できないと言うよりも、しないのだと思います。
教育や道徳の分野で、目立つほど熱心に努力すれば、それがたとえ適切な努力、正しい努力であっても、
たいして評価されない一方で、強烈なアンチが増えてしまいがちです。
選挙の票などが減ってしまいます。
・目に見えないから。
・教育や道徳は「これをしたからこうなる」という事が必ずしもいえないから
(人を殺してはいけないのは誰だって知っているけれども殺人は無くならない)
・道徳は教えてどうにかなるものではない。
・教育は知育、体育、徳育からなりバランスが崩れるのは良いことではない。
文明の利器に囲まれ、情報に翻弄され、人間みな楽のできる生活に慣れてしまったからだと思います。
教育や道徳は、自分の身を削って他人を支える行為が大半を占めますが、いったん居心地のいい生活に浸ってしまうと、なかなか自分から厳しい状況に身を投じることができない。つまり、口先だけになり、「言うは安し行なうは難し」になってしまうのではないかと思います。
よって組織的にこれを実行するのは至難の業。
当然「隗より始めよ」ですけれど、価値観の共有ができていない状況では不可能でしょう。
小学校教員です。
「教育や道徳が一番重要だ」
……誰かそんなこと言ってましたっけ。
「道徳(または“規範意識”とやら)」が一番大事、とはよく言われますけどね……。
ともあれ。
教育にせよ道徳にせよ、大切なのが事実としても、問題は、
「じゃあ、道徳って具体的に何?」
という質問に誰も答えられないのが現実ではないでしょうか。
本当の教育、本当の道徳……といったものは、つまり
「真の正義とはなんぞや」
「人間に本当に求められる資質とは何か」
「本当の意味で優れた人間とはどのような人間か」
……といった問題に直結します。
言うまでもなく、これは人類史上だれも正解に到達したことがない難問です。
学者たち(主に人文系)が、長年群れを成してこの問題に取り組んでいますが、未だに答えは出ていません。
もちろん、ちょっとしたお偉いさん程度に答えられる問題ではありません。
つまり、
「もっと教育に力を入れよう」
「もっと道徳に力を入れよう」
と言うのは簡単ですが、
「具体的にどの部分に、どのように力を入れるのか?」
という問題になると、教育界内部でも全然意見が一致しないのです。
まあ、あと、教育には金がかかる、というのも大きな理由でしょうが。
お偉方が実行できないのは、甘えているからじゃないでしょうか。
人を教育するだけの器を持ち合わせていないので、
うるさく言うだけになってしまう。
本当に偉い方は教育が大事だと声高に叫ばなくても
周りにいる人たちにいい影響を与えることができたり、
導いたりできる。
道徳に関しても、道徳が大事だと叫ぶお偉方に
では、道徳の定義とは何ですかと聞くと
非常に漫然とした答えしか返ってこない。
お偉方ご自身が道徳に反しながら、
道徳に反している人間は
お偉方からすると使いにくいから
道徳が大事だと主張しなければならなくなる、
と言うのが実情ではないでしょうか。
政治家が最近「教育や道徳が一番重要だ」と言っているのは、政治事実の顕在化と潜在化に関する環境が、インターネット時代の到来によって根本的に変化をしてしまったがために、例えば顕在化イコール「インターネット界における『電波ナ人』とマスメディアにおける情報リークなどを意味する内容」と一致をし、潜在化イコール「インターネット界における『ゴミ箱やデフラグ、クリーンアップの使用』的な事とマスメディアにおける『情報操作と加工、隠匿』等を行う事」に意味が変化した事により、政治風土と哲学感が、現実に即して変化してしまったのを意味するからだと思われます。その実際の現実の推移であるところの大衆感と政治家達のマイノリティ感が、「教育や道徳が一番重要だ」と言わせている動機なのではないでしょうか?
「教育や道徳が一番重要だ」といっていますが、なぜそれを実行できないのでしょうか?との事ですが、悪を為す事自体が、政治的に権威を意味する事であり、力の保持を意味していたという時代が長く続いたからでありましょう。そういう時間性論理が支配的だったのでありましょう。未だにその権威にしがみ付く古い体質が、高度成長期時代の世相を反映した人を中心に、残念ながら残っているのであります。
絶対性情報収集器具(盗聴、盗聴器の使用など)の、その不使用の条件の徹底と、相対的情報収集器具(インターネット、他国の教科書の閲覧など)の積極的な政治目的活用への体制移行にも、政治倫理主張が起こる理由の背景に挙げられるでありましょう。
※ http://d.hatena.ne.jp/shincyan_98/searchdiary?word=%2a%5b%bb%fe%...
このページの上部の「はてな検索」で、「盗聴器」を[日記]キーで探して読むと、面白いかもしれません。
少しは世の中は、性善説回帰に振り返りだしているのかもしれません。
精神論だからだと思います。そのような人の多くは、解決のために資源(お金や手間)を投入するのではなく、誰かの犠牲的な行動なり彼らの脳内にだけ生息している悪人の駆除によって事態を改善しようと提言します。
攻撃する相手の多くは「行き過ぎた~」「~の行き過ぎ」という、一般論としてそれを是正することは好ましいものですが、現状についてのデータを冷静に分析するような手間をかけていないので、本当にそうなのか怪しいものが大半です。そういう虚像を相手にした「改善策」が実行可能な訳ありません。
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