その中で≪唱歌≫という、今で言うところの音楽の授業が誕生したそうなのですが、何故、≪唱歌≫という科目が必要視され、誕生にいたったのでしょうか?
また、≪唱歌≫の教科書に掲載された歌のほぼ全てが、海外の民謡に日本語歌詞をくっつけたものなのだそうですが、何故そうなったのか、その〔理由〕や、〔実際に採用された外国民謡の選択基準〕等、当時の情報を教えてください!!!
教育を目的とした官製唱歌は文化の西洋化と共に、西洋の列強諸国に追いつこうとする国威高揚という面も多くあった。
http://www.sound78rpm.jp/page01_00.html
現在にいう唱歌がその進む道を明確にしたのは、1879(明治12)年10月、学校教材用の歌(唱歌)の作成・編さんと教師の養成機関として「音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)」が文部省内に設置されてからである。
初代所長となった伊沢修二は、アメリカ留学時代、日本が文化的に遅れているとの判断に立った人物で、情操教育としての音楽を国家レベルで国民に教えなくてはならないという理念の持ち主だった。
伊沢は、アメリカから自分の先生であったルーサー・W・メイソンを招き、さっそく新しい日本のための歌集の編さんに取りかかる。
唱歌は、その成立過程からいって、国家体制と不可分の仲にあった。日清・日露戦争の時代から太平洋戦争で日本が敗北するまで、唱歌にはたくさんの国威高揚歌や「君が代」「一月一日」「天長節」といった「儀式唱歌」があるのはそのためで、当時の子どもたちが軍国主義、国家主義に染まったその原因のいったんは唱歌にあった。
http://www.d-score.com/ar/A02011516.html
などの見解があるようです。
http://www.d1.dion.ne.jp/~kazubo_1/02-04.htm
・邦楽は教育に向かない
・オリジナルを作曲できるだけの人材が少ない
・純国産唱歌はあったが、現代では有名ではない
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