例えば線の長さと線の長さを賭けると面積になります。また長さ ÷ 時間は速度になります。『数学入門』(岩波新書、遠山啓著)によるとかけ算、割り算は「新しい量をつくりだす力を持った演算なのである」とあります。
この、かけ算はなぜ新しい量を作ることができるのか、について考えているのですがまだ納得できていません。
同じ『数学入門』の P.70 には「かけ算の規則は他の規則から論理だけの力で導き出せるものではない。それは分数のかけ算の規則と同じく、無数の実例からぬき出されたものである。」という記述があります。これを読むとかけ算は過去の歴史において「新しい量を生み出すための演算」として発明されたのではなく、単純に「足し算の繰り返し」として発明された演算が、どういうわけか異なる量から新しい量を導くことに使えることが分かった、という偶然の産物のように思えてしまいますが、実際のどころはどうなのでしょうか。
「掛け算」自体は,質問文にありますように「足し算の繰り返し」であり,それ以上でもそれ以下でもないと思います(割り算は単に掛け算の逆演算).
で,「新しい量をつくる」云々の部分は,積分が「新しい量をつくる」演算であること,積分のある特殊な形式(定数による積分)が掛け算として計算できることによるのだと思います.すなわち,速度と時間を掛け算して距離を出す,という掛け算を行うことは,実際には速度を時間で積分する,という演算をしていることになります.
#概念的には積分を使っているので,難しく感じるのは自然なことかと.
ただ,ここまでが私が回答できる限界で,「なぜ積分が新しい量をつくる演算であるか」については答えを持っていません.そもそもそれが積分の目的,と言ってしまえばそうなのですが….
ピタゴラスの定理(直角三角形の面積)がピタゴラスによって発見されたように、実際に仕事をしながら発見されて来たのだと思います。
ピタゴラスの定理:
http://www004.upp.so-net.ne.jp/s_honma/pythagoras/pythagoras3.ht...
面積は足し算の繰り返しでは表現出来ません。やはり、こう扱うと便利だと発見されたのだと思います。
「新しい量を導くことに使える」と発見されたものでしょう。過去の膨大な知識を下敷きにして発見したものと考えられます。
なるほど、やはりそうですか。
いきなりですが、自分語り失礼します。
自分は小学生のころからかけ算による単位算が苦手です。というのも、なぜ距離と時間と速度と、異なる量を演算することで答えが導き出せるのかを考えると混乱してしまうのです。
過去の実例でそういうものが見つかったからそうである、というのが本当のところとは分かっていても、もしかしたらもっと意味的なものがあるのかもしれないという期待を持っていまして、その期待が叶えば掛け算に対する苦手意識も解消できるのではないかと思っています。
ほかの方も、引き続き回答お待ちしております。
新しい量とは単位のことを言いたいのではないでしょうか。
線の長さ(m)×線の長さ(m)=面積(m^2)
長さ(m)÷時間(s)=速度(m/s)
量の足し算は単位が変わりませんが,量のかけ算は単位が変わります。
これは答えの量が違う意味を持っているということです。
そうなんです。それで、答えの量が違う演算はなぜかけ算によって可能か、またかけ算がなぜそのような演算を表現するかについてが疑問です。
逆に考えることもできるのではないでしょうか。
かけ算や割り算(特に割合の計算等)で生まれたものに新しく意味を付与しているものだとも考えられます。
長さと、その長さ進むのにかかった時間がわかっているとして、単位時間あたりの移動距離が考えられます。これはまだ速さをあらわしているわけではありません。
割り算でえられたものはあくまでも単位時間あたりの移動距離なのですが、単位時間で5m進むものと10m進むものを考えた時に目で見て速さが違うことがわかります。それを『速さ』を比べるものとして利用したと考えてみるとか。
ぱっと他の具体例が出ないのでとりあえずこれだけ。
確かに。そもそも長さや重さといった単位は、連続量を計算で扱えるよう単位を決めたもので、単位を決める = 意味付けだとすると、そのかけ算の演算結果にも何かしらの意味づけをするように拡張するのは自然な流れですね。これはとても納得がいきます。
掛け算だから、割り算だから と言うよりは単位をそのように定義したからでは?
速度を表すのにどのようにしよう?
1時間でどのくらい進むかを単位に決めよう。
時間当たりだから、距離/時間 になる。
と言うことで割り算が使われる。
意味からいえば1時間当たりと言う単位を考えて
1/時間
として、これに距離を掛け算すれば速度になると考えても良いですよね。
速度=1/時間×距離
やはりそういうことになりそうです。特に速度や密度、面積のような単位は、明確にそうであるように思います。
ところで、物理学的には長さ、時間、質量の三つの量を定義すれば、そのほかのすべての量は掛け算、割り算によって作ることができるそうです。この「長さ、時間、質量」と「人がそのように決めた単位」というものがどうしてかけ算でつながるのか...などと考えているとまだ少しモヤモヤが残ったような感じです。
「数値」と「数量」の認識です。数値は無次元なので掛け(賭けではありません)ても割っても数値です。
数量は次元(ディメンション)があります長さ×長さ=面積、次元の異なる数量は加える事や差し引くことはできません。
掛けたり、割ったりすると新しい次元の数量が生まれるとはそういうことです。
例:面積(L*L)と体積(L*L*L)の足し算は意味がありませんが体積を面積で割ると長さ(平均高さ)が求められます。
普通、計算するときは「数値」で計算し後でディメンションをつけますが、それぞれの項のディメンションが全て一致してなければ和、差は計算できません。そこのところをいい加減に考えているとえらい目にあいます。
次元を軸に、というのは体系化された考えてとてもよいですね。ありがとうございます。
あとは、なぜかけ算という演算が次元を上げる働きをするかが気になるところです。
「掛け算」自体は,質問文にありますように「足し算の繰り返し」であり,それ以上でもそれ以下でもないと思います(割り算は単に掛け算の逆演算).
で,「新しい量をつくる」云々の部分は,積分が「新しい量をつくる」演算であること,積分のある特殊な形式(定数による積分)が掛け算として計算できることによるのだと思います.すなわち,速度と時間を掛け算して距離を出す,という掛け算を行うことは,実際には速度を時間で積分する,という演算をしていることになります.
#概念的には積分を使っているので,難しく感じるのは自然なことかと.
ただ,ここまでが私が回答できる限界で,「なぜ積分が新しい量をつくる演算であるか」については答えを持っていません.そもそもそれが積分の目的,と言ってしまえばそうなのですが….
おおお、そうなんですか。積分までいって戻ってくると良いのですね。ありがとうございます。
最近読んだ数学の本はこの「なぜ」の類に言及した良い本だったのですが微分までで、数学入門はまだ積分のところまで読んでいなかったので、ちょうどぽっかりあいた穴のところに自分はいるのかもしれません。
悩まれるのは正しいことだと思います。
数学の場合は所々に矛盾があったりします。
例えばゼノンの逆理の「飛ぶ矢や止まっている」
ある一瞬を考えるとその時の矢は静止している、しかし静止しているものは動くはずはない。
これは、直線の傾きを考える時、2点を通る直線は引けますが、ある点での傾きを引くことはできない(1点を通る直線は無数に引けるため)ことを意味します。
ゼノンの逆理は「運動している物体のある点における速度を求めることはできない」ということを意味します。
小学校でならう「速さ=道のり÷時間」という式も時間が0になる「ある一瞬」の速度は求めることはできない。しかし、等速運動の場合は常に同じ速さなわけだから「ある一瞬」の速度も同じ速度になるという矛盾が生じるわけです。
同じように線を集めて面にするといっても線とは幅の無いものなので線をいくつ集めても面にはならないわけです。
これは静止した矢を集めても運動にならないことと同じです。
また、平面には厚みがないので平面をいくつ集めても立体にはなりません。
次元が変わる場合には、運動のように「静止かつ動いている」という矛盾した状態が必要になります。
線が「幅がなくかつ幅がある」という状態を持たなくては面にならないのと同じです。
これは微積分が見つかる前までは、矛盾であるとされていたのですが、「もし、分母が「0かつ0でない」という状態を許したらどうなるか」と考えて「極限」の概念でその矛盾を回避しているわけです。
ありがとうございます。
より高度な概念が基礎的な概念を補強する、というのは物理の世界ではよくありそうな話ですが、小さな論理の積み重ねで大きな論理を導く数学の世界ではそう多くないのかと思っていました。
大学受験までの数学ではなかなか微積分に行ってから小学生で習った四則演算まで遡る、という機会もありませんでしたから、こうしてその機会が得られている今は幸せです。
それから有限な世界で無限を扱おうとしているから諸所に矛盾が出るのだろうなということもなんとなくわかってきました。
“かけ算はなぜ新しい量を作ることができる”というのも一般的に成り立つわけではなくて、対応する物理量が存在する場合に限られるように思います。
長さ×長さ、が面積
長さ×長さ×長さ、が体積
というのはいいとして、
長さ×長さ×長さ×長さ、は何でしょう。四次元立体の体積かな。
他にも、質量×長さという掛け算の結果には対応する物が無いような気がします。これが質量×速度ならば運動量と呼ばれる物になるのですが。掛け算という操作は実際の何らかの行動を抽象化したものなので、そういう意味でも掛け算が何を表すかということは場合によるのではと思います。
足し算の場合でも同じで、たとえ同じ物理量同士でも40度と70度のお湯の温度を足すことは出来ません。
確かに。
対応する物理量が存在する場合、というのは数学的にどう説明がなされるのでしょうね。
かけ算して単位の違う量を出す計算の背後には、単位の違う量の間の比例関係があります。
例えば大昔、人は歩く時間と歩いた距離が比例することを見つけて、この比例係数を速度と命名しました。これを時間に掛ければ距離が出るという便利な量です。
同じように、無関係に見える量が比例していることを見出して物理学の大発見となる例が多くあります。光の振動数と光子一個のエネルギーが比例することが発見され比例係数はプランク定数と命名されました。また遠くの星ほど速く遠ざかっていることが発見され、その比例係数はハッブル定数と命名されました。ほかにもボルツマン定数とかいろいろあります。有名なの場合は比例定数が既知の光速という量だったためアインシュタイン定数という名前にはなりませんでした。
おお、なるほど。比例関係が実際から発見されて数学に結び付けられていったんですね。この観察的な側面と、次元の上げ下げの話のような理論的な側面とがなぜか一致しているというのが不思議でもあり、面白いです。
まだ、どなたも書いていらっしゃらないので、ちょっとだけコメントさせていただきます。
「かけ算」は、元来、確かに、「足し算」の繰り返しとして考え出されたものであることに議論の余地はないと思いますが、数学の発展の過程で、マイナスや虚数といった概念が生み出されてからは、単に足し算の「繰り返し」に還元できるものではなくなっています。
たとえば、5x(-3)は、もはや5の足し算を-3回繰り返すという風には解釈できません。逆に-3回というものをここから無理矢理定義することは可能ですが・・・。
同じように、ベクトル量(複素数)のかけ算なども、外積(ベクトル積)、内積(スカラー積)と、違った定義のかけ算が出現しますし、小学生、中学生の理解するかけ算とはかけ離れた概念になっていると思います・・・って、話が難しくなりすぎますね。
ある意味では、「かけ算が足し算に還元できる」という発想を超えたところに、「かけ算」が新しい概念たる所以があると私は思います。
話が難しくなっていて、正確に伝わるかどうか、不安ではありますが・・・。
丁寧な説明、ありがとうございます。わかりやすいです。
ちょうど数学入門を読み進めていたところ、マイナスや虚数がなぜ必要だったか(+, x だけなら自然数で簡潔する → x の逆演算の ÷ が登場すると分数を導入する必要がある → + の逆演算の - が登場するとマイナス → 四則演算の逆演算 = 代数方程式を解こうとすると虚数が必要 ...) という解説があり、演算を逆演算に拡張したとき、数の世界が同時に拡張された、という話がありました。
このあたりも、発見の経緯と、その後の数学の拡張で、もともとの演算に新しい意味が付け加える過程だと思いました。このように数学の世界で、は意味や機能が後付けされることがよくあるというのがわかってきて、「掛け算を繰り返しの演算」と捉える以上のことを受け入れることができるようになってきました。
おおお、そうなんですか。積分までいって戻ってくると良いのですね。ありがとうございます。
最近読んだ数学の本はこの「なぜ」の類に言及した良い本だったのですが微分までで、数学入門はまだ積分のところまで読んでいなかったので、ちょうどぽっかりあいた穴のところに自分はいるのかもしれません。