結論から言わせていただくと、意図的に作られた伝説のようです。
ジンギスカン説を検証する:源義経(みなもとのよしつね)から学ぶ
この”源義経がジンギスカンである説”が爆発的に浸透したのは、小谷部全一郎が大正13年に発行した「成吉思汗ハ源義経也」がきっかけだ。
~中略~
チンギスハンの家系図は実際に判明しており、源義経とは全く関係ないことが分かっているのだ。
ともあります。
ただ、その伝説が作られた背景の検証サイトがいくつかあるのでご参照ください。
※毎日新聞も取り上げてるとは思いませんでした(笑)
類似質問もありました。
源義経 ジンギスカン説というのは 作り話だと思いますが なぜそんな伝説が生ま... - Yahoo!知恵袋
ちなみに別の説もありますので、挙げておきます。
…なんて言いながらも、個人的には「チンギスハーンだったらなあ」と願ってますけどね(笑)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1173615...
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/yositune.html
浪漫のある話ですが、創作という見方が一般的です。
「本当だという証拠」はありませんが「嘘だという証拠」もないのが現状のようです。
チンギスハンにはちゃんと両親がいますし、青年期までのチンギスハン史もちゃんとできています。
父エスゲイ、母ホエルンなど。特にエスゲイには先妻がおり、
もしチンギスハンが源義経だとすれば、義経が大陸に渡るまでのテムジンの話が全てうそだということになりますが、今のところそれを否定する証拠は存在しません。
エスゲイは、ナイマン族にわざわざ毒を盛られて暗殺されるほどに名の轟いた勇者だったのですから、彼の存在は否定されようがないと思います。
他にもソルカン=シラ、ボルテ(とその父)など、彼に関連した人物も多くいます
ほかに、同一人物説の根拠として「馬の扱いが巧みだった」といわれていますが、その頃の日本産の馬はポニーぐらいの大きさです。
日本人がいきなりサラブレッドに乗れないように、義経もモンゴル族ほどに馬を乗りこなせるわけがありません
コメント(1件)
http://www.gld.mmtr.or.jp/~shiho/homepage/mori.htm
すぐにも検索に出てきます。モンゴルの馬も小さいのです。日本の馬と比べるとかわりません。
【馬】で検索すると:
馬産に関しては、鎌倉時代・室町時代を通じて続く戦乱期には、優れた馬ほど武士に召し上げられて死ぬことにより、馬種の改良は進むというよりは、むしろ後退する有様だった。源義経の愛馬として名が残る青海波は体高が約140センチで大きな馬であったと伝えられるが、このサイズは現在のサラブレッドの平均的な体高である160~170センチと比べるとかなり小型である。ただし、モンゴルのような内陸ユーラシアの遊牧民の優秀な軍馬が必ずしも大型馬ではなく、小型馬であることも多かったことも考慮する必要はある。
とあります。全然理由になりませんよ。貴方に質問しますが、
1203年から1204年にかけて、成吉思汗はモンゴル部族の長テムジン(鉄木真)として、モンゴル高原の中央部でケレイト部族やタタール部族と戦闘しています。それなのに、1190
年から1202年まではユーラシア大陸の東端において、満州女直や高麗軍と戦争した記録が残されているのです。なぜ、そんなところまで行って戦争しなければならないのでしょうか。
モンゴル中央高原で生まれたテムジンが何故いきなりそんなところへ、いかなければならないのでしょうか。すぐそばにケレイトやタタールという強敵がいるのに。
系図の話は私はいくらでも編纂することが可能であったとおもいますし、血筋にうるさかったといっても、普通に女性の略奪や強姦のあった時代ですから、事実はどうだかわかりません。テムジンも妻ボルテを略奪されてますし。
「モンゴル秘史」が作られると、ペルシャでかなりたって「集史」が作られますが、中東ペルシャでしかも時間的に検証も不可能でしたでしょうから、詳細なものを作れるとはおもえず、「モンゴル秘史」を引用したに違いありません。次に続く資料もそうです。系図というのは「参考」にはなりますが、決定的な証拠にはなりませんよ。