果たして、山尾氏はいつ、この【蛍の光(の原曲)】を聴いたのか?そして日本人で初めて聴いたのか?その真相を確かめたく質問しました。情報、お待ちしております!!!
http://wownets.net/yamasa/kenkou.htm
更に読者は、日本人の心の琴線に触れ、誰からも愛される歌「蛍の光」が、山尾庸三と深い関係のあることを知り、驚かれたことであろう。そしてこの歌を唄う時には、若き日の山尾庸三が、遠くイギリスのグラスゴーで日本の明日を夢みて、刻苦勉励していた頃のことを偲んで頂きたいものである。
この記述によるとグラスゴーで聴いたように読めますが、詳しくは兼清正徳著『山尾庸三傳』(2003年)に書かれているようです。
図書館などで調べてみてはいかがでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%B...
ダイアーが初代都検として来日する機縁のひとつには、アンダーソン大学において山尾庸三とともに学んだことが挙げられる。
スコットランドのアンダーソン大学時代に聴いた可能性が高いようです。
グラスゴーで普通に聴いたんじゃないですかね。
http://www.geocities.jp/travel_scotland_and_england/LakeDistrict...
聴かなかったと状況的には反証するのは難しいような。
>文久3年(1863年)、密航でロンドン・グラスゴーに渡りさまざまな工学を学び、
>明治元年1868年に帰国。
密航でいってるので、留学かどうかは不明ですけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B0%BE%E5%BA%B8%E4%B8%8...
グラスゴーで何かの機会に耳にしたのだと思います。『蛍の光』の原曲は、スコットランドでは「またお会いしましょう」という意味でよく歌われる曲でしたし。
英語版ウィキペディア(下記)によると、原曲のAuld Lang Syneは、UKおよび旧英領の各国では大晦日が元日に変わる12時に歌われるほか、スコットランドではダンスの集まりの最後に歌われるそうです。ダンスの最後では隣の人と手をつないで大きな輪を作り、歌の最後で胸の前で腕を交差し、曲が終わるときには輪を作っていたみなが中心に駆け寄り、また輪を開いて、今度は交差してつないだ手はそのままで身体を逆に向けてみなが輪の外を向く、ということをするそうです。つまり、ダンスの集まりの締めとしてお約束の1曲で、振り付けもちゃんと決まっているようです。山尾がスコットランドにいたときに職場の人に誘われるか何かしてこのような集まりに行って、そこでこの曲を知った、と考えるのが自然なような気がします。
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