラムです。
ただ、イイ、ダメ、では割り切れない。
だからといって、大切な自分や子供の健康だからこそ、無関心や「一言で言えないからどっちでもいいや」ではいけない。
「良いか悪いか」「すべきか、しないべきか」を自分が判断しようとする事こそが、それそのものへの関心の度合いや、真剣さだと思いますよ。
そして、それを自分だけではなく他者の立場に広めることが「思いやり」と言えるのではないでしょうか。
ご意見ありがとうございます。
正義と悪は存在するという事ですね。
私は個人的に、私個人の範囲内での正義はありますが、それが普遍的な正義という事を証明することは
できないし、私の考えを悪と据える人がいる可能性についても考えます。
よって立場が違えば同じ事柄でも正義にも悪にもなるのだという事を言いたかったのです。
とある人が「これは正義なんだ!」と言ったときに
「ちょっと待て待て。確かに私もその件に関しては正義だと思うがこの正義は普遍的なものではないんだよ」
という事がいいたいんだと思います。ありがとございました。
相対主義者が自家撞着に陥る典型を見ました
ありがとうございます。こういう考えを相対主義だというのですね。
自己矛盾している点がどの点なのか具体的に教えていただければありがたいです。
私はこの考え方は私の中では正しいとなっています。暫定的に。
しかし、この考えが正しいという根拠はなく、その部分も相対的に考えています。
基本的に賛同します。
差異(違い)を肯定するのが自分の思想の根底にあるため、いい・わるいが存在しないという点は特に賛成します。
また、教育が洗脳である、というのも同じく賛成です。洗脳というと言葉が悪いですが、各人の大切にしている価値観なんて、およそ教育や育った環境に影響された程度のものだと思っています。(恋愛は最高、という考えもまた恋愛資本主義的な国にいたからの発想でしかない、みたいな)
ただ、それらは入り口にすぎない思考だ、ともまた思います。
根底の考えとして、いい・わるいが存在しないというのはいいことだと(少なくとも自分は)思いますが、それだけを唱えても仕方ありません。
現代思想においても差異を肯定するという発想の思想家はいるので(詳しくないですが、確かドゥルーズです)ぜひ勉強してより思想を深めて欲しいと思います。
ありがとうございます。
哲学という言葉に全く興味が無かったのですが、私は哲学していたようですね。しかし、哲学は危険だと思います。
面白すぎるから他のことができない。中毒になりそうです。
しかし、探究心があるのでブレーキはかけれない。
ありがとうございました。
自然界には善悪というのはないと思いますので、もともとは「いいこと、わるいこと」は無かった。といえるのかもしれません。
台風がきたら悪いとか、小動物を食べたらいけない。ここに根を生やしてはいけない。というのは動植物達にも天候にもないとおもうので。
善悪というのは人間社会でのみ通用する概念なのだと思います。
そして、「善悪というのは、存在するけれど、人間社会で共通化された善悪の概念はない」という考え方のほうが私にはしっくりきます。
答えは、一人ひとりの人間が決めることで、本当の善悪は標準化できないもの。なのだと思います。質問者様の意見のとおり、戦争が善の人も、国家政策が善の人もそうでない人もいます。
ただし、社会の様々なシステムを維持してゆくためには、運用ルールというのも必要になります。「自動改札を機能するために、入出札にはICカードを所定の位置にタッチしないといけない」「喫茶店では喫煙席でタバコを吸って下さい」というのも、運用管理者のきめた良し悪しのひとつであると思います。
「人を殺してはいけません」「給食を残してはいけません」も善悪なのでなく、大きさの違いこそあれ、単に社会システムのルールのひとつなのだと思います。
そして、そのルールの大きいもの。(警察に捕まるようなのとか、宗教的、国家的なルールに踏み込むもの等)を「倫理感」として語ったりしているのかな?と
倫理の良くわからない私は、便宜的にそう理解しています。
大勢の人が「そりゃいかんだろう」と思うルールを「悪」と呼び、大勢の人が「それはいいことだ」と思うのが「善」と呼ばれる。ということだと思いますが、出所は社会ルールなのだと思います。
なので、まとめると、以下のように私は考えます
・善悪というのは、たしかにもともとなかった。人間がつくった
・人間共通の善悪というのは存在しない。ひとりひとりが決めることだ
・社会生活を機能させるためには、システム運用上、だれかが設定した善悪が必要である
・善悪ルールのヘビーなのが、倫理的な善悪である
ありがとうございます。
正義を設定しないとみな自由に行動するようになり、秩序が維持できないと時の権力者等が困るから道徳等が設定されているという事だと思います。
要するに、真実は必ずしも一つとは限らない、ということです。
あらゆる事象には多面性があり、特定の一面を強調すれば特定の結論が一番望ましいという帰結点はあるものの、それが必ずしも他の側面における最善の結論とは限りません。
何が正義で何が悪かという考察についても同じことで、たとえば全てにおいて人命尊重が優先するという前提があればあらゆる武力闘争は「悪」になりますし、非人道的な抑圧から人民を解放するという前提に立てば、民族解放闘争などは善になります。そうやって「英雄」と呼ばれている人はたくさんいます。
教育と洗脳についても、たとえば今現在日本には「学校教育」と「社会教育」の大きな二つの柱があり、なるほど最近は政府の変節により、戦後否定された教育の国家管理という一種の「洗脳」が復活しつつあると言える状況がありますが、社会教育分野においてはその多くが地域住民の自発的な活動を基盤に展開されていますから、その中から「洗脳」の要素が指摘されることはまずありません。これは異なるものを混同して論じてしまう誤りの典型です。
大切なことは、
ということです。これをハッキリさせていかないと、何を考察しても意味がありません。
逆に言うと、大衆を騙すアジテーションなどは、この「大切なこと」を故意に誤魔化すことで成り立つわけですよね。目的を誤魔化し、複数の異なる物事をわざと混同させ、嘘ではないけれど隠し事の多いデータを前提に記者会見などを繰り返してマスコミを動かしていく。そんな政治、けっこう多くありませんか?
とりあえず、社会的な物事を考えるなら、まず、自分一人で一から考え始めることよりも前に、既に種々議論されている課題の様々な意見の、どこに隠し事があり、どこに嘘があり、どこに誤魔化しがあるのか、といったことを考えていくことが大切でしょう。そうしたギミックを見破っていく思考が出来るようになれば、より現実的で、より真実に近い結論が見えてくる思考が可能になってくると思います。
ありがとうございます。とても参考になりました。
>社会教育分野においてはその多くが地域住民の自発的な活動を基盤に展開されていますから、その中から「洗脳」の要素が指摘されることはまずありません。
確かに指摘されることはまず、無いと思います。
人が人に何かを伝え当人の意識を変えることを私は洗脳と定義していました。
それがいい事か悪い事かは別にして。
私は洗脳、マインドコントロールの言葉の違いをはっきり理解していません。
洗脳の持つ言葉の意味も勉強が足りませんね。
ありがとうございます。
y7ujmnhyさんは何のためにこの質問をしていますか。
おそらく何か「こうであってほしい」という想いがあって質問していると思います。
自分でそれを明確に定義することはできないものかもしれません。
相対的に考えれば善も悪もないのは当然のことで、個々の存在、事象は常に「在りたいように在る」ともいえます。
この質問をすることに「意味」を見出しているのなら、それがあなたの「在りたい」姿で、そのあなたを何が支えているかといえば、いまの日本社会であり、これまでつちかってきた人間の歴史であり、地球であり、物理法則でしょう。
それを足場にして発言をするようにすると、自家撞着には落ち入らなくなります。
つまり「こうしたい。こうであってほしい。だから私はこうする。」と自覚する。
その意識の上に立って善悪、正義が「こうなんだ」と主張する。
そして自分にとっての善悪・正義を共有できる仲間と協力し、対立する事象と交渉・対決・克服する。
まあこんな風に世の中は回っていると思いますし、y7ujmnhyさんのこの質問も、その行動の一環だと思います。
ありがとうございます。私は嘘をつきたくないと考えています。
正確でありたいと考えています。正しいことが世の中に無いとしても
そこをなんとか探し出したいと思います。
何か「こうであって欲しい」という何かがあるわけではありません。
レジスタンス活動や情報操作等の一環ではありません。
という事を発言する事に意味があるかどうかは分かりませんが、
他意はありません。
その通りだと思います。
絶対的な正義も悪も存在せず、人間が正しいと思う方向が正義というだけ。
感情面も含めて多数の利益になり得るかが焦点でしょうが、その感性も時代と共に変化していきます。
教育は「生きる術を教える」という面もあるのでイコール洗脳ではないですが、洗脳も少なからず含まれているのは事実です。
といっても大半は広義でいう宗教思想のみに限られると思います。
野球チームのファンとか、先入観による認識など、宗教思想との差はほとんどありません。
ありがとうございます。参考にさせていただきます。
立場、主観が「人間」という所にに限られてくると想像に限界ができてしまうような気がします。
人間も自然の一部です。いかに自然とうまくやっていくか。本当はそこが大事なんじゃないかと思います。
このようにインターネットも普及して、人間は万能のような気がしてしまうけれど、所詮動物なんです。
昔の人はそれを倫理とし、生きて行く術としていたのではないでしょうか。
でもそれが今は分からなくなっている。お金が必要な世の中だからそれに惑わされすぎる。
そしてお金のために起こる戦争は人の命や心も破壊しますが、自然環境の破壊もそれは甚大です。
ついつい自分の利益だとか、プライドだとかに縛られてしまいますが、ちょっと離れて自然の一部だよと感じることが大事なのかもしれません。
乱文&偉そうですみません。
ありがとうございます。違った視点で思考してみます。
文章が「世の中」から始まっています。
「世の中」を定義する意味がありますか?
何がいいか悪いか自分で判断しましょうよ。
ありがとうございます。そういう内容の質問ではありません。
「嘘をつきたくないと考えています。正確でありたいと考えています。」
私もそうありたいと思います。(自分の弱さからそうできないこともありますが)
私は善悪の判断をするときは、おおざっぱに分けますと、
個人
グループ
組織
国家
地球規模
と分けてこれらを比較して判断しています。
対象の規模が違う時は、大きな方を善としています。
判断しずらいのは規模がほぼ同等な場合です。(しかもその中に自分自身も関係してくるようならもっと難しいです。)
例えば自分と自分の子供で対立で考えるなら、まず、自分のわがままか、子供のわがままかを考えます。自分のわがままであれば、年長者の威厳を示すために、子供の意見をできるだけ通すと思います。それと同時に規模の大きいケースと比較して大きいが善だと思えば、諭してあげると思います。
しかし、こうありたいと理想があっても、必ずしも実行できるものではありません。
個人個人の精神の熟成さもありますが、規模が大きくなればなるほど意識が薄くなりがちだと思いますからです。
例えば自動車、地球規模で間違いなく悪いものですが、私自身自動車には乗っています。
また、この思考方法で、大勢の中ででの比較で善が少数派になると善を貫き通すのは難しいと思います。
えらそうな事を書いてしまいましたが、私自身精神が未熟なためなかなか実行できません。ただこうありたいと思っています。
なるほど、ありがとうございます。
地球規模とありますが、
そのさきの宇宙という概念で考えることは一般的ではないのですが、
宇宙規模で考えたときにというのがあってもおもしろいなと思いました。
アインシュタインの相対性理論を思い出しました。絶対的な定義づけ、線引きなどに対抗しているという点では、一貫性があると思います。
また内容的には、若い頃誰しもは一度が抱くような、社会に対するアンチテーゼといった印象を受けました。まだ自分のポジションや視野が明確ではないために、こうした「気づき」が得られるのだと思います。絶対的な価値観や倫理観などあるはずがない、それを踏まえたうえでなお、自分なりの価値観や倫理観を築いてみてはいかがですか。
なるほど、ありがとうございます。
>自分なりの価値観や倫理観を築いてみてはいかがですか。
実はそれを築こうという内容の勉強会に行った時に以前からずっと疑問に思っていたもので、はてなで聞いてみました。
ある、一本の道なり私なりの道徳を築いたとします。
「これがいいことで、これが悪いことなんだよ。」
しかし、自問自答してみます。「なぜ?」
A君「給食を残すことは悪いことですよ」
B君「なぜ?」
A君「生き物の命を奪っているから感謝しないといけません。」
B君「生き物の命を奪う事は悪いことなのか?なぜそこで感謝する必要があるのか?
人間に限らず古来より生命は生命の命を奪って生き延びてきた、命を奪うことは日常茶飯事だった
なぜ、そこに感謝という概念が出てくるのか」
A君「実を言うと、食べ物に感謝をするという考え方は現在の日本の社会情勢によりこれが道徳的で
あるとされている事柄なんだ。このような思想を持つことにより社会との摩擦が減り日本現代社会を
スムーズに生きていくために有利なんだ。言わばトラの巻のようなものなんだ。
さらに、この考え方を広めるということは更に道徳度数が高いとされていることなんだ。
しかし、注意をして欲しいのはこの道徳感というものは普遍的なものではないので
情勢によりコロコロ変わるのでその度その度カメレオンのように自分の色を変えていくことをお勧めするね。
それが、人格者という事にもなる。ある固定した色をしていると時代や国によっては
頭のおかしい人、近寄りがたい人、犯罪者等になる場合もあるので注意したほうがいいよ」
こういう結論になります。
子供の頃、私も同じことを考えたり読んだりしましたが、
相対性について考え始めるとキリがない(結論が出ない)というのが過去の私の結論でした。
働き始めてからは少し考えが変わりました。
まず教育と洗脳にはニュアンスに違いがあります。洗脳は完全肯定を強いるものです。ですが、教育は顔でわかった表情をしていても腹のうちではうまくやり過ごそうとする生徒が現実にたくさんいます。
仕事を始めたら、おっさんから若手までさまざまな人種が寄り集まって仕事をしていて、話題を合わせたり考えてることを探り当てるのに苦労しました。
初対面の人と会話するときに一番当たり障りが無いのが「学校の道徳」に則った会話の運びです。それで様子をみてから、自分なりの話をしないとたまに地雷を踏みます。
どんな仕事であってもいろんな人種と関わりあって仕事してお金を稼がないといけないので、共通の道徳を知っておくことは対話の一手段として必要です。
禅も悪も存在しませんが、学校の教育で「そう思う」という人が多い考え方を押さえた上で自分の腹のうちも出していく、そういう波風の立ちにくい生き方ができるようにする。これが結局の教育の結果・成果なのだと思います。
学校の道徳を大人になっても守ったり無視したりもせずに、どう利用するかが大切です。
善悪を説明できないなら、なぜ善悪という言論が流布しているのか?と考え方を変えてみてはいかがでしょうか。(いわゆるプラグマティズムというか)
ありがとうございます。
非常に納得のいく回答でした。
何が正しくて何が悪いのか、最終的には分からないと思います。
物事は人々によってその善悪が左右されます。何かをしたらそのことを喜ぶ人もいれば悲しむ人苦しむ人が必ず出てきます。
だから、善悪を決めるのは他人ではなく自分です。自分の正しいと思ったことをして、してわいけないとおもうことはしない。それが、自分にとっての正義です。その正義は、自分以外のものに関わることで変化していきます。だから、親によって子供は違います。自分の正しいと思う正義を身につけるべきだと思います。
最後に、今の世界では法の下で人は無力です。でも、自分の正義を見つけない限り法も変わらないと思います。
ご意見ありがとうございます。参考にさせていただきます。
ありがとうございます。
世の中には、いいこと、悪いことは存在しない
正義と悪も存在しない
教育と洗脳は同じ意味の言葉である。
という仮説をたてました。
この主張のアラを探して欲しいのです。説明が足りずに申し訳ありません。