インド独立は1947年ですが。
もちろん、ガンジーのカリスマ性とかも無視できませんが、たぶん、宗主国イギリスがもう限界だった、ということも大きいかと。
アジア植民地では緒戦に日本軍相手に敗退を続け、もはやアジア植民地をイギリスが軍事力で守る(あるいは支配する)ことが不可能だ、というのは明白になっていました。
これが結局はアジア各国独立の契機となるわけですが。
……まあ、結果だけ見ると、大日本帝国が「アジアを欧米の鉄の鎖から解放する」ことに成功した、というか……。
インドそのものは戦場ではなかったとはいえ、マレーシアもシンガポールも独立させるけど、インドはさせないよ、というのはまあ無理でしょう。
以前から相当の独立運動があったわけですし。
(インド独立、というとガンジーが有名ですが、武装闘争をしてる人達もかなりいた)
これに対して、チベットはちょっと状況が違います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%8...
初期においては、中国共産党は、「民族自決」の精神の元、チベット(など)の自治権を認めていました。
これが、国共内戦に勝利して中華人民共和国を建国する直前から、じりじりと厳しくなっていくわけですね。
共産党軍がチベットに軍事侵略をしたのは1950年になってからですし。
(それ以前から、国民党の支配下にはあった)
だから、「もう俺は独立運動の相手する余力がないよ」という隙がない。
それに、国内にいたガンジーと、国外に亡命したダライ・ラマでは、やっぱり国民に訴える力が違うと思います。
非暴力というか、インドにいたんじゃ暴力を振るいようがない。
さっきのWikipediaを見ても、「どこまでが“チベット”の範囲なのか」といった問題について、亡命先への政治的配慮があったりとか。
(まあ、吐蕃王朝の範囲全部、とか言われても、広すぎて手に負えないわけですけども)
それにまあ、国民党以前、チベットが独立していた時代も、それほど結構な生活ではなかった、ということもある……んでしょうか?
(「ダライ・ラマ独裁下でチベット人民は悲惨な生活を強いられていた」というのは、中国共産党のプロパガンダと一緒なので、どこまで信用していいのか解りませんが……)
当時の印度は、イギリスの植民地に過ぎません。第2次世界大戦後、全世界範囲内の民族独立運動の一部として独立を果たしたのです。
なお、チベットは印度と違って、中国の植民地ではないのです。清国や中華民国の時でも、中央政府の統括の下でした。中華人民共和国がチベットへの実質当時は1950年からです。その時、ダライ・ラマ本人も国会議員に相当する中国人民代表の一員でした。
今のチベット独立運動は、1955年から1959年、中華人民共和国のチベットへの管理方法について、異議があったから、独立を目指そうとしているものです。
つまり、中国内の一部が独立を目指そうとして、海外で別の政府を作っただけです。
国連でも、チベットは中国の一部と認めています。
中国中央政府と亡命チベット政府の間に、どういう風にチベットの文化・風俗を保護して管理していくのかを協議し、一致すれば、独立しないじゃないかと思います。
一番の問題は、文化大革命の時と同じ、如何に文化を守るのかは焦点と思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%8...
インド=植民地→独立、チベット=統括下→独立しようとした。
「独立国として存在していたチベット」とあったので、元々別国家かと思っておりました。回答ありがとうございます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%8...
チベット3州での死者数(チベット亡命政府のまとめ)
ウ・ツァン カム アムド
合 計
拷 問 93,560 64,877 14,784 173,221
死 刑 28,267 32,266 96,225 156,758
戦 闘 143,253 240,410 49,042 432,705
飢 餓 131,072 89,916 121,982 342,970
自 殺 3,375 3,952 1,675 9,002
傷害致死 27,951 48,840 15,940 92,731
合 計 427,478 480,261 299,648 1,207,387
刑務所や強制労働収容所での死亡事例 チベット亡命政府 情報・国際関係省著「チベット入門」より抜粋
ガンディーとチベットの違いではなくそれを取り巻く環境の違いではないでしょうか。
イギリスは帝国主義ではあるものの民主主義の国です。中国は社会主義の国ですからその辺の違いではないでしょうか。
そのほかにもガンディーは民衆運動でありチベットは宗教運動ですから動かせる人間の頭数がガンディーのほうが多かったというのも
あるのではないでしょうか。
URL必須ですので自サイトを貼らせていただきます。
イギリス=民主主義、中国=社会主義、
ガンディー=民衆運動、チベット=宗教運動
が原因のひとつだったということでしょうか。回答ありがとうございます。
URLは意図的に必須にしていますので、できれば関係のあるサイト(既出でないURLで、関係が少しでもあるサイトであればなんでもいいです)をできれば張ってほしいなと思います。
Amazon.co.jp: 囚われのチベットの少女: 本: フィリップ ブルサール,ダニエル ラン,Philippe Broussard,Danielle Laeng,今枝 由郎
http://cruel.org/economist/tibet.html
中国以前のチベットでは、チベット仏教による統治は奴隷制度に近かったとか。
ガンジーによる侵略者イギリスに反する民衆運動と、チベットの権力者交代に対する、元権力者による新権力者中国に対する反発の違い。
独立インド政権>イギリス統治、新権力者中国>前権力者チベットなんでしょうか。
回答ありがとうございます。よくわからなくなってきました。
「平和解放以降の半世紀余りの間に、チベットのチベット族人口は倍増し、嬰児死亡率は1959年以前の43%から3.1%に下がり、人口の平均寿命は35.5歳から67歳に延びた。」
http://japanese.china.org.cn/life/archive/xizang05/node_2234044....
「近年、継続する中国人のチベットへの人口移入によって、チベット人が自らの地で少数派になっているという現象がおきている。」
回答ありがとうございます。
「紳士の国」と「違法コピー大国」と判断する根拠は何なのでしょうか。
URLは意図的に必須にしていますので、できれば関係のあるサイト(既出でないURLで、関係が少しでもあるサイトであればなんでもいいです)をできれば張ってほしいなと思います。
インド独立は1947年ですが。
もちろん、ガンジーのカリスマ性とかも無視できませんが、たぶん、宗主国イギリスがもう限界だった、ということも大きいかと。
アジア植民地では緒戦に日本軍相手に敗退を続け、もはやアジア植民地をイギリスが軍事力で守る(あるいは支配する)ことが不可能だ、というのは明白になっていました。
これが結局はアジア各国独立の契機となるわけですが。
……まあ、結果だけ見ると、大日本帝国が「アジアを欧米の鉄の鎖から解放する」ことに成功した、というか……。
インドそのものは戦場ではなかったとはいえ、マレーシアもシンガポールも独立させるけど、インドはさせないよ、というのはまあ無理でしょう。
以前から相当の独立運動があったわけですし。
(インド独立、というとガンジーが有名ですが、武装闘争をしてる人達もかなりいた)
これに対して、チベットはちょっと状況が違います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%8...
初期においては、中国共産党は、「民族自決」の精神の元、チベット(など)の自治権を認めていました。
これが、国共内戦に勝利して中華人民共和国を建国する直前から、じりじりと厳しくなっていくわけですね。
共産党軍がチベットに軍事侵略をしたのは1950年になってからですし。
(それ以前から、国民党の支配下にはあった)
だから、「もう俺は独立運動の相手する余力がないよ」という隙がない。
それに、国内にいたガンジーと、国外に亡命したダライ・ラマでは、やっぱり国民に訴える力が違うと思います。
非暴力というか、インドにいたんじゃ暴力を振るいようがない。
さっきのWikipediaを見ても、「どこまでが“チベット”の範囲なのか」といった問題について、亡命先への政治的配慮があったりとか。
(まあ、吐蕃王朝の範囲全部、とか言われても、広すぎて手に負えないわけですけども)
それにまあ、国民党以前、チベットが独立していた時代も、それほど結構な生活ではなかった、ということもある……んでしょうか?
(「ダライ・ラマ独裁下でチベット人民は悲惨な生活を強いられていた」というのは、中国共産党のプロパガンダと一緒なので、どこまで信用していいのか解りませんが……)
回答ありがとうございます。
インドの場合はイギリスの植民地政策が限界に達していたが、チベットの場合は中国国民党→中国共産党が力を維持している
ガンジーはインド国内にいたが、ダライ・ラマはチベット国内にいなかった
というのが原因のひとつでしょうか。
中華民国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%B...
中華人民共和国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%9...
素っ気無い言い方で恐縮ですが、「非暴力と独立自体が無関係」だからではないでしょうか。
>ガンジーの嫌いなインド人
http://homepage2.nifty.com/xial/essay/zakkan3.html#subsec10
イギリスが撤退したのは、イングランドだのより遥か遠方で東インド会社を使っての植民地支配の採算があわなくなったという「現実的な事情」からであって、
ガンジーの非暴力主義やイギリス側ヒューマニズムなどの思想面はインド独立起因ではなく
(だったらそもそもイギリスが他国の侵略植民地化やアヘン三角貿易などする筈がないので)、
大英帝国時代から弱体化してウェストミンスター憲章を飲まされ、イギリス連邦になりさがった懐事情タイミングにたまたまガンジーが居たというだけで、別の運動題目(例えば不服従だけとか)でも大差なかったのではないでしょうか。
イギリスとしては自分達が弱体化してるということが前面に出ることでなく「人道的理由だったというプロパガンダ」を行うメリットがあったのでしょう。
一方でチベットは分離独立を掲げているものの中国と地続きですし、ブータン、インド、ネパール含め地政学的にも重要な為に、中国は核まで置いて押さえる必要のある所なので、中国自体の弱体化が起きるまでは手放す事はないでしょう。
回答ありがとうございます。
元々「非暴力」によって独立したのではなく、イギリスが弱体化していることを隠すプロパガンダだったということでしょうか。
暗闘うず巻くチベット活仏の亡命
http://www.world-reader.ne.jp/renasci/now/s-tanaka-000131.html
回答ありがとうございます。
インドの場合はイギリスの植民地政策が限界に達していたが、チベットの場合は中国国民党→中国共産党が力を維持している
ガンジーはインド国内にいたが、ダライ・ラマはチベット国内にいなかった
というのが原因のひとつでしょうか。
中華民国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%B...
中華人民共和国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%9...