http://www.geocities.jp/ennohana/enisiguro463.htm
>10月に発表する「伊藤博文」についてmixi(ミクシィ)のなかに時々書きこんでいます。
私はアマノジャクですので定説的な伝記にはあまり興味がなく、
逸話や伝え聞きから、その人や歴史の本質を知りたい人間です。
イエスも釈迦もたとえ話や逸話によって真理を説かれたことに
興味があったのです。
それで見つけた本、「明治の人物誌」星新一氏著 新潮文庫の内容を少しご紹介します。
SF作家の星新一の父上は明治時代に活躍して一代で星製薬を築いた立志伝中の人物です。
彼の周辺にいた明治の政治家や有名人などとの関わりから明治の姿を
活写されてしています。
そのなかに「伊藤博文」がいました。
伊藤公は長州藩の農民の子供でしたが、
「あの子は将来きっと大物になる」と見込まれて武士の家、
伊藤家の養子となった。 しかしいくら才能があっても
下級武士で元・百姓ではうだつが上がらなかった。
星新一氏が取材で池波正太郎氏に会った時に言われた言葉。
「彼は幕末のころに、かなり人を殺しているようですよ」。
勤皇・佐幕の双方が殺し合いをして時代に、名を上げるためには
相手をこちらに引き入れるか、殺すしかなかった。
彼は人斬りが唯一出世の手段だった頃には人を殺して生きていた哀しい暗殺者だった。
彼は何度も血みどろの修羅場を切り抜けて生き延びてきた人間だった。
「切腹というものは、維新の時にたびたび見て、だいぶなれたけれど、
決していい気分のものではない」と語ったとか。
彼がさまざまな変名を使っていたのは、取り締まる幕府側の捕捉の対象であったためだ。
藩の上級武士たちに認められるためには、命がけの仕事に参加しなくてはいけなかったのです。
幸運にも何度も暗殺の危険をくぐり抜けてきて生き延び、
彼は明治の世に花開いた。 本当に幸運の人だった。
こんなエピソードが残っている。
中年になってからのこと、銀座を歩いていると、スリが彼のポケットに手を入れた。
その瞬間、その手をつかんで投げ飛ばし、露天商から縄を借りてしばりあげた。
驚くほどの早さだったという。
反射的に、そんなことをやってのけるほどの腕前の持ち主であった。
百姓から暗殺者となり、命を張って明治の世を作り上げ、
初代首相にまでなった伊藤という男は並々ならぬ力量をもっていた人物だった。
この人を無視して日本歴史は語れない、と感動しました。
百姓でも社会のリーダーになれる日本は世界でもまれな平等社会ではないか。
戦国の世を生き抜いた元・百姓の太閤秀吉もそうだ。
階級社会ではなく実力主義の日本社会の先進性を、
もっと日本国民は知らなくてはいけないと思う。
もっと祖国日本を誇ってほしい。
横浜の居留地のホテルに居た際、長州人だと気が付かれないように、ポルトガル人のふりをしたいたそうです。ウソみたいな話ですが。1864年6月のことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E4%BA%94%E5%82%9...
伊藤博文は女好きで多くの妾を持つほどの艶福家だったそうです。
以下下記URLより。
お相手はほとんどが芸者で、「公務の余暇に芸者を相手にするのが何よりの楽しみ」と公言してはばからなかったというから豪快です。
酒席には必ず芸者が侍はべり、同座した芸者は複数モノにしたといいます。
明治天皇もこの荒淫こういんには心配したようですが、自重した形跡はないようです。
それにしても、当時は何人の妾めかけを持とうが、芸者遊びをしようが自由な時代だったのでしょうが・・・・
明治天皇が心配するくらいということは、かなりのものだったのでしょうねぇ。
http://www.geocities.jp/bane2161/itouhirobumi.htm
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