いわゆる『なぜ人を殺してはいけないのか?』といったことを、これまでに質問したことのある方に質問します。
例えば、Aという学校では「染髪してはいけない」となっているとします。
またBという学校では「染髪を許可する」となっているとします。
この上で、A学校の生徒aが「なぜ染髪をしてはいけないのか?」という疑問を持ったとします。
aが、B学校の人に「なぜ染髪をしてはいけないのか? 染髪してもいいではないか」と聞いても、B学校には「染髪をしてはいけない」というルールはないので、適当な質問相手ではありません。
また、「なぜA学校では染髪をしてはいけないのか?」ということをB学校の人に聞くのも、おかしな話です。
aは、A学校の「染髪してはいけない」というルールに疑問を持ったのならば、A学校に質問するのが最も適切ではないでしょうか。
以上をふまえた上で、あなたは誰に対し、何を求めて、『なぜ人を殺してはいけないのか?』ということを、質問したのでしょうか。
決して馬鹿にしているわけでなく、純粋な興味からの質問です。
こんにちは。
中学生になるかならないかくらいの頃に、疑問を持ったことがあります。
ただ、前提として挙げて下さった「洗髪してはいけないBという学校に問わず、Aという学校に質問するのが適切ではないか」という点が、少し分からなかったです。
Aは殺人が罰せられる日本と読み替えていいでしょうか。
Bは、無政府状態の地域に置き換えていいでしょうか。
私は、親や信頼できる友人と議論したことはありますが、そもそも「ルールを決めた存在」(例の場合は学校)に対して質問したことはありません。そのため、質問にお答えするのが難しいなと感じながら、この文章をまとめています。ご質問の主旨とズレてしまったらすみません。
過去質問「倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「なぜ人を殺してはいけないか」を説明してください。 説明できない・いけない理由はない・ケースバイケース.. - 人力検索はてな」がありますが、倫理観や人生観を形作る際に、あるいは社会との関係を作る上で、「なぜそのルールに従うのか」を疑ったり、「殺してはいけないのか→殺したらどうなるのか」を熟慮することで衝動的に暴力を振るい取り返しのつかない事態を招くことの「歯止め」を作るための問いだと思います。言い換えると「殺してはいけない」という結論は決まっているのですが、どの道筋で考えたなら自分は納得できるか、ということを考えるための質問ではないかと、私は考えています。
長くなりました。整理しますね。
①あなたは誰に対し
親、友人、自分自身に対して質問しました
②何を求めて
質問したり疑問を感じた時には分からなかったですが、自分がどういう人間なのかを形作るための質問だったように思います。ルールを押しつけられたように感じる時期でもありますから、疑ってみる必要もあったのでしょう。
上記のように、様々な「殺してはいけない」理由が予想できますが、自分はその答えのどれなら納得できるのかを、探していたように思います。分からないから質問したというよりは、結論は変わらないけれど、納得できる道筋を求めていたように感じます。
以上、参考になれば幸いです。
時期が子供の頃なので、参考にはならないですかね。
親や祖父母が戦争経験者。
戦時中に、「戦争だ、敵だ」といっても同じ人間を殺すということが納得出来ずに徴兵に抵抗して、非国民として連れて行かれてしまった人の話を聞いたときだったと思います。連れて行かれた人は牢屋で死んでしまったというようなことだったような気がします。
その時に聞きました。
戦争で皆が人殺しをしているときに、それに加担せずに自分が死ぬほうを選んだことが、子供心に不思議だったので。
当然親に対してです。
「人を殺すくらいなら、自分が殺された方がまし」という選択をした人達に対する疑問としての、「(人を殺さないと自分が殺される状況なのに)なぜ人を殺してはいけない(人を殺すことを選ばなかった)のか?」ということでしょうか。
形としては、正当防衛の是非に繋がるような話なので、僕が求めた回答とは若干違いますが、何より僕の質問の仕方が悪いですね。
それに、求めた回答とは違っていると言っても、興味深い話なので、その質問に対してご両親がなんと回答したのか、教えて頂きたいです。
何故人を殺してはいけないのか? イヤ、殺しても良いでしょう。例えば死刑と戦争というシステムで殺してますよね。
人を殺してはいけない、と教えられるのに、人を殺す(社会的な)システムがある。
何故? というのが発端ですね。
これはもしかしたら、「人を殺してはいけない」という最初の命題が間違っているのではないか?
ということで、皆の知恵を借りるべく質問しているのでは?
もちろん、最初の命題が間違っている訳ですが、、、
回答ありがとうございます。
申し訳ありませんが、人を殺すことの是非についての回答を得るのは、この質問の目的ではありません。
死刑や戦争で「人を殺す」ことを、全ての人が良いと認めているわけでもないので、それらを例に「人を殺しても良いのだ」とするのも、賛成出来ません。
(死刑や戦争で人を殺すのもいけないけれど、いけないことをしている人がいるだけという言い方も可能なので。ですが、僕自身は人を殺してはいけないと主張するつもりもありません)
>これはもしかしたら、「人を殺してはいけない」という最初の命題が間違っているのではないか?
>ということで、皆の知恵を借りるべく質問しているのでは?
「人を殺してはいけない」と教えられたが、世の中を見てみると、人を殺している人(システム)がいる。
ならば「人を殺してはいけない」というのは間違っているのではないか? ということですよね。
ですが、
「物を奪ったり盗んではいけない」と教えられたが、世の中を見てみるとスリ空き巣置き引き万引き恐喝強盗のオンパレード。仕舞いにゃ国ぐるみで恐喝して正義を語る始末。ならば「物を奪ったり盗んではいけない」というのは間違っているのではないか?
と、「なぜ物を奪ったり盗んではいけないのですか?」という質問が出てきても良さそうなのですが、あまり見かけません。
この辺の違いも、「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と質問をした人に、「なぜ『なぜ人を殺してはいけないのですか?』と質問したのですか?」と聞きたい理由の一つです。
中学生くらいのときに「なぜ人を殺してはいけないか」と考えたことはあります。しかしそんなことを親や周りの人に聞いたら心配されそうだと思って、自分自身の中で問いかけるにとどめていましたが。
そんなことを思ったのは、たぶん質問者と同じで、「他人を殺してはいけない」ということが大勢の共通認識としてあることは知っていて、自分も漠然とそれが生きていくルールだと感じつつも、何が理由なのか納得ができなかったからだと思います。自分は殺されたくない。けど、そのささやかな希望を満たすための拠り所が、それこそ、先の方の回答で紹介されている「法律や宗教で決められている」という理由だけでは納得できなかったのだと。当時の自分の認識では、宗教なんて胡散臭いし、法律だってどこかの偉い人が勝手に決めてるだけだろう、と感じていたのでしょう。
ちょっと前に森博嗣の「黒猫の三角」を読んだのですが、そこでこのテーマについてはっきりと言語化されていて納得した覚えがあります。原本がないので不正確かもしれませんが、確か「他人を殺していけない理由はない。ただ、自分はまだやりたいことがあって、殺されたくない。なので、自分はあなたを殺さないから、あなたも私を殺さないで、という極めてエゴイスティックな希望を現代社会ではルール化した」といった内容だったかと。本能とかではなくて、単に個人個人の利害が合致してルール化されただけ、と。(これが「倫理」の定義か?)。
現代日本ではおそらくもうないと信じたいですが、たとえば「生贄」や「姥捨て山」の習慣なんかは、「他人を殺してはいけない」の範囲外ですよね。「戦争」「死刑」「復讐」もそうでしょう。これが質問者の「B学校」に当たるのでは。そういった社会で「なぜ人を殺してはいけないのか」とたずねたところで、「特定の場合には他人を殺しても良い」と答えられるでしょう(ただ、実際に聞いてもそんな風に答えられないでしょうが・・・)。
こう考えると、「A学校」にあたるのは、自分も含め「人を殺してはいけない」というのが社会のルールであると認識している社会。上の方も答えていますが、厳密に言えば現代日本にも「死刑」という「特定の場合には他人を殺しても良い」というルールがありますので、100%「A学校」ではないかも。ただ国レベルではなくて、コミュニティ・レベル、各家族のレベルではそういう共通認識があるところがほとんどでしょうから、身近な方にこの質問をぶつけるのは「おかしな話」ではないと思います。
ただ、自分の考えもそうですが、答えは結局「それはルールだから」で終わってしまいますが・・・。
回答ありがとうございます。森博嗣が出てくるとは思いませんでした。瀬在丸紅子さんですね。
法律、宗教等では納得出来ない。それでも殺されたくはないから「人を殺してはいけない」というのは絶対であって欲しい。
そういう人が、「人を殺してはいけない理由」を求めて、質問(yuriyさんの場合は外に対してではなく自問ですね)するというケースでしょうか。
質問文中の例えが悪くて申し訳ないのですが(今からでも訂正したいくらい)、コメントに書いたように、
質問者本人が納得する答え自体が個別に違う上に、質問の対象によって正解が変わる質問(宗教的回答と、法的回答では違うように)なのに、なぜ何度もこういった質問が出るのか、不思議でなりません。
というのが、今回この質問をした主な理由です。
森博嗣風に言うなら、「なぜ人を殺してはいけないのか?」よりも、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と尋ねる、そのメカニズムこそが面白い。といった所です。
では、少し切り口を変えましょう。
現在の我々の、社会的、道徳的な規範の中で、殺人が最も罪深い(タブー度が大きい、心理的な抵抗が最も高い、うーん、こういうのをなんと表現すれば良いのかしら)もの
とされているので、規範の意義を問う時に殺人をテーマにあげるのが最も判りやすい、ということです。
質問自体は何でも良いと思います。「どうして盗んではいけないのか」あるいは「どうして親を大切にしなければならないのか」、あるいは、「何故、校則では髪を染めては
いけないのか」
「校則で髪をを染めることを禁止する」ことの是非については、回答する人の価値観によって議論百出するでしょうが、殺人の是非については、まず、誰もが一致して非と答
えるので、規範の意義を問う時の問いとして選ばれやすい、ということです。
シンプルで強力な質問ですよね。だからこそ、何度も何度も繰り返し問われるし、様々な回答が寄せられるのだと思います。
ご丁寧に回答ありがとうございます。
「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と質問する人は、「~してはいけない」という規範の類全体に疑問を感じ、「なぜ~してはいけないのですか?」と問うているだけで、~の部分は「人を殺す」ということでなくとも構わないということでしょうか?
ただ、「人を殺す」というのが、最もタブー視されていて、わかりやすいから選ばれているというだけで。
質問する人の心境は、お仕着せのルールに反発したくなる、そんな15の夜って感じなのですかね。
他にも実際に質問したことのある方、まだまだ回答お待ちしていますのでお願い致します。
歎異抄に親鸞聖人と唯円のやりとりのなかに「往生極楽のために人を千人殺すべし」というくだりがあります。
唯円は驚いて、「私の器量では一人も殺すことはできません」と答えました。そのとき親鸞聖人は「わが心の善くて殺さぬにあらず」と仰せられました。世の中には残忍非道な振舞をしてはばからない人がいます。何とひどい人間だろうか、と心憎くさえ思います。
一方この私はとても人を殺めることなどできない、と思っています。しかしそうではない「害せじとおもふとも、百人千人殺すこともあるべし」と聖人は示されました。縁が整えばどのようなことをするかわからないのが、この私であるということなのです。
恐ろしいと思って熊を撃ち殺すのも私の姿であり、母を亡くして不憫に思って子熊を育てるのも私の姿であります。
結局、正しいと思っていて行なっている事が、本当は違っていたり、悪い事をしていると思っていた事が、結果的には、いい事だったりすることもあります。
日本にもそういう時代がありました、第二次世界大戦はそういう時代であり、お国のために自らの命を犠牲にし、敵を殺す事で、栄誉、勲章を与えられた、時代でした。
Aの学校とBの学校は、そういう国の事情、状況、思想、だと考えればどうでしょうか?
人を殺すことは、悪い事です。それは間違いなく、当たり前に誰もが思っている事です。でも、わが心の善くして殺さないわけではない、縁が整えばどのようなことをするか分からないのが、人間だと言う事を、教えるのも教育だと思います。
質問の際、校則だの学校だのの稚拙な例えを出したせいで、質問の主旨が不明瞭になってしまいましたね。すみません。
質問の主旨を簡潔に延べると、
これまで「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と質問したことのある人、なぜそういう質問をしたのですか?
ということです。
人を殺すことの是非は、求めていませんのであしからず。
わかりにくい質問ですみません。
回答ありがとうございます。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問は、『人を殺してはいけない』ということ自体に疑問を持って発せられているというよりも、『人を殺してはいけない』というのは前提として「自分が納得できる『人を殺してはいけない』理由」を求めて発せられているという感じですね。
僕自身も、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問う人は、『人を殺してはいけない』ということ自体が気に食わず(人を殺したいのに禁止されるなんて納得出来ない等)質問しているというよりも『人を殺してはないけない』ということは当たり前のことと受け入れた上で「それに納得出来る理由を見つけられない自分」に不安を感じ、「なぜ」と疑問を発するのではないかと考えています。
他にも、違った理由で「なぜ人を殺してはいけないのか?」と質問した経験のある方、回答お待ちしています。